表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
双剣のエルナは二度と仲間を持たない ——それでも、その夜だけは走った LightNovelRemix  作者: アズマ マコト


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/1

「二度と仲間は作らない」と誓ったソロ剣士ですが、初心者が死にそうなのでこっそり助けることにしました

本編『アルケリア・クロニクル』の人気キャラクター、双剣士エルナの知られざる戦いを描く外伝エピソード。 ここから読み始めても問題なく楽しめる、爽快な救出劇です。 ※このバージョンは「LightNovelRemix(甘口)」仕様です。

 第1話:黄昏の憂鬱、あの日と同じ鉄の匂い




 指先に触れたのは、温もりではなかった。





 ぬるりとした、生温かい液体の感触だけが、そこにあった。





 たった一枚の銅貨を得るために。





 今日という日を生き延びる、ただそれだけのために。





 あの子たちが支払わされた代償は、未来そのものと引き換えの、この指にまとわりつく粘液(液体)だった。





 鼻腔を焼く鉄錆の臭気。





 鼓膜を劈く断末魔。





「――先輩!」





 助けを求める絶叫が、永遠の静寂に呑み込まれていく。





 伸ばした手は虚空を掻き、救い上げるべき命は、泥濘のような絶望へと沈んでいった。





「ッ……!」





 ガバッ、と身体を跳ね起こす。





 世界が歪み、明滅し、やがて焦げ茶色の現実へと収束していく。





 `[System: 精神汚染メンタルデバフ全解除]`





 `[Notice: バイタル正常。覚醒シークエンス完了]`





 視界の隅に浮かぶ無機質な文字列が、ここが夢ではないことを告げている。





 肺を満たすのは、埃っぽい空気と、古びたオーク材の匂いだけだ。







 ***







 黄昏が城壁を喰らい、その血をフォルティアの街に注いでいた。





 冒険者ギルドのホールは、古血と蜂蜜を混ぜたような光に満たされている。





 床を転がる空樽。





 そこで酔い潰れた男たちの長い影が、醜く引き伸ばされていた。





 舞い上がる埃の一粒一粒が、断末魔の光を浴びてきらめいている。





 ホールは祈りと呪詛の熱に浮かされていた。





「見たか、あのオーガの顎を砕いた俺の戦斧の一撃!」




「だから言っただろう、沼沢のリザードマンに氷魔法は悪手だと。頭まで筋肉か、お前は」




「祝杯だ! エン婆、一番高いエールを! 勘定はこいつの剥ぎ取った素材で払う!」





 ときの声。敗者の愚痴。明日への希望的観測。





 汗とエール、安物の香油、そして拭い去れぬ死線の匂い。それら全ての感情が煮詰まり、この場所特有の淀んだ熱気を生み出している。





 誰もが今日という一日を消費し、明日を生きるための糧を漁っていた。







 ***







 だが、その喧騒の濁流から切り離された場所がある。





 そこだけが、絶対零度の孤島だった。





 ギルドの最奥。暖炉の火さえ届かぬ隅の席。





 まるで世界のことわりから隔絶されたかのように、エルナはただ、そこにいた。





 周囲の喧騒は、分厚い氷壁の向こうから響く残響音のようだ。





 琥珀色の液体が満たされたジョッキを、彼女は熟達した儀式のように口元へ運ぶ。





 その視線は、窓の外で最後の色を失っていく空の、名もなき一点に縫い付けられていた。





 灰色の瞳は、しかし、その熱狂の何一つ映してはいなかった。





 それは数え切れぬ戦場と、それ以上の数の墓標を呑み込んできた者の色だ。





 陽の届かぬ森の奥、凍てついた湖面のように静かで、その深淵を誰にも覗かせない。





 研ぎ澄まされた諦観と、消えぬ憂い。





 相反する二つが、硝子細工のような均衡を保って彼女の中で息を潜めていた。





 ふと、カウンターの奥から影がひとつ動いた。





 このギルド酒場を半世紀近く切り盛りしてきた女主人、エン・ブーザーだ。





 年季で黒光りするエプロン、無数の樽を抱え、ときに冒険者の背を叩いてきた節くれだった腕。





 彼女は騒がしいテーブルの間を、水鳥が葦の間を縫うように滑り抜け、空の食器を回収していく。





 やがて、その足音がエルナのテーブルの脇で止まる。





 エンは何も言わない。





 エルナの手元で空になったジョッキを一瞥し、静かにそれを取り上げる。





 代わりに、音ひとつ立てず、なみなみと満たされた新しいジョッキを置いた。





 きめ細やかな泡が、窓から差し込む夕陽の残滓ざんしを映して、儚く燃えている。





 エルナは虚空を見ていた視線を僅かに落とし、テーブルの上のそれに移す。





 エンの顔は見ない。





 ただ、ほとんど誰にも知覚できぬほど微かに、一度だけ頷いた。





 言葉はない。





 視線の交錯すらない。





 だが、その沈黙には、十年を超える歳月が織り上げた信頼が満ちている。





 言葉などとうに置き去りにした、戦友同士のような阿吽あうんの呼吸。





 エンは、エルナが他者との間に引く見えない《境界線》を、誰よりも深く理解していた。





 背を向け、カウンターへ戻りながら、エンは独り言のように呟いた。





 ギルドの喧騒に溶けて消えそうな、低い声だった。





「……そういや、森の東が、どうにもきな臭くてね。聴き慣れない羽音。腐臭とも違う、異質な森の匂い……。古株ほど、何かに怯えてる」





 誰に聞かせるでもない、ただ漏れ出ただけの懸念。





 だがその言葉の破片は、エルナの意識に明確なトリガーとして突き刺さる。





 `[Notice: エリア《東の森》の環境変化情報を更新]`





 `[Warning: 未確認の高ランク個体ネームド出現の可能性アリ]`





 エルナは表情を変えぬまま、新しいエールを一口、ゆっくりと喉に流し込む。





 冷たい液体が、胸の奥でくすぶる焦燥を無理やり鎮めていくようだった。





(この喧騒も、いつか誰かが欠けることで静寂に変わる)





 脳裏に浮かんだ若者たちの笑顔は、陽炎のように揺らめいて消えた。





 かつては自分にも、あんな仲間がいた。





 だが、その声も熱も、今はもう遠い過去のものだ。





 死と隣り合わせの冒険者稼業。





 仲間とは、いずれ必ずロストするもの——それがこの世界のルールだ。





 だから、もう深くは関わらない。





 誰かの死に心を削られるのは、二度とごめんだ。





 エルナは自らの心を護るため、見えない防壁シールドを張り巡らせている。





 それでも——。





 変わらないギルドの日常に、僅かな安堵を覚えている自分もいた。





 いつか失うと知っていても、この灯りの温もりを捨てきれない。





 その矛盾こそが、自分がまだここに留まる理由なのかもしれない。





 やがて太陽が地平線に沈み、窓の外は深い藍色に染まっていく。





 エンがランプに火を灯す。





 揺らめく炎が冒険者たちを、そして片隅で一人佇むエルナの横顔を静かに照らし出した。





 世界が息を潜めるような、ほんの僅かな静寂。





 それは、嵐の前の凪。





 その不穏な予兆シグナルを、この場でエルナだけが肌で感じ取っていた。







 ***







 午後の陽光が、高い窓からギルドホールへと差し込んでいる。





 光は琥珀色の帯となり、宙を舞う埃をキラキラと照らし出していた。





 昨夜の喧騒が嘘のように、空間は緩やかな空気に満ちている。





 カウンターの奥で羊皮紙をめくる音。





 古参冒険者たちの低い話し声。





 それらが心地よいBGMのように、午後の静寂サイレンスに溶け込んでいた。





 エルナはギルドの奥の席で、その静寂に身を浸していた。





 手にしたエールの冷たさが、革手袋越しにじわりと神経を鈍らせる。





 他者との間に築いた壁の内側で、緩やかに呼吸をする。





 関わらなければ、失うことはない。





 守ろうとさえしなければ、守れなかったと悔やむこともない。





 だが、その気怠い均衡は、破城槌めいた轟音と共に砕け散った。





 ギルドの重厚な扉が、内側へ向かって弾け飛ぶように開け放たれる。





 静寂はガラスのようにひび割れ、暴力的な光の奔流と街路の喧騒が、澱んだホールへと一気に雪崩れ込んできた。





「帰還した! Dランク討伐、被害ゼロで完遂だ!」




「報告通り、ゴブリンの巣はもぬけの殻だったぜ! ついてたな!」





 若さという無防備な刃のような声が、ホールに突き刺さる。





 リーダー格の少年――カイルが、傷ひとつない胸当てを誇らしげに叩いて叫んだ。





 彼の背後から、同じく血色の良い顔をした弓使いの少女と小柄な魔術師が、勝利の熱を隠しきれずに続く。





 彼らが放つ、制御されていない生命力の奔流が、午後の気怠い空気を一瞬で掻き乱していった。





 階下の祝祭が、分厚い床板を隔てて遠い世界の残響と化していく。





 若者たちの屈託ないときの声、エールを酌み交わす音――その全てが、エルナの意識から一枚、また一枚と剥がれ落ちていった。





 彼女は誰に言葉をかけるでもなく、影が壁から分離するように音もなく席を立つ。背中に突き刺さる熱狂を振り払い、その足は確信をもって、ギルドの二階へと続く階段へ向かった。





 一歩、踏みしめるごとに、古びた木材が低い呻きを上げる。





 それはまるで、過去の過ちを咎める声のようだった。





 脳裏にこびりついた後悔の残滓ざんしを振り払うかのように、彼女は淡々と暗がりを昇っていく。





 階段の先、重厚な樫の扉が彼女を待ち構えていた。





 長年の使用で黒光りする真鍮の取っ手に触れる。指先から血の気が引くような冷たさが、昂ぶりかけた感情を強制的に鎮静させていく。





 扉を開くと、凝固した時間が吐息のように漏れ出した。





 忘れられた警告と、インクの鉄錆びた匂い。そこは死んだ情報が眠る墓所――ギルド資料室だった。





 窓から射す月光は青白く、巨大な書架の影をまるで墓標のように床へと伸ばしている。





 壁際に灯る魔導ランプの琥珀色の光だけが、無数の羊皮紙が眠る棚を厳かに照らし出していた。





 エルナは一直線に奥へと進む。





 目指すは、あの若者たちが口にした『森の東側』に関する直近の記録ログ





 彼女の動きに狩人のごとき正確さがあったのは、胸の内で鳴り響く警鐘が、脳よりも先に身体を動かしているからに他ならなかった。





 それを否定したいのか、あるいは、最悪の確信を得たいのか。





 自問する間もなく、指先が目当ての棚に触れる。





 分厚い革表紙の報告書ログの束。





 その物理的な重さ以上に、そこに綴じられたであろう幾人もの冒険者の命の重みが、ずしりと腕にのしかかった。





 閲覧机まで運び、椅子を引く音ひとつ立てずに腰を下ろす。カンテラの光量を僅かに上げると、インクのかすれた文字が、闇の中から亡霊のように浮かび上がってきた。







 ***







 乾いた殻が擦れるような音を立て、羊皮紙がめくられていく。





 エルナの双眸は、インクの染みを追うだけの硝子玉ではなかった。





 報告者、日付、依頼クエスト内容、達成度、特記事項――。





 複数の報告書ログを卓上に並べ、その行間と余白に潜む〝声なき声〟を聴こうとしていた。





 熟練の狩人が血痕と足跡から獲物の姿を炙り出すように、彼女は情報の密林に分け入っていく。





 やがて、しなやかな指先がある一点をなぞり、氷着したかのように止まった。





「依頼成功率……」





 吐息に近い呟きは、書庫の沈黙に溶けて消える。





 ここ三ヶ月に限定して集計された「森の東側」担当区域のデータ。





 その依頼成功率は、それ以前と比較して断崖のように落ち込んでいた。





 四割減。





 これは偶然や、新人の練度不足といった変数ノイズで説明のつく誤差ではない。





 何かが、この地域の“理”そのものを根底から歪めている。





 さらにページを繰る。





 彼女の眉間に、険しい影が落ちた。





 次に注意を引いたのは、討伐対象の内訳だった。





 ゴブリン、コボルト、大鼠ジャイアントラット





 本来であれば森の生態系の最下層を形成し、駆け出しの冒険者にとって格好の経験値リソースとなるはずの小型モンスターたち。





 それらの討伐報告が、ここ数ヶ月で完全に途絶えている。





 まるで神隠しにでもあったかのように。





「ありえない……」





 エルナは息を呑んだ。





 ゴブリンの繁殖力は病的なほどだ。





 一つの巣を潰したところで、いずれ別の場所に新たなコロニーが形成される。それが森の摂理だ。





 彼らが一斉に姿を消すなど、天変地異に等しい異常事態イレギュラー





 それは、より高次の捕食者が君臨し、餌場を根こそぎ“掃除”してしまった後のような、不気味な静寂だった。





 カイルたちは言っていた。





「ゴブリンの巣はもぬけの殻だった」と。





 彼らはそれを幸運だと笑った。





 だが、違う。





 それは幸運などではない。





 巨大な獣が晩餐を終えた、静かな食卓に足を踏み入れたに過ぎないのだ。







 ***







 点と点が繋がり、おぼろげな輪郭を描き始める。





 だが、その核心を突くための刃が足りない。





 上位捕食者の正体とは、一体なんなのか。





 エルナは最近の記録から一度視線を外し、書架のさらに奥――埃を被った古文書の棚へと手を伸ばした。





 こういう時、答えはしばしば、忘れ去られた過去の墓標に刻まれているものだ。





 数年前の、黄ばみ、端が脆くなった羊皮紙の束。





 色褪せたインクの染みは、そのほとんどが取るに足らない日々の記録だ。





 根気のいる作業だったが、彼女の集中力は剃刀の刃のように研ぎ澄まされていた。





 そして、ついにその一行を探り当てた。





 それは、とあるBランク冒険者が提出した偵察任務報告書の片隅に、走り書きのように記されていた。






『同エリアにて、獅子らしき大型獣の足跡と、尾を引き摺ったような痕跡を発見。詳細は不明』






 その一文が網膜を焼いた瞬間、氷のくさびがエルナの脊髄に打ち込まれた。





 獅子。





 そして、引き摺られた尾。





 二つの単語が、脳内で霧散していた全ての情報を、冷たい鉄の鎖で繋ぎ止めた。





 小型モンスターの消失は、新たな捕食者が縄張りを主張し、喰らい尽くした結果。





 依頼成功率の低下は、その捕食者が冒険者をも「獲物」として認識し始めた兆候。





 そして、カイルたちが見たもぬけの殻の巣。





 あれはゴブリンたちが逃げ出した跡だ。





 その“何か”の接近を察知し、防衛すら放棄して逃走したのだ。





 胸騒ぎは、もはや予感ではなかった。





 氷点下の確信へと変貌していた。





(生存率の低下、生態系の破壊……データは嘘をつかない。いつだって真実を語るのは、人間の希望的観測ではなく、無慈悲な数字だ)





 ふと、ギルドの受付嬢が嘆いていた言葉が脳裏をよぎる。






『伸び盛りのDランク冒険者が、最も死亡率が高い』






 それはギルドの歴史に血で記された、冷厳な統計だった。





 実力がつき始め、自信が油断へと変わる。





 世界の広さと、そこに潜む脅威の本当の深さを知る前に、彼らは己の力を過信して深淵へと足を踏み入れる。





 カイルたちの、誇らしげで、どこか無邪気な笑顔が瞼の裏に焼き付いて離れない。





 あの子たちは、自分たちが巨大な蜘蛛の巣の上で踊っていることに、気づいてすらいない。





 焦燥が、熱い鉄のように胸を焼く。





 もはや一刻の猶予もなかった。





 エルナは報告書を叩きつけるように卓上へ戻すと、静かに、しかし鋼の決意を込めて立ち上がった。





 魔導ランプの光が、彼女の横顔に硬質な影を落としていた。





 資料室の重い扉が、鈍い呻きを上げてエルナの背後で閉ざされた。





 埃と古紙の乾いた匂いが断ち切られ、代わりにひやりとした夜気が肌を撫でる。







 ***







 一階の酒場から漏れ聞こえる喧騒。





 それが分厚い床板を震わせ、静寂な廊下にまで低く響いていた。





 杯を打ち合わせる音。





 野太い笑い声。





 吟遊詩人が爪弾くリュートの陽気な旋律。





 その〝生の奔流〟が、今のエルナにはひどく遠い世界の出来事のように感じられた。





 彼女は活気の中へ戻る気になれず、磨かれた石造りの廊下の片隅、窓際に吸い寄せられるように足を止めた。





 嵌め殺しの窓ガラスの向こうは、深い藍色に染まり始めている。





 街の灯りがぽつりぽつりと灯り、夜の帳が世界を覆っていく。





 その様を、エルナはただ無感情に眺めていた。





 その時だった。





 ひときわ大きく、天真爛漫な歓声が階下から突き上げてきたのは。





「やったな、カイル! あれは大手柄だ!」




「当たり前だろ! 俺たちにかかれば、ゴブリンの巣なんて!」





 まだ声変わりも済んでいない、若く、自信に満ちた声。





 カイルとその仲間たちだ。





 今日の依頼の成功を祝している。





 成功に浮かれ、仲間との絆を確かめ、未来への希望に胸を膨らませている。





 その、あまりにも純粋で、危ういほどに輝きに満ちた笑い声が――引き金になった。





 不意に、耳の奥で甲高い金属音が鳴り響く。





 遠ざかるはずの笑い声が、水中にいるかのように歪み、反響する。





 やがてそれは、全く別の音色へと溶解していく。





 それは、かつて聞き慣れていたはずの声。





 ……先ほど見た、悪夢の続きだ。





 指先が、再びあの「ぬるりとした感触」を幻視する。





 一枚の銅貨の代償。





 その重みが、鉛のように胃の腑へと落ちていく。





「……っ」





 エルナは息を詰め、無意識に己の腕を強く抱きしめていた。





 爪が皮膚に食い込むほどの力で。





 窓ガラスに映る自分の顔は、血の気を失い、まるで死人のように強張っている。





 カイルたちの笑い声が、再び現実の音として遠くに聞こえた。





 それはもう、かつての後輩たちが上げた断末魔とは重ならない。





 だが、その無邪気さが、かえって彼女の心の古傷トラウマを容赦なく抉った。







 ***







『二度と、誰かのために剣は抜かない』






 血の海と、折り重なるむくろ





 その地獄の中で立てた誓いが、亡霊の痛みとなって魂を苛む。






『誰かを率いることも、誰かを救おうとすることも、金輪際ごめんだ』






 喪失の痛みは、存在の根幹コアを腐らせる。





 骨の芯まで凍てつかせるあの絶望と無力感を、二度と味わうわけにはいかない。





 だから、壁を築いた。





 誰の領域テリトリーにも踏み込まず、ただ独りで依頼クエストをこなし、危険は予兆のうちに摘み取る。





 それが、エルナが自らに課した、血で刻んだ戒律ルールだったはずだ。





「……怖い」





 絞り出した声は、誰に聞かせるでもない魂の呻き。





「また……間に合わなかったら?」





 あの地獄が、この街で再現される。





 その予感が、冷たい霧となって臓腑にまとわりつく。





 資料室で洗い出した記録ログが、脳裏で警告色に点滅していた。





 `[Log: 小型モンスター討伐報告の不自然な途絶]`





 `[Log: 過去の大型魔獣出現周期との一致]`





 これらの事実は、単なる予感を確信へと変えるに十分だった。





 危険は、すでに孵化している。





 カイルたちのような、牙の研ぎ方も知らない若者たちが、その最初の餌食(XP)になる。





 無意識のうちに、懐の奥底に封印した『切り札』へと意識が向く。





 王都の闇市で、来年一年分の生活費と引き換えに手に入れた高位の拘束魔石。





 あれを使う時、それは事態が私の手に負えぬ領域――すなわち、死のデッドラインへと踏み込んだことを意味する。





(……赤の他人のために、そこまでのリスクを負うのか?)





 冷徹な計算が、理性が、そして血で刻んだ『戒律』が、踏みとどまれと警告を発する。






『だが』






 戒律が魂に食い込む。それでも、本質が叫びを上げた。






『このまま見過ごせば、あの子たちは死ぬ』






 そうなれば、結果は同じだ。





 いや、違う。もっと、救いがない。





 あの日は、死力を尽くして戦い、それでも守れなかった。





 だが、今回は?





 危険を知りながら、背を向けたことになる。





 それは敗北ですらない。





 見殺しという名の、裏切りだ。





「あの子達は、私じゃない……」





 エルナは自分に言い聞かせるように――まるで呪文のように呟き、かぶりを振った。





「あの日の……あの子達とも、違う」





 頭では分かっている。





 カイルはカイルだ。死んだ後輩の幻影ファントムではない。





 だが、瞳の奥に宿る光が――あまりにも似すぎていた。





 冒険への純粋な憧れ。





 仲間への疑いなき信頼。





 そして、若さゆえの無防備な傲慢さと、汚れを知らぬ純粋さ。





 あの日、死んでいった後輩たちも。





 まったく同じ目をしていたのだ。





「……二度と、あんな思いは」





 その言葉が、今度はまったく違う意味の刃となって、胸に突き立った。





 それは、自分が傷つくことへの怯え(フィアー)ではない。





 あの子達に、自分と同じ地獄を歩ませたくない。





 そう願う、祈りに似た絶叫だった。





 仲間を失うこと。





 希望を砕かれること。





 生き残った罪悪感に、永遠に苛まれ続けること……。





 そんな奈落アビスを、誰にも味わわせたくない。





 守れなかった者たちへの、決して消えることのない贖罪の念。





 その熱量が、恐怖で塗り固めた何年もの壁に亀裂を入れた。





 そして――





 音を立てて砕け散り、塵と化した。





 ふっ、と。





 苦悶に歪んでいたエルナのかおから、すべての情動が抜け落ちた。





 強張っていた肩の力が抜け、固く引き結ばれていた唇がわずかに開く。





 だがそれは、決して諦念ていねんなどではない。





 再び彼女が顔を上げた時――その双眸から、怯えや葛藤の色は完全に消え失せていた。





 そこにあるのは、嵐の後の、凪いだ夜の海のような静けさ。





 あるいは炉で熱せられ、幾度も打たれた鋼の硬質な輝き。





 魂の芯でくすぶっていた熾火おきびが、再び赫々(かくかく)と熱を帯びる。





 もはや迷いはない。





 往くべき道は、ただ一つ。





 たとえ再び、あの悪夢の淵に身を投じることになろうとも。





 今度こそ、間に合わせるために。







 ***







 決意は、肉体から一切の躊躇ためらいを削ぎ落としていた。





 エルナの足取りは音もなく、だがその一歩一歩が揺るぎない目的を宿している。





 夜の闇に溶け込むための備えは、すでに彼女の第二の皮膚となっていた。





 身体に吸い付く軽量の革鎧は、呼吸に合わせてしなやかに軋む。





 腰のポーチや投げナイフの鞘は、執拗なまでの点検メンテナンスによって、走っても跳んでも完全な沈黙を守っていた。





 若者たちの喧騒が嘘のように消え去ったギルドホール。





 そこはまるで、巨大な獣の亡骸のようだった。





 天井から吊るされた幾つかの魔導ランプだけが、琥珀色の血溜まりのような光を床に落としている。





 揺らめく影は、異形の怪物のように蠢いて見えた。





 エルナは依頼掲示板に一瞥もくれない。





 ただ真っ直ぐに、静まり返った受付カウンターへと歩を進めた。





 カウンターの向こうでは、顔なじみの夜勤職員が帳簿に羽根ペンを滑らせている。





 ふと、エルナが放つ殺気にも似た気配を感じ取り、男が顔を上げた。





 彼女の完全な戦闘支度を目にした瞬間、その眉根がわずかに寄る。





「エルナさん。こんな夜更けに……何か急ぎか」




「夜間通用口の鍵を」





 エルナの言葉は、意味を成す最小限の音節だけで構成されていた。





 挨拶も、説明もない。





 その短さが逆に、彼女の尋常ならざる覚悟を雄弁に物語っている。





 職員は何かを鋭く察したようだ。





 無言で頷くと、カウンターの下から重い真鍮の鍵束を取り出した。





「へい……。東の森、ですかい。近頃、妙な噂が絶えやせん」




「……」





 エルナは答えない。





 その沈黙は、いかなる肯定の言葉よりも重かった。





 男はそれ以上を問う愚を犯さず、目的の鍵を探し始める。





 いくつもの鍵が触れ合う、渇いた金属音。





 それだけが、死んだような静寂を切り裂いていく。





 ほんの数秒。





 時計の針が一度進むよりも短い、取るに足らない時間だった。





 だが、その数秒がエルナには永遠に感じられた。





 逸る心が、指先をカウンターの木目に走らせる。





 無意識にリズムを刻みそうになるのを、強く拳を握りしめることで殺した。





 掌に食い込む爪の痛み。





 それが、沸騰しそうな焦燥をかろうじて繋ぎとめる、唯一のくさびだった。





(派手な助太刀などしない。あの子達が気づかぬうちに、脅威の根を断つ。生きて帰らせる。それが、今の私にできる唯一の贖罪)





 思考は、すでに冷徹な『仕事』の領域へとシフトしていた。





 そこにかつての仲間を悼む感傷はない。





 若者の無謀さを嘆く感情もない。





 ただ、為すべきことを為すという、氷のような使命感だけが燃えている。





 夜間警備の強化。





 以前は自由に使えた扉が施錠されたのは、単独行動の抑制も兼ねていたのだろう。





 だが、今の彼女を止めるかせにはなり得ない。





「お待たせしました。これです」





 差し出された一本の古びた鍵。





 エルナがそれを受け取ろうと手を伸ばした瞬間、頭上の魔導ランプの光が、彼女の装備を鮮明に浮かび上がらせた。





 使い込まれ、所有者の肉体の形を記憶した革鎧。





 その表面には、癒えることのなかった古傷が幾筋も走る。





 腰に差された投げナイフの柄は、持ち主の汗と、幾度も拭われたであろう血脂で鈍く黒光りしていた。





 そして、最も目を引くのは、ベルトに固定された薬品帯ポーション・ベルトだ。





 そこには、様々な色の液体が満たされた十数本の薬瓶が、弾丸帯バンドリアのように整然と並んでいる。





 回復薬ポーションの鮮緑。





 解毒薬アンチドートの紫。





 そして、用途不明の黒。





 その中で一本、粘性の高そうな琥珀色の液体だけが、微かに鼻を突く特有の刺激臭を放っていた。





 虫除けの薬草にしてはあまりに強烈だ。





 樹脂を焼いたような、それでいて獲物の血を沸き立たせるようなその香気。





 それは、特定の獲物を狩る者だけが用いる、特殊な錬金薬であることを示唆していた。





「……礼を言う」







 ***







 会話を断ち切るように無骨な鉄の鍵を受け取ると、エルナは一瞥もくれずに踵を返した。





 ギルドの揺らめく灯火に背を向け、通用口の分厚い扉へと向かうその足取りに、躊躇いの欠片もない。





「贖罪」とは、煌びやかな場所でするものではない。誰の目にも触れぬ場所で、血と泥に塗れてこそ意味を成す。





 それが、彼女の骨身に染みついた唯一の真実ルールだった。





 冷え切った鉄が、錠前に滑り込む。





 重苦しい金属音と共に留め金が外れた。





 樫材の分厚い扉を押し開くと、死者の吐息のような夜気が肌を刺す。





 中に満ちていた酒と汗の澱んだ熱気とは異質の空気。湿った土と腐葉土、そして微かな獣の血の匂いを孕んだ風。





 それは、彼女がこれから踏み込むべき「戦場フィールド」の香りだった。





 闇への一歩を踏み出した途端、肌を刺すプレッシャーを感じてエルナは天を仰ぐ。





 西の空。その大半を、内臓を思わせる赤黒い雲が覆い尽くし、月を蝕んでいた。





 まるで大地そのものが裂け、膿んだ血を天に吐き出しているかのような光景。





 `[Warning: 周辺空域のマナ濃度異常を検知]`





 網膜に焼き付いた過去の残像フラッシュバックが脳裏をよぎる。





 だが、エルナは唇の端を僅かに引き締めただけだった。





 すぐに視線を不吉な空から外し、地平の闇へと据え直す。





 一歩、また一歩と、夜の森へその身を沈めていく。





 表情は凪いだ水面のように静かだ。だがその瞳の奥には、決して揺らぐことのない底なしの覚悟が宿っている。





 闇は彼女を拒まない。





 むしろ、久しく帰らないあるじを迎えるように、その輪郭を静かに受け入れた。







 ***






 第2話:死の森の咆哮、紅蓮の舞踏






 夜の森。





 そこは死そのものが呼吸しているかのような、底なしの静寂に支配されていた。





 湿った土。発酵する腐葉土の甘い腐臭。





 粘つくようなその匂いは、万物を呑み込まんとする濃霧と共に、重く淀んでいる。





 その闇の中を、一つの影が音もなく滑っていく。





 エルナだ。





 濡れた落ち葉一枚、霜が降りた小枝一本すら踏み鳴らさない。





 その足取りは獣よりもなおしなやかで、物理法則を無視するかのように木々の間を抜けていく。





 五感は極限を超えて研ぎ澄まされている。





 闇に潜むあらゆる生命の気配シグネチャ。それをまるで皮膚で感じ取るかのように、彼女は索敵スキャンを続けていた。





 鼻腔を掠める森狼ウルフの野卑な獣臭。





 ゴブリンの巣穴から漂う、糞尿と腐肉の混じり合った悪臭。





 だが、それらは彼女が求めるものではない。単なる環境ノイズに過ぎなかった。





 彼女が追っているのは、もっと微かな――それでいて魂の根源を直接揺さぶる『異臭』だ。





 それは死臭でも、腐敗臭でもない。





 世界の法則システムが軋むような、存在そのものが冒涜バグであるかのような……ただひたすらに不快な、歪みの気配。





 不意に、前方の羊歯の茂みが僅かに揺れる。





 エルナの動きが、水面に落ちた木の葉のように静止フリーズする。





 闇に順応した瞳は、そこに潜む二つの矮小な影を正確にロックしていた。





 ゴブリンだ。





 錆びた鉈を握り、口の端から粘液を垂らしている。無警戒な獲物を待ち構える、卑劣な捕食者。





 並の冒険者モブであれば、その存在に気づくことすらできず、致命的な一撃クリティカルを受けていただろう。





 だが、エルナは違う。





 彼らが殺意の判定チェックに入るよりも刹那早く、その存在を感知していた。





 腰の鞘から抜き放たれた双剣。





 その一振りが、空気を切り裂く音すら置き去りにして闇を穿つ。





 一拍の間。





 くぐもった断末魔が、霧に吸い込まれて消えた。





 一体目のゴブリンが、喉に深々と突き刺さった剣を掴もうとしながら崩れ落ちる。





 相方が何事かと振り向いた瞬間――エルナの影は、すでにその背後バックを取っていた。





 もう一振りの刃が冷たい弧を描く。





 二体目の首が、糸が切れたようにだらりと垂れた。





 一連の動作に、一切の無駄も躊躇もなかった。





 それは殺戮というよりも、練り上げられた舞踏。





 静謐で、冷徹で、そして絶対的に致命的だった。





 エルナはゴブリンの骸に一瞥もくれず、喉から刃を引き抜くと、死体の汚れた腰布で無造作に血糊を拭った。





「……違う」





 吐き捨てた呟きが、白い息となって霧に溶けた。





 こいつらではない。





 この程度の雑種が放つのは、陳腐な殺意とありふれた悪臭だけだ。





 彼女が追う不吉な『異臭』の源泉は、もっと森の深奥、光の届かぬ中心に潜んでいる。





 それから幾度、同じような遭遇を繰り返したか。





 飢えた森狼フォレスト・ウルフの群れを音もなく屠り、潜んでいたファングスパイダーの巣を魔導の火で焼き払った。





 しかし、夜の闇はその深さを失い始め、東の空が死人の肌のように蒼白く染まりつつあった。





 夜明けが近い。





「……見つからない、か」





 徒労感が、鉛のように両肩にのしかかる。





 一晩中、森を駆け巡ったというのに、確かな手応えは何一つない。





 目的の『異臭』は、まるで彼女を嘲笑うかのように捉えどころなく森全体に薄く拡散し、その源泉を巧妙に隠していた。





 これ以上闇雲に探しても、精神(MP)をすり減らすだけだ。





 エルナは天を仰ぎ、白み始めた空から落ちる霧の雫を頬に受けた。





 焦りが、冷たい蟲のように胸の内を這い回る。





 あの『異臭』の正体を突き止め、根絶しない限り、この森はもはや安全な狩り場ではない。





 いずれ、より大きな災厄となって牙を剥く。





 その予感が、肌を粟立たせた。





「一度、ギルドへ戻るべきか……」





 情報の再編。そして、別角度からの再調査。





 それが熟練者ベテランとしての、最適解だ。





 彼女は踵を返し、森の出口へと向かうべく数歩を踏み出した。





 その、瞬間だった。





「――だから言ったろ!昨日のゴブリンなんて、俺一人でも余裕だったって!」




「カイル、調子に乗るな。あれは群れからはぐれた雑魚だ」




「うるせえな!次はもっと奥まで行って、でかいのを狩ってやるんだよ!」





 霧の向こう。森の入り口の方角から、複数の人間の声が届く。





 若い。浮ついている。実力スペック不相応な自信に満ちた声だ。





 静寂と畏怖ドレッドに満ちているべき未明の森には、あまりに不釣り合いな騒音ノイズだった。





 エルナの全身が、弾かれたように硬直する。





 思考よりも速く、オートカウンターのように身体が動いた。





 傍らの巨大な羊歯シダの茂みへと、身を滑り込ませる。





 呼吸を殺し、気配を完全に遮断シャットアウト





 まるで彼女自身が森の一部、一本の木、一つの岩になったかのように――その存在感を、闇へと溶解させた。







 ***







 やがて霧の向こうから、三人の若い冒険者のシルエットが浮かび上がった。





 先頭を歩くのは、見覚えのある顔だ。





 鍛冶屋の息子、カイル。





 ここ一年半で多少は冒険者らしい体つきになったかと思っていたが――その足取りには、未だに根拠のない自信が滲み出ている。





 彼らの武具は丁寧に磨かれてはいる。





 だが、そこには使い込まれた「深み」がない。





 何より、この森に対する根本的な警戒心――生命への畏敬が、絶望的に欠けていた。





「もっと奥に行けば大物がいるって!そいつを狩れば、一気にランクアップだぜ!」




「無茶はよせよ。ギルドのエルナさんにも、いつも注意されてるだろ」




「あの人は心配性なんだよ!俺たちはもう、ただの駆け出しじゃねえんだからさ!」





 意気揚々と交わされる会話が、エルナの鼓膜を不快に震わせる。





 その言葉の端々に透けて見える「無知」と「万能感」。





 それが彼女の神経を、まるで粗いやすりのように削っていく。





(……愚か者どもが)





 内心で、血が滲むほど強く舌打ちをした。





 なぜ来る。





 なぜ、よりにもよってこのタイミングで。





 まだ、この森は牙を隠しているというのに。





 私が一晩かけて索敵しても正体を掴めなかった「脅威」が、この深い霧のどこかで息を潜めているというのに。





 怒りと共に、苦い鉄の味がする記憶がフラッシュバックする。





 仲間を信じ、己の力を過信し、そして全てを失ったあの日の光景。





 絶望に呑まれていく仲間たちの、最期の叫び。





 何もできず、ただ立ち尽くすことしかできなかった自分の無力さ。





 あの光景を、二度と見たくはない。





 この若者たちに、同じ轍を踏ませるわけにはいかないのだ。





 警告すべきか?





 ――否。





 エルナは即座にその選択肢ルートを切り捨てた。





 今の彼らに何を言っても、年長者の戯言としか受け取らないだろう。





 功を焦る若さとは、治療困難な『状態異常デバフ』のようなものだ。





 正面からの忠告は逆効果。かえって彼らを頑なにさせるだけだ。





 ならば、どうする。





 このまま彼らを放置スルーし、ギルドに戻って凶報バッドエンドを待つか?





 ――冗談ではない。





 エルナの瞳に、氷のような冷徹な光が宿る。





 見捨てることなど、できるはずがない。





 あの日、守れなかった者たちの顔が、脳裏のアーカイブで次々と明滅する。





 彼らに気づかれてはならない。





 彼らの矮小な自尊心プライドを、無闇に傷つけるべきでもない。





 だが――死なせることは、絶対に許さない。





 エルナは茂みの中で深く、静かに息を吸い込む。





 意識を切り替える。






『撤退』という選択肢は、もう彼女の思考リソースから完全に消去されていた。






 カイルたちが森の奥へと消えていく。





 その数分後。





 彼らが残した足跡を、影が踏むかのように一定の距離を保ちながら――





 一つの気配が、静かに追跡ストーキングを開始した。





 エルナは、彼らの『影』となることを決意した。





 その存在を誰にも知られることなく、迫り来る脅威から若き命を守る、名もなき守護者として。





 彼女の表情からは焦りも徒労も消え去り、ただ鋼のごとき決意だけが刻み込まれていた。





 東の空が、不吉な赤みを帯び始めている。まるで裂傷から滲み出た血のように。





 それは夜明けの光か、あるいはこれから訪れる惨劇の予兆か。





 エルナはただ黙して、前を行く無垢な光の跡を追った。







 ***







 陽光は死んだ。





 世界樹の如き巨木群が編み上げた天蓋が、その骸から漏れる最後の光さえも貪り尽くしている。





 地上には墓標めいた影だけがまだらに落ち、湿り気を帯びた腐葉土の甘い腐臭が肺を満たす。吐き出される空気は、鉛のように重かった。





 `[System: 環境照度低下。視覚補正ナイトビジョン作動]`





 エルナは、巨大な樫の樹幹にその身を溶け込ませ、呼吸の音すら殺す。





 `[Status: 気配遮断ステルス維持]`





 彼女の凍てついた視線の先、三十メートルほど離れた場所。





 若葉のように脆い冒険者の一党が、死地へ向かう巡礼者のように進んでいく。





「ははっ、見たかよ今の! ゴブリンのクソッたれが飛び出すより先に、俺の剣が閃いたぜ!」





 先頭を歩くカイルの、自信に満ちた声が粘つく空気を震わせた。





 まだ声変わりも済んでいない幼さを残しながら、その実力には到底見合わぬ傲慢が滲む。





 彼の仲間たち――小柄な魔術師の少年と、やや年嵩の弓使いの少女――が、その虚栄心を煽るように甲高い笑い声を上げた。





「さすがカイル! もうDランクじゃ物足りないんじゃない?」




「本当よね。この調子なら、すぐにCランク昇格だわ」





 エルナは音もなく嘆息した。





(愚か者どもが……)





 喉の奥で灼けつくような罵倒を、無理やり飲み下す。





 彼らが今しがた倒したゴブリンは、ただの『斥候スカウト』に過ぎない。





 その死角には、少なくとも五、六匹の伏兵が牙を研いでいたのだ。





 エルナが茂みの奥から小石を放ち、別の獣を驚かせて注意を逸らしていなければ――今頃、彼らの無傷の肉体は無数の鉤爪によって引き裂かれていただろう。





(死に場所を探しているのか、あの雛共は……)





 焦燥が胸の内を掻き乱す。





 ギルドでカイルがこの依頼を受けるのを見た時から、嫌な予感はしていたのだ。





 東の森。





 入り口付近こそ新人の修練場として知られているが、見えざる一線を越えれば話は別だ。そこは捕食者たちの饗宴場へと変貌する。





 彼らが踏み入れているのは、疑いようもなくその『一線』の向こう側――危険地帯レッドゾーンだった。





 縄張りを主張する魔物の殺気が、肌を針で刺すように密度を増していく。





 エルナの脳裏に、数年前の光景がフラッシュバックする。





 鼻腔を焼く血の臭い。耳を劈く仲間の絶叫。





 そして、自らの無力さを呪った、どこまでも冷たい雨。





 あの過ちだけは、二度と繰り返すわけにはいかない。





 だからこそ彼女は、こうして亡霊のように彼らを尾行マークしているのだ。





「おい、見ろよ! あそこに光苔が群生してるぜ。高く売れるやつだ!」





 カイルが指さした先は、切り立った岩壁の窪みだった。





 確かに、亡者の魂のような青白い光を放つ苔がびっしりと生えている。





 だが、その真上。





 巧妙に枝葉で偽装された闇には、粘液を滴らせる巨大な蜘蛛の巣が張られていた。





 あれは、死の揺りトラップだ。





「よし、俺が取ってくる!」





 功を焦るカイルが、無防備に一歩を踏み出そうとする。





 エルナは舌打ちした。





 足元の石を拾い上げると、狙いを定め、手首のスナップだけで弾き飛ばす。





 石は鋭い放物線を描き、カイルたちの頭上を越え、岩壁から大きく外れた藪の中へと乾いた音を立てて落ちた。





 ガサガサッ!





 物音に反応した巨大な影が、巣の奥へと素早く身を翻す。





「ん? なんだ?」





 カイルは足を止め、訝しげに音のした方角を睨む。





 無論、そこには何もない。





「……気のせいか。まあいい、とにかくあの苔を……」




「待って、カイル!」





 弓使いの少女が彼の腕を掴んだ。





「なんだか、空気が……変じゃない?」





 ようやく、彼らも気づいたらしい。





 森の生命を謳っていた鳥の声が、いつの間にか完全に沈黙している。





 風が死に、世界から音が消えたかのような、冒涜的なまでの静寂が支配していた。





 `[Notice: 周囲の環境音レベル低下を確認]`





 `[Warning: 高ランク捕食者の接近を検知]`





 グルルルゥ……。





 地の底から響くような、低い唸り声。





 それは一つではなかった。





 右から、左から、そして背後から。





 悪夢のこだまのように、唸り声が次々と重なり、彼らを取り囲んでいく。





 カイルたちの顔から、血の気が引いていくのが遠目にも分かった。





 ゆっくりと、彼らの周囲の茂みが揺れる。





 その隙間から覗く、飢えと殺意にぎらつく無数の燐光。





 `[Warning: 敵性集団を検知 - 森狼フォレストウルフ]`





 大型の森狼フォレストウルフ





 子牛ほどもあるその巨躯は、鍛え上げられた鋼のような筋肉に覆われている。





 一匹でも新人には死を意味する捕食者が、完璧な包囲陣を敷いていた。





「ひっ……」





 魔術師の少年が、恐怖に引きつった悲鳴を漏らす。





 カイルは震える手で剣を握り直し、虚勢を張って叫んだ。





「う、うろたえるな! 円陣を組め! 背中は任せろ!」





 だが、その声は哀れなほど上ずり、もはや何の権威もなかった。





 恐怖はデバフのように伝染する。





 弓使いの少女は矢をつがえようとするが、その指は裏切り者のように震え、弦を引くことすらできない。





 完全に機能を失った組織パーティは、もはや狼たちのための肉塊でしかなかった。





 一匹の狼が、痺れを切らしたように地面を蹴った。





 それが開戦の合図だった。





 十数匹の鋼の獣が一斉に襲いかかる。





「うわあああっ!」




「来ないで!」





 悲鳴と怒号が森に響き渡る。





 カイルは眼前の狼に必死で斬りかかるが、その丸太のような前脚の一撃で剣を弾かれた。





 圧倒的な質量差(STR差)。





 無様に体勢を崩したカイルの死角を、別の狼が見逃すはずもなかった。





「しまっ……!」





 嫌な音が響く。





 横から飛びかかってきた狼に肩を噛み砕かれ、カイルは地面に叩き伏せられる。





 仲間たちもそれぞれが狼に囲まれ、陣形フォーメーションなどという概念はとうに霧散していた。





 そして、エルナの視界の端で、最も恐れていた事態が起こる。





 防御が手薄になった魔術師の少年が、狼の強烈な体当たりを受けて吹き飛ばされたのだ。





 無防備に背を晒して倒れた彼の上に、巨大な影が躍りかかる。





「ギャッ!」





 短い悲鳴。





 狼は少年を地面に縫い付け、その喉笛に涎を滴らせる牙を剥いた。





 銀色の牙が森の鈍い光を反射し、まさにそのか細い喉を噛み切ろうとした、その刹那――。





(間に合わんか…!)





 エルナの思考が、灼熱の怒りと焦燥で焼き切れる。





 影から守る。





 そんな甘えは、もう限界だった。





 守ると決めたのなら、この身が汚れる覚悟など、とうにできている。





 `[System: 隠密ステルスモード、解除]`





 彼女は樫の木の陰から、黒い流星となって撃ち出された。





 ザッ、と地面を蹴る音は、殺戮の喧騒にかき消され、誰の耳にも届かなかっただろう。





 ただ、一陣の鋭い風が狼たちの間を駆け抜けた。





 キィンッ!





