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1. 味噌一壺の男


ろくでもないことに巻き込まれた自覚は、正直初めはなかった。なので、不運の始まりをどこから話せばいいのか分からない。あいつとの出会いがそうだとしたら、そこから始めてみようか。


そう、あれは春も盛りを過ぎ空気が初夏の香りを漂わせはじめた頃だった。


薬司(じぶん)の一日はかなり早い。

夜明け前、夜明け鷄の鳴くより更に前に寝床から起き出す。

見上げた空の色は灰色。重い空気と重なって雨の訪れを予感させた。雨は嬉しい。少し笑んで、まだ暗いなかを灯りも持たず動き始める。

足元に転がる障害物をよけ、目当ての水瓶に辿り着き、片手で持てるほどの大きさのバケツに水を移していく。

心許ない視野のなか、悠々進めるのは此処が何処に何があるのか把握し尽くしている場所だからだ。

そして、ふたつ用意をしたものを両腕にさげ、また闇へ進む。空が少し明るくなり始めていた。

夜と言える時刻から動くのは扱う植物に合わせるため。

「おはようさん」

とりあえず顔だけを洗っただけの身支度で、返事も返さない、でもとっても大切なうちの子たちに声をかけて歩く。

水をやり、花がらを集め、葉の状態を確かめ、土の香りをみる。

「おお、元気になったな」

昨日はしゅんと首を垂れていたクズカズラが復活していた。しゃがみこみ、掌につかんだ土をためらいなく口に含み、必要なものをさぐる。これは師匠直伝の方法なのだが、仲間からも白い目でみられてしまうという。

はじめは自分も躊躇していたが、今では

わかりやすいのになぁ、なんて思うほどだ。

植物たちと共に、穏やかに吹く風のような暮らし。


こんな風に、

ふつうの毎日を送っていたのに


庭の手入れをひと通り終え、うんと伸びをする。空気はすっかり朝に変わっていた。靄が立ち込める。

朝、どうすっかなぁ。

菜園では、そろそろ夏野菜が実りはじめていている。

艶やかに露光るそれに笑みがこぼれた視界の端で、てってと人がかけてくるのが垣根の向こうに見えた。

おや、と首をひねる。

この家に近付く者は、薬司の仕事がらみのものだけ。小さい姿の彼は普段触れ合うことのない者だ。

勢いよく走ってきたくせに、子どもは門扉で躊躇いをみせた。まぁ、そりゃそうか。女だてらに薬司を名乗る者に周囲の視線は厳しい。親から植え付けられた言葉もあるのだろう。

うんざりとため息を吐く。

自分に向けた?人々に向けた?分からない。

それでも、まだ前に進めない子どもに助けを出そうと足を進めた。

「ポクくん、おはよう。こんな朝にどうした?」

笑みもなく向けられた言葉に子どもは泣き出しそうに表情を歪め、大袈裟なほど肩を揺らした。

小さくこころが冷えた。疎外されてしまうのが、ぶっきらぼうな言葉と乏しい表情に起因するのは身に染みて知っている。学舎にいた頃からそうだったから。

はぁと自身に向けたため息で子どもは一層怯えてしまったらしい。

ま、しかたない。

無沙汰になった手をぽんと頭に乗せた。

「で、どうした?」

ひょいと屈んで視線を合わせば、見開かれた幼い色が見えた。驚きが浮かんですぐに、やって来た目的を思い出したのか、ばっと頭に伸ばした手を掴まれた。

「……見て欲しい人がいるんだ」

そのまま、手をひっぱって垣根の外へ走り出す。

「待って。治療の準備がいるから持ってくる。大丈夫だ、ちゃんと診せてもらうよ。患者はポクくんの家にいるのかい?」

引かれるのを止めて聞くと、こくりとうなづきが返ってきた。きっと両親から頼まれて来たのだろう。自分を頼ってくるのは貧乏人かよほどの急患か。早朝に来たことをみれば、後者だろう。

時間がないな。とりあえず、だ。

不安げに見上げてくる子に笑みを向けた。ぽかん、と口を間抜けに開いた顔に状況を忘れて思わず笑みが深まる。もう一度頭を撫でたあと、急いで家の中に戻った。入口近付くに下げた診療鞄を手にとるや、すぐに駆ける。

門扉前で待つポクくんの手を引いて農道を走り彼の家へ急いだ。


辿り着いたのは農家らしい慎ましやかな茅葺の家。家の前で待っていたのはポクくんの母親だった。小さく会釈した後、ほとんど言葉を交わすことなく中へと通される。

なんだ、これは?

ごくありふれた室内に異様な気配が満ちていた。発生源は探るまでもなく明らかで、自然に視線が吸い寄せられていた。

「シェンナさん」

ポクくんの父に声をかけられたことさえ、すぐには気付けなかった。

「早朝に申し訳ない。昨夜からずっとこの様子で」

立ち上がった父親の奥に寝台に横たわる男。その息は荒く、薄い布をのせられた胸が激しく上下していた。熱もかなり高いのだろう、汗が玉のように額に流れている。

明らかに患者はこいつだが、なんだこの気配は?

悪ではないが、善でもない。病のもつ気配ではない何かが男の身体から沸き溢れている。

もっとよく診ようと寝台に寄る。

「グエン村からの街道で倒れていたんです。旅装でもなく薄布一枚を纏っただけの姿で道にひとり。すぐに家へ連れ帰ったんですが熱が酷くてーー」

語る言葉はろくに耳に残らなかった。

目診と勝手に名付けている、気配の解析に驚愕していた。

からっぽだ、こいつ。

生きとし生けるもの全てがもつ魂の核が男には感じられなかったのだ。

核は色と空気を生み出し、その命特有の気配を作り出す。命の状況を克明に示すそれを読み取ってシェンナは患者に薬草を処方するのだがーー

魂がない?

ぞっと背筋を冷たいものが伝う。

なんだこいつ。

次いで目を留めた容姿にも眉を潜める。

金髪、は珍しくはないが、この国の者とは異なる造りの顔立ち。

「ど、どうなんですか」

「え、あ……」

そうだ、治療。治療……ってか

「効くかな」

「え?」

「あ、いや……手は尽くします。しかし、見たこともない症例なので、助けられるかどうかはーー」

「そうですか……」

ちらりと、彼の表情が不安で陰る。

「隣街の薬司へ移しても恐らく同じです。ただ、私に任せてもらえるならお代は頂きません」

はっとした表情に変わった相手に答えが正しいことを知る。

女に任せることへの不安。

他人の治療に大きな出費を強いられることへの不安。

ま、当然だな。

「ありがとうございます……」

深々と頭を下げてくれるポクくんの父親に首を振ってみせる。縁もゆかりもない行き倒れ者を助けて、はぐれ者の薬司に治療を頼み頭を下げる。

つまり、私は人の良いこの家族を助けたいのだな。

ふっと笑みをもらしたのと、父親が顔をあげたのは同時だった。ぽかん、と息子のポクくんと同じ顔で惚けた彼に笑みを深めた。

「ああ。味噌がきれてました。お代がわりにいただけると嬉しいですね」

「は……はあ」

冗談のつもりが真顔の自分からでた発言ではそうと取られなかったようだ。曖昧な返事がかえってきた。

横たわる男に視線を戻す。

得体の知れない者との交わりには慣れているはずの自分でさえ慄く気配。救う手立てに頭を悩ます。

ふっと短く息を吐いて、手にした治療鞄の口を勢いよく開けた。



男をたった味噌一壺で引き取ったことに激しく後悔するまで、あと二月ばかり。




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