2.眠れる小屋の、王子?
乳鉢から煎じ終えた薬草を薬包紙に移す。ふわりと立ち昇る苦い香り。熱冷ましと気付け作用のある薬草の香りにふと思いついた。スフの種はどうだろう。
調合台にはよく使う薬草しかないので、倉庫へと走ることになる。朝、曇っていた空からは数時間前から雨が落ち始めた。強くなる雨足を避けて建物の軒をつたい、畑に隣り立つ小さな土蔵に着いた。湿気が入らぬ様に小さく開いた扉から滑りこみ、迷うことなく目当てのものを掴む。小さな小瓶のスフの種は鮮やかな朱色を放ち底のほうでひっそりと眠っていた。
「おはよ。よろしくな」
視線の高さに上げた小瓶に挨拶し、また雨の中を戻る。
天気のもつうちに運べてよかった。
ポクくんの家から病い人を馬台に乗せ我が家に着いたころ、ようやく雨が落ちた。
シイの葉で編んだ雨傘を差し出すのを笑顔で固辞し、頼みますと一言だけ残して去ったポクくんの父親を思う。
彼らの為にも手を尽くさなくてはならない。
思いを新たにして、薬研を押す手に力を込めた。
なのに、やっぱり……
「効かない、か」
自分の寝台に寝かせた男は苦しく表情を歪めたままだ。普通の薬司のように身体の検診だけで判断し、経験から調合した薬を飲ませた。しかし、効いてくる様子は一向に現れなかった。
老師から目診に頼るなとよく言われたことが、今身に染みた。しかし、目診ができないだけが原因ではないとも思う。
噴き出す額の汗を冷やした布で拭ってやる。あいかわらず奇妙な気配を放つ男だが、はじめの衝撃はようやく薄れていた。動揺することなく処置はできる。
魂の器がからっぽなことが、この高熱の原因だ。
まさか、この高熱で死者ではなかろうが、生者の器に核がない訳が知れない。
寝台の横の床に座り込み、少しでも苦しみを和らげようと手を尽くす。脇の下に挟んだ熱冷ましの葉を変えるためにたらいにはった冷水で皮布を絞っていて、一つの事象を思い出した。
まだ学舎にいたころ、興味本位で読み漁った他国の書物にあった古い呪術紛いの療法。かえりみれば自身の力に奢っていたのだろう。できると踏んで試した結果、身体に大きな傷を負った。老師から破門の言葉がでるほどの叱責を買い、二度と手を出さぬと誓わされた。
あれは、どうだろうーー
ぱん、と強く頬を叩く。
だめだ、馬鹿なことを考えるな。あれは呪だ。私は
運がよかっただけで、施した主の身さえ滅ぼしかねないと言われただろう。
ふるふると首をふって作業の続きに戻る。目の前の男はやはり荒い呼吸を繰り返していた。
3日経った。
寝る前を惜しんで繰り返した調合の跡が室内に残る。混じる香り、煙の染み、薬研を押しすぎ傷めた腕。
しかし、寝台の男は変わらぬ高熱が続いていた。荒い呼吸がおさまってきていることに、焦りを感じた。体力が消耗しているのだ。
無力さに苛まれ床に座り込み男の様子をみていたとき、不意にかっと、息だろう音を放ち男がぐたりと寝台に沈み込んだ。
危ないーー
命の残火を悟る。私は無力だ。強がってひとり薬司を名乗っても、所詮は女で何もできずにいる。
悔し涙を流しながら、せめてもと血の巡りが弱まり冷えはじめた病い人の手を握りしめた。
なにもできないのかーー……いや、ひとつ残っている。
握りしめ、白くなった手をそっと寝台に戻してふらりと立ち上がる。
手にして戻ってきたものは、治療とはなんの関連もないファナの染料。男の衣服を躊躇いなく取り去り、むき出しの肌に自分の指で模様を描いていく。
すらすらとよどみなく進む指先に、恐怖を覚えた。二度としないと誓ったくせに、しっかりと記憶する罪深さに震える。
腹一面にのたくった赤い線。次いで、自分の額にも同じ染料をのせた。
自分の荒い息づかいだけが耳に響く。それは内に染み入り脳に届き意識さえも麻痺させるよう。
呪術は既にはじまっていた。
『満ちろ我が命の泉』
音が響く。
『溢れし命の源流よ、今永遠の楔を放ち、その輝きをこの者に授けたまえ』
青白い顔をした男。異国人だが、きっと瞳を開けば精悍な若者なのだろう。助けたい。強く思う。
ゆっくりと、横たわった男に覆いかぶさるように身を落とす。男の顔が目前に迫り、瞼を静かにおろした。
そっと。唇にひどく柔らかで冷たいものが触れたーー
ガンッ
直後、脳に走る激痛。熱い。がくがくと震える腕に吐瀉物が落ちる。何重にもだぶる視界。傾いだ体が男の上に倒れこむ。
ーー老師
罪を再び犯した私をお許し下さいーー
そして世界は闇に落ちた。
ーー愚かなことを……
授魂の法は魔族の秘法じゃ、使えるのは魔族でもほんの一部だけじゃよ。知っておったろうが。
……。
沈黙は是じゃろ。……よいかシェンナ、己が魂を他者へうつすには、理を曲げねばならんのじゃ。おぬしに教えとる子どもまがいの術では考えられんほどの力がいるんじゃよ。おぬしは確かに人ならぬ力を備えとる。しかし、それ故に惑いもし、惑わしもする。
少しでも、人らしくあれと力を抑える為にも術を教えたが……わしの誤りじゃったかのう。
老師、私は……。
よいよ。誰しも一度は過ちを犯す。ただのう、覚えてくれりゃ、魂とは故あってそこにあるもの、流れにまかせるべきものじゃ。わしらがどれほど手を尽くそうとも去りゆく魂はとどめられぬ。またの、亡き者へ欠片をうつすことなどもできんのじゃよ。いや……してはならんのじゃ。わしらには、自然のなかで生ける者の、己が持つ力を助することしか許されん。
おぬしの力ごときで自然に勝るなどと奢るではないーー
頬を誰かが叩いている。
二度、三度。
老師……?
まぶたが鉄の扉のように重い。力を込めても動かぬそれに諦める。
しかし、頬を叩く手は止まない。次いで、声がする。
なに。だぁれ?
瞼を温いものがなぞる。柔らかいくすぐりが、堅く閉ざしていた扉を溶かした。
溢れる光のなかに浮かぶ影。
陽炎のように揺れていた姿が次第にはっきりと形をなす。
金色の髪色が光を通し輝き、中央に浮かぶ色は
ーー闇色
現実が激流のようになだれ込み、今を知る。
よかったーー
無防備な私が零したもの。100年に一度しか咲かない花の花粉を得たときに見せた以来の、満面の笑顔。
その破壊力というものに、私は全く無自覚で、相手が息をのんだことに気付けなかった。
もし、このとき気付けていたならばこの迷惑男など、さっさと追い出していたのに。
……たぶん。