 甲高い金属音。





 それは、少年の喉元に迫っていた狼の牙を、エルナが抜き放った双剣の一振りが弾いた音だった。





 少年を組み伏せていた狼は、何が起きたのか理解する間もなく、首筋に走った銀の閃光によって宙を舞う。





 絶命し、地面に落ちた時には既に「物体」へと変わっていた。





 エルナの動きは止まらない。





 それは舞踏だった。





 新人たちの必死の攻防とは、あまりにも次元の違う、死の舞踏。





 狼の爪を紙一重でいなし、牙を剣の腹で受け流し、その返すカウンターで急所を寸分違わず切り裂いていく。





 一閃。狼の眉間が割れる。





 二閃。別の狼の心臓が穿たれる。





 三閃。飛びかかってきた狼の腱が断ち切られ、無様に転がる。





 彼女の剣技は、力任せ(STR依存)のそれではない。





 最小限の動きで最大の効果を生む、洗練され尽くした鋼の賛歌。





 狼の群れは、この予期せぬ闖入者の絶対的な暴力に怯え、統率を失い始める。





 `[System: 対象敵性集団の士気崩壊モラル・ブレイクを確認]`





 数合と打ち合うまでもない。





 生き残った狼たちは恐怖の咆哮を上げ、蜘蛛の子を散らすように森の闇へと逃げ去っていった。





 数秒後、森には再び静寂が戻ってきた。





 残されたのは、数体の狼の亡骸と、立ち込める鉄錆の匂い。





 そして、眼前の惨劇と、それを一瞬で終わらせた女剣士の姿に、恐怖で石化したカイルたちだけだった。





 エルナは双剣を軽く振って血糊を払い、流れるような動作で鞘に収める。





 そして、まだ地面に座り込んだまま震えている魔術師の少年に歩み寄り、血に汚れていない方の手を差し伸べた。





「立てるか? 怪我は?」




「あ……は、はい……」





 少年は、まるで女神か悪魔を見るような目で彼女を見上げる。





 夢遊病者のようにその手を取り、よろよろと立ち上がった。





 幸い、噛み傷は浅いようだった。







 ***







 安堵の息を吐き、エルナがカイル達へと向き直る。





 その双眸に安堵の色が浮かんだのは一瞬。





 直後、せきを切ったように怒りの炎が揺らめいた。





「お前たち、ここで何を――」





 無謀な若者たちへ厳しい叱責を飛ばそうとした、まさにその刹那だった。





 森が、死んだ。





 狼の群れが沈黙し、束の間の安寧が支配していたはずの空間から、音が消えたのだ。





 風のそよぎ、虫の羽音、遠くで響いていた夜鳥の声。





 あらゆる生命の気配が、まるで巨大な真空に吸い込まれたかのように、ぷつりと途絶える。





 水底に引きずり込まれるような粘性の圧力が、肌に纏わりついた。





 `[Warning: 高密度魔力反応ハイ・マナ・シグネチャを検知]`





「……どうしたんですか?」





 誰かが不安げに呟く。





 その声すら、分厚い壁に阻まれてすぐに消えた。





 そして、狼どもの死骸から立ち上る血の匂いを塗り潰すように、それは来た。





 腐臭と獣脂、そして濃密な死そのものを煮詰めたような悪臭。





 単なる獣臭ではない。脳髄を直接掴んで揺さぶるような、魂の根源にこびりつく冒涜的なまでの異臭。





 生命が本能で拒絶する、絶対的捕食者の『匂い』。





 `[System: 広域精神汚染メンタルデバフ――判定開始]`





 エルナの表情から、急速に血の気が引いていく。





 全身の産毛が総毛立ち、背骨に氷の杭を打ち込まれたかのような激痛に近い悪寒が走った。





 忘れられるはずがない。





 魂に焼き付いた絶望の烙印。





 決して、忘れてはならなかった匂い。





「な……なんだ、この匂い……」




「気持ち悪い……吐きそうだ……」





 カイルたちが顔をしかめ、嘔吐感を堪えるように口元を押さえる。





 だが、彼らの覚える生理的な不快感と、エルナをさいなむ恐怖の質は、次元が違った。





 これは、彼女の過去を喰らい尽くした絶望の香りそのものだった。





 森の深奥。





 陽光さえ届かぬくらい闇の向こうで、対の燐光が静かに灯った。





 それはゆっくりと、しかし揺るぎない捕食者の歩みで、こちらへと近づいてくる。





 ざっ……ざっ……。





 枯葉を踏みしめる音は、大地の奥底から響いてくるかのように重い。





 やがて、木々の隙間から差し込むわずかな光の下に、その異形の全身がぬらりと浮かび上がる。





 悪夢の具現だった。





 筋骨隆々たる獅子の胴体に、蝙蝠こうもりを思わせる皮膜の翼。





 見るからに猛毒を湛えた巨大なサソリの尾が、鎌首をもたげて不気味にうごめいている。





 そして何よりおぞましいのは、その頭部だった。





 たてがみに縁取られたかおは、苦悶に歪む人のそれを模した冒涜的な造形。





 その双眸そうぼうには獣の獰猛さとは異質の、冷酷な理性の光が宿っていた。





 `[Warning: 高ランク敵性存在ハイ・ランク・エネミーを検知]`





 マンティコア。





 神話に謳われる最悪の捕食者。





 伝承に聞くほどの巨体ではないことから、まだ成体ではないのだろう。





 だが、その幼体から放たれる存在感プレッシャーは、この森の生態系の頂点に君臨する者であることを疑いようもなく示していた。





 カイルたちは呼吸さえ忘れ、金縛りにあったようにその場に縫い付けられる。





 グルルルルゥ……。





 喉の奥で、地を這うように低く唸る。





 それは獲物を前にした悦び。





 そして、絶対的な強者だけが持つ傲慢さに満ちていた。





 だが、エルナの耳にその咆哮は届いていない。





 強烈な『匂い』。





 それが固く閉ざした記憶の扉をこじ開け、過去の悪夢を溢れさせる。





 `[System: 精神汚染トラウマ深度上昇]`





 視界が歪む。





 ぐにゃり、と。





 目の前の景色から、色が抜け落ちていく。





 狼の死骸が転がる地面が、かつて見慣れた仲間たちの血で濡れた大地と重なった。





 恐怖に引き攣るカイルの顔。





 それが血の海に沈み――虚ろな瞳でこちらを見上げていた後輩の顔と溶け合う。






『エルナ先輩……』






 すぐ耳元で、囁く声がした。





 幻聴だ。分かっている。





 それでも、あまりに鮮明なその声に、エルナの意識は過去の奈落へと引きずり込まれていく。





 あの時も、そうだった。





 格上の魔獣エリアボス





 半壊したパーティ。





 絶望に染まる仲間たち。





 ただ一人、まだ立てていた自分。





 守らなければ。





 そう焦る心とは裏腹に、恐怖フィアーで身体が動かない。





 そこへ、この匂いが漂ってきたのだ。






『逃げ……て……』






 自分を庇って致命傷を負った後輩。





 彼女が最後の力を振り絞って紡いだ言葉。





 その懇願を最後に、彼女の瞳からハイライトは永遠に失われた。





 エルナの呼吸が、止まる。





 喉が灼けつくように痙攣し、空気を拒絶した。





 指先から急速に熱が失われていく。





 思考は凍てつき、鉛と化した四肢が意思を裏切る。





 目の前には、血の海に沈む部下の幻影。





 その向こうで、マンティコアがゆっくりと歩を進めてくる。





(……同じだ)





 砕けた硝子のような声が、心の中で響く。





(この匂い。この絶望。何もかも……あの時と、同じじゃないか……)





 過去と現在が混濁し、時間の感覚が溶けていく。





 守ると誓ったはずの者たちが、また目の前で命を散らす。





 歴史は繰り返される。





 自分は、またしても間に合わない。





(また、守れないのか……? 私が、ここにいる意味は……?)





