第8話:雨上がりの夕暮れと、海に溶ける虹
どれくらい、彼の胸で泣き続けていただろうか。
健人の腕の中でひとしきり涙を流し尽くした凛は、ふと我に返り、慌てて身を離した。
「……ご、ごめんなさい。私、すごくみっともない……あなたのシャツ、ぐしゃぐしゃにしちゃったわ」
目元を赤く腫らし、恥ずかしそうに俯く凛に、健人は自分のポケットから清潔なハンカチを取り出してそっと手渡した。
「洗えば済むだろ。それより、少しはスッキリしたか?」
「……ええ。なんだか、ずっと背負ってた重い荷物を、全部下ろしちゃった気分」
ハンカチを握りしめ、凛は小さく、けれど今までにないほど穏やかな笑みを浮かべた。
その顔を見た健人は、安堵の息を吐いて防波堤に背中を預けた。
「あのね、健人」
凛は、夕闇が迫る海を見つめながら、ぽつりと語り始めた。
「あの夕暮れのキス……私、一度きりの灼熱のロマンスみたいな、ひと夏の気まぐれにして、あなたから逃げようとしてたの。本当は、自分がこれ以上あなたに惹かれて、一人で立てなくなるのが怖かったから」
それは、傷つくことを極端に恐れる彼女なりの、不器用すぎる自己防衛だった。
健人は怒ることもなく、ただ優しく頷いた。
「わかってたよ。お前がどんなに強がって嘘をついても、その奥にある本音はちゃんと見えてたからな。……でも、俺は夏の気まぐれなんかで終わらせるつもり、最初からないぜ」
「え……?」
「お前がいつか鎧を脱いで、本当の意味でわかり合える日が来るはずだって、ずっと信じて待ってたんだからな」
健人の迷いのない言葉に、凛の胸の奥がじんわりと温かくなる。
もう、強がる必要はないのだ。彼となら、不器用な自分を曝け出しても、きっとこの手を離さずにいてくれる。
「あっ……見て、健人」
凛が不意に、沖の方を指差した。
遠くの海上で通り雨があったのだろう。オレンジ色から藍色へと変わりゆく夕暮れの空と、石狩の海の境目に、うっすらと淡い虹が架かっていた。
「本当だ。……綺麗な虹だな」
「うん。……なんだか、虹の尾が海に溶けていくみたい」
凛は、防波堤に置かれた健人の大きな手に、今度は自分からそっと自分の手を重ねた。
ビクッと健人の肩が揺れたが、すぐにその手は裏返り、凛の指をしっかりと絡め取るように握り返してくれた。
ずっと彼女の心を守り、同時に縛り付けていた冷たい氷の壁。
それは、遠くに見える虹の尾が海に溶けていくように、健人の温もりの中で静かに、そして完全に消え去ろうとしていた。




