第2話:午前零時のグラスと、溶けない氷
熱帯夜となった平日の夜。時計の針が午前零時を回った頃、『Blue Point』の重い木製のドアが、カランと控えめな音を立てて開いた。
カウンターの中でグラスを片付けていた健人は、少し驚いて目を丸くした。
そこに立っていたのは、いつも週末の昼下がりにしか来ないはずの凛だったからだ。
薄手のサマーカーディガンを羽織った彼女は、いつもの隙のないメイクが少しだけ崩れ、目元には明らかな疲労の色が滲んでいた。まるで、息の詰まるような部屋から逃げ出すようにして、夜の国道をここまで走らせてきたように見える。
「……まだ、開いてる?」
「ああ、もちろん。好きな席に座りなよ」
凛はいつものテラス席ではなく、初めてカウンターの端に腰を下ろした。
「ジンベースで、何か強いものを。甘くないやつ」
健人は短く頷き、手早く氷を砕いてシェイカーを手にした。鋭い冷たさとライムの酸味が特徴のショートカクテル、ギムレット。静かな店内に、シェイカーの中で氷が心地よくぶつかる音だけが響く。
スッと差し出されたカクテルグラスを、凛は無言で煽った。強いアルコールが喉を焼くはずだが、彼女の表情はピクリとも変わらない。
「……仕事、何かあったのか?」
健人がグラスを拭きながら静かに尋ねると、凛は自嘲気味に笑って、残った氷をカラリと揺らした。
「別に。ただ、一人で考え事をするには、少しだけ夜が長すぎただけよ」
弱音を吐きそうになって、慌てて飲み込んだような声だった。彼女はきっと、他人に頼る方法を知らないのだ。誰かに甘えて幻滅されたり、同情されたりするくらいなら、一人で孤独を噛み締めていた方がマシだと、そうやって自分を守ってきたのだろう。
「そうか。まあ、夜は色んなものを重く感じさせるからな」
健人はそれ以上深くは踏み込まず、凛の手元に、冷たい水が入ったチェイサーのグラスをそっと置いた。
「強い酒もいいけど、ちゃんと水も飲めよ。明日も戦わなきゃいけないんだろ?」
「……私、誰かの前で泣き言を言うような、か弱い女じゃないわよ」
凛が防衛線を張るようにツンとした声を出したが、健人は優しく微笑んだ。
「わかってる。だから、水を出したんだ。泣かない代わりに、これで少しだけ頭を冷やして、明日また思いっきり強がればいい」
健人の言葉に、凛はハッとして顔を上げた。
見透かされている。けれど、その視線には哀れみも同情もなく、ただ、一人で戦う彼女の「強がり」ごと肯定してくれるような、大きくて温かい包容力があった。
「……変なマスター」
凛は小さく呟くと、チェイサーのグラスを両手で包み込み、ゆっくりと口をつけた。
その夜、彼女がそれ以上言葉を発することはなかった。けれど、静かな店内でグラスを見つめる彼女の横顔は、いつもの分厚い鎧がほんの少しだけ解け、年相応の無防備な素顔に戻っているように見えた。