 後悔と無力感の津波が、彼女の心を呑み込んでいく。





 握りしめた剣の柄が、ひどく冷たい。





 遠い。





 戦うという意志そのものが、トラウマという猛毒デバフに蝕まれ、麻痺していく。





 `[System: Warning —— 精神汚染レベル、危険域クリティカル]`





 心が、ぽっきりと折れる音がした。





 その、絶望の深淵に意識が沈み切る寸前。





「エ、エルナさんッ……!」





 不意に響いたのは、悲鳴にも似た絶叫だった。





 カイルの声だ。





 恐怖に喉を凍らせていたはずの彼が、全身を震わせながら、最後の希望を託すように彼女の名を叫んでいた。





 それは幻聴ではない。





 今、ここで、すぐ隣で響いている、紛れもない『現実』の音。





  ――エルナさん。





 その呼び声が、過去の悪夢に突き立てられた一本のくさびとなる。






「俺は……これ以上、誰かの背中で震えてるだけの『荷物』は御免だッ!」





「エルナさんだけじゃない……あいつらも、俺の仲間なんだ……ッ! 俺にも、守らせてくださいよぉッ!!」






 目の前にいるのは、血溜まりに倒れる後輩ではない。




 肩から鮮血を流し、恐怖に膝を震わせながらも、硬直したエルナを庇うように立ち塞がるカイルの姿だった。




 その向こうには、紛れもない現実の脅威として、マンティコアが悪意に満ちた瞳で自分たちを品定めしている。





 ハッと、エルナは息を呑んだ。






 `[System: 精神汚染メンタル・デバフからの回復を確認]`






 パリン、と硝子が砕ける音を立てて、視界を覆っていた血の幻影が霧散する。





 耳元で囁いていた後輩の声が消え失せた。





 代わりに、マンティコアの低い唸りと、カイルたちの荒い息遣いが、現実の音として鼓膜を打った。





 視界に映るのは、もはや絶望の残滓ではない。





 そこには、恐怖に顔を歪ませながらも、必死にこちらを見つめるカイルがいる。





 そしてその向こう。





 石化の魔眼すら溶解させるほどの濃密な殺気を放ち、異形が今まさに、そのあぎとを開こうとしていた。





(……違う)





 心の中で、彼女は強く首を振った。





(まだ、終わっていない。誰も、死んでなどいない!)





 過去は過去。今は、今だ。





 同じ絶望を繰り返すために、ここに立っているのではない。





 硬直スタニングしていた指先に、ゆっくりと力が戻る。





 冷え切っていた身体の芯に、小さな熾火のような熱が灯った。





 それは怒り。悔恨。





 そして何よりも強い、守る者としての覚悟。






 `[System: IF Route ——「全滅」ルートへの分岐まで、残り 3秒]`


 `[System: Warning: カイル の死亡フラグが確定します]`






  `[System: 精神汚染メンタルデバフ全解除]`




 




 エルナは、悪夢を振り払うように一度強く目を閉じ――。





 そして、再びその瞼を開いた。





 その双眸に宿る光は、もはや絶望の色ではない。





 過去の亡霊をその身で断ち切り、眼前の『現実』と対峙する。





 それは、鋼の如き戦士の瞳だった。





 エルナは腰のベルトから、あの琥珀色の小瓶を引き抜いた。





 栓を歯で食い千切り、粘つく液体を双剣の刀身へと垂らす。





 刹那、鼻を突く強烈な樹脂の香りが立ち込めた。





 それはマンティコアのような高位魔獣の闘争本能を強制的に沸騰させる、狩人専用の『激化香』。





 対象の認識を「捕食」ではなく「排除すべき敵」へと書き換える、強制誘導タウントアイテムだ。





 `[System: 強制誘導タウント効果適用 >> 対象固定]`





 これで奴の標的は、間違いなく私一人に固定される。







 ***







 万物を圧し潰すかのような咆哮が、世界そのものを揺るがした。





 音の濁流のただ中で、しかし彼女の動きだけは、時が凍ったかのように静謐だった。





 革巻の柄を、指が白むほどに握り締める。





 構え直された剣の切っ先は、ただ一点。





 咆哮の震源たる異形の顎に向け、氷の宣告のように、微動だにしなかった。





 次の瞬間、エルナの眼前に《死の塊》が迫っていた。





 横薙ぎに振るわれた前脚。





 丸太のごとき質量と、鋼鉄すら容易く断ち切る鉤爪の暴威。





 `[Warning: 致死級物理攻撃(Fatal Strike)接近]`





「ッ!」





 呼気一閃。





 エルナは半歩踏み込み、双剣をX字に交差させる。





 正面から受けるのではない。衝撃のベクトルを逸らす、受け流し(パリィ)の構えだ。





 ガギィンッ!!





 脳髄を揺さぶる衝撃音が森に木霊し、火花が闇を焦がす。





 受け止めた腕の骨が悲鳴を上げた。





 ブーツの底が地面を削り、深い溝を作っていく。





 `[Alert: 筋力値(STR)差・顕著]`





 基礎スペックの差は歴然だ。





 まともに受ければ、HP(生命力)など一撃で消し飛び、挽肉にされるだろう。





 だが、エルナは引かなかった。





 彼女が退けば、その背後にいる若者たちが肉塊に変わる。





 タンクが崩れれば、パーティは全滅するのだ。





「グルゥァッ!」





 エルナは衝撃を利用して空中に身を躍らせた。




 だが、それは単なる回避ではない。




 空中で身体を捻り、回転の遠心力を全てのせた双剣が、死神の鎌の如き軌道を描く。





 一閃目が鼻先を切り裂き、獣がのけぞったその刹那――。





 遅れて走る二閃目が、針の穴を通すごとき精度でマンティコアの右眼を深々と抉り抜いた。






「ギャオォォォッ!!」






 噴き出す鮮血と硝子体。




 ただでは退かない。死の淵にあってなお、相手の急所を喰らい尽くそうとする底知れぬ執念。





 それが、戦場で生き残ってきた『双剣』の実力スキルだった。






 激昂エンレイジしたマンティコアが吠える。





 `[System: 広域音響攻撃ロア検知]`





 `[Check: 状態異常抵抗レジスト判定……]`





 その咆哮だけで大気が振動し、平衡感覚が狂わされそうになる。





 間髪入れず、闇の奥から凶刃が奔った。





 蠍の尾だ。





 毒液を滴らせた紫色の針が、鞭のようにしなってエルナの心臓を狙う。





「させ、ないっ!」





 エルナは腰のポーチから手探りで何かを掴み、地面に叩きつけた。





 ボンッ! と白煙が爆ぜる。





 視界を奪うための煙幕だ。





 だが、マンティコアの翼が生み出す暴風が、それを瞬時に吹き飛ばした。





(――その隙を、待っていた)





 風を生むために翼を大きく広げた、その一瞬。





 エルナは腰帯の『黒い小瓶』を引き抜き奥歯で噛み砕いた。





 喉を焼く劇薬が、戦士特有の体内魔力循環オド・サーキットと激突し、爆発的な冷気を精製する。





 `[System: 薬物反応検知。魔力変換効率マナ・コンバージョン上昇]`





 左手の剣