天使、ただしカブトムシの
アパートの窓を開けると、初夏の風がカーテンを揺らした。僕は頬杖をついたまま、手元の教科書をめくる。さまざまな動物の骨格標本の絵が描いてあった。
たまにこうして、図鑑をながめる。勉強するわけでもなく、論文や創作などの資料にするわけでもなく、ただ単に知的好奇心を満たす目的である。
少し強い風が吹く。ほんのりとした潮風の匂いに、僕は目を細めた。
「あのう」
遠慮がちな声に顔を上げる。辺りを見渡すが、誰もいない。往来から聞こえてくる声か、アパートの隣人の声か……と、再び図鑑に視線を落とした僕に「聞こえてますか?」と遠慮がちな声はたずねた。
「え? 僕?」
「そうそう。あなたです」
僕の目の前に、一匹のカブトムシが飛んでいた。
「カブトムシがしゃべった」
「ただのカブトムシではありません。カブトムシの天使です」
カブトムシの言葉に、僕は耳を疑った。一瞬できた空白の間を、アパートのどこかの部屋から聞こえる風鈴の音が埋めた。
「カブトムシの天使」
「はい。わたくし、去年天寿をまっとうして亡くなったカブトムシでして。今年は天使として、やって参りました」
「どういうこと」
あまりにも訳がわからなかった。いつの間にかうたた寝をして、夢でも見ているのではないかと、僕は自分の太ももをつねった。ちゃんと痛い。
「あなたに、お願いしたいことがあるのです。私の頼みを聞いてくれたら、あなたの願いを叶えましょう。ただし、私にできる範囲で」
「ふーん。お前の依頼を受けるかどうかはわからないけど、頼みっていうのを、聞くだけ聞いていい?」
カブトムシの天使は焦茶色の羽をぶんぶんと震わせながら、手近な机の上に降り立った。
「今、このアパートの大家さんが、裏庭をコンクリートで埋める計画を立てています……。度重なる雑草討伐に、すっかり嫌気がさしてしまったからです……」
「ふーん。まあ、大家さんも歳だからね。毎回の草むしりは大変だろう。ここ最近、わさわさ生えているし」
「このままでは、地中にいるカブトムシのさなぎたちが、地上に出て来られなくなってしまいます……! カブトムシの未来のために、地上をコンクリートで覆うのを、阻止して欲しいのです……!」
カブトムシの天使はぐいっと自慢のツノを持ち上げて、僕にそう頼んだ。頼んでいるくせに、なんだか偉そうである。そしてツノがあるということは、こいつはオスのカブトムシだ。
「大家さんがそうしたいと言ってるなら、無理だよ。僕は大家さんからこの部屋を借りている身分なんだから」
「おお! 自然は本来誰のものでもないというのに! 傲慢な人間どもよ!」
カブトムシの天使が憤懣やる方ないといった様子で、ツノをぶんぶんと振り回した。荒ぶった拍子に、ギザギザとした脚が図鑑のページに引っかかった。
「……まあ、草むしりを手伝うくらいなら、できないこともない」
「素晴らしい! ささ、それでは早速……!」
カブトムシの天使は怒り狂っていたのもけろっと忘れて、僕の肩にとまった。僕は麦わら帽子とタオルと軍手、スーパーのビニール袋を用意して、ヒビの入ったアパートの階段を降りて行った。
驚いたのは、雑草がアパートの敷地にわんさか生えていることである。梅雨どきの雨と初夏の陽気につられて、我が世の春を謳歌していた。もはや初夏だというのにである。
僕は「どっこいしょ」としゃがみ込むと、手当たり次第に雑草を抜いて行った。
雑草たちの中には、意外と手強い輩もいる。根っこが固くて抜けない雑草もあれば、逆にブチブチと茎が切れてしまって根を抜けなくなる雑草もある。
へんてこな色のねばねばとした汁がつく雑草もあれば、びっしりと細かく生えた毛がチクチクと刺さる雑草もあった。
「めんどくさっ」
「がんばってください! 応援しています!」
「お前も手伝えよ。天使なんだろ。天使パワーでちょちょいと抜いてくれ」
「できません! なんといってもわたくし、カブトムシですから!」
これでは、叶えてくれるという願いにも期待できそうにない。僕はスーパーのビニール袋に抜いた雑草を詰め込んだ。太い雑草の茎が、ビニール袋を突き破った。
「はい。これで雑草は抜きました」
「いいえ、これではコンクリートで埋められる前のお掃除です」
「すまない、カブトムシの天使よ……僕にはこの程度しかできない。アパートの部屋を借りている身分だから」
「人間というのは、すっかり土を埋めてしまう力を持っているというのに、あなたは非力なのですね……致し方ありません。認めましょう」
僕はカブトムシの天使の言い草にカチンと来て、肩口を手で払った。カブトムシの天使は羽を広げて、ブーンと音をたてて宙に浮かんだ。
「人間にも、財力や権限を持っている者と、そうでない者がいるんだよ。残念なことに、僕はその手のものとは、割と縁がない」
「なんと哀れな……」
こいつ、握り潰してやろうか。一瞬そんなことを考えたが、僕の手にぐっしょりとカブトムシの汁がつくことを想像してしまったので、やめておいた。ただ軍手に包まれた僕の手がワキワキと動いただけである。
僕は自分の部屋に戻って、冷蔵庫に入れておいた麦茶を一気飲みした。冷たくて、爽やかな麦茶の味が喉を潤していく。美味しい。
「それで、願いを叶えてくれるという話だけど」
「はい! わたくしにできる範囲であれば!」
「……逆に、何ができるの?」
カブトムシの天使は再び図鑑の上に乗って、ふん! とツノを掲げた。
「相撲とか!」
カブトムシ相撲だろうなと、僕は遠い目をした。そんな白けた僕を見て、カブトムシの天使はあわてて付け加えた。
「甘い樹液の出る木も、教えられます!」
人間にとって、甘い樹液の出る木の情報が、一体どれほどの価値を持つというのだろう。
百歩譲ってカブトムシハンターにとっては意味がある情報かもしれないが、僕はカブトムシハンターではないので、譲る意味がこれっぽっちもない。カブトムシを捕まえたとしても、販売経路を持っていないので、無意味である。
「非力なんだな。哀れな……」
「な、なんですと!」
「お前がさっき僕に言ったことだよ。そっくりそのまま返してやる」
気色ばむカブトムシの天使を無視して、図鑑に視線を戻す。鳥の骨格図が載っていた。
天使というのは、手足と羽がある。骨格的には、六本の手足があることになる。
昆虫みたいだな、と顔を上げた僕の目の前で、カブトムシの天使がすごすごと窓の外に飛んでいった。初夏の風が、どこかで風鈴を鳴らした。
<おわり>




