Ep5-26 光る霞を抜けて
間一髪で爆撃から逃れたはずの英太は、気が付くと一面真っ白の不可思議な場所をひとりで歩いていた――
気が付けば真っ白な光の中を歩いていた。
周囲はハレーションを起こすほど眩しいが、不思議と目は痛くない。ただどこにも影が無く凸凹も継ぎ目も見えないから周りには何もない空間に感じる。地面は確かにあるのだけれど、靴の裏に固い感触しかなくじゃりじゃりと砂を踏む音もコツコツと反発する音も響かない。試しに九十度曲がって進んでみたが、二歩と進まないうちに元の方向に進んでいるのか曲がった方向に進んでいるのかわからなくなる。
空間を感じる感覚が麻痺すると時間を感じる感覚も麻痺するんだ、などと妙な発見に場違いな感心を覚える。
つまるところ、俺は迷子になっていた。
どっちに行っても同じなら、ずっとこのまま歩き続けるしかないか。
そう覚悟を決める間も、俺の足は一定のペースで前へと歩みを進めていた。
やがて前方に何か小さい丘のような黒い塊がぼんやりと見えてきた。どうやら俺は乳白色に発光する靄の中を歩いているらしい。
(止まれ)
声ではない声が直接鼓膜に届く。前方の小山のような影がが話しかけているようだと感覚的にわかった。
(どこへ行く?)
「出口を探しているんだ」
(この先はおまえの行くべき場所ではない)
「わかった、じゃあこっちに行ってみるよ」
そういって俺は向きを変えて進もうとした。が、目の前にはやはり小山のような影があり、無言の圧力を発していた。赤い双眸を持つ長い首がぐぐっと持ち上がる。小山と思われた影は分厚い甲羅を背負った大きな体のようだ。だが細部は霞に隠されたままで見えない。
(去れ。これ以上は進むことを許さぬ)
「困ったな。言いつけを守りたいのはやまやまなんだけど、帰る方法が分からないんだ」
(戻れ。これ以上進むことは許さぬ)
仕方がないとばかりに回れ右をして歩きはじめるが、やはり目の前に小山のような影がある。
「なあ、これっておまえの仕業じゃないのか?」
俺はどんなに方向を変えても前にしか進めないことに少し苛立ちを感じ始めていた。目の前の大きな存在に対してもついぞんざいな口調になってしまう。
(否)
「じゃあ、どうやって俺はここに?」
(未熟者が身の丈に合わぬ方術を使ったのであろう。それとも禁域を侵したか)
「そんな大それたことをした記憶はないけど……」
(いね。これ以上進むでない)
「でも他の方向には進めないしなあ。せめて姿が見えるところまで近づいてもいいだろ?」
(ならぬ。ならぬというに……)
話せば話すほど影から感じていた威圧感は減っていった。ここにいる以上は出る方法も知っているに違いない。どちらにせよ、前にしか進めないのだし。
「来るな。それ以上は結界が……。あわわ」
近づくにつれますます霞が晴れ、見上げるような影の細部がわかるようになってきた。
鱗と毛に覆われ、鰐のように尖った巨大な歯が並ぶ大口を開けた鼻面にナマズに似た髭が一対生えている。角が生えた頭部は目玉は赤々と燃え、長い鎌首をもたげてこちらを睨み殺さんとするような迫力だ。胴体は正しく小山のような大きさで、全体が黒曜石の輝きを持つ甲羅で覆われている。甲羅からはクジラを思わせる巨大な鰭が突き出ていた。
だがそれは作り物のように微動だにしなかった。
「もう。来ないでっていったでしょう。せっかくの結界が台無しだわ」
「え、あー、いや。ごめん」
甲高い声が聞こえたほうを見ると、巨大な鰭の陰から五歳くらいの幼女がひょこっと顔を覗かせていた。
近づくとまた陰に隠れる。
驚かせないように巨大な鰭をノックして声を掛けながら覗き込んだ。
「コンコンコン、お邪魔します」
「なによ。こっちに来ないでっていってるでしょ。デリカシーがないわね」
そこは祠のようなくぼみになっていて、黒髪の和装の幼女が座っていた。
どこかで見た光景にデジャヴを感じる。
「また会ったね」
「はぁ?知らないわ。誰よ、オジサン」
「俺、十六だよ?オジサンていう年じゃないんだけど」
「ん-?そうね。じゃあお兄さんかしら。それで、さっきの台詞はなに?こんなところでナンパ?」
「いや、本当に会ったことがあるんだって。ほら、つい先月。八坂神社の裏の森の奥で」
「知らないわ。わたくし、ここで人に会うのは初めてですもの」
それから袂で口元を隠して覗き込むようにして言った。
「お兄さん、ニンゲンよね?」
「当り前だろ」
「そうね。人間でなければ、あの結界は通り抜けられないはずですもの」
ようやく少し警戒を解いたのか、顔半分を隠していた袂を下ろす。
人間に会うのは初めて、か。そういえばあのとき彼女はここでは時間には意味がないって言っていたっけ。どうやら外の世界とこことでは時間の流れる速さだけでなく出来事の順序も入れ替わっているらしい。
「ここはどこ……って、『神隠しの辻』だっけ」
〔つづく〕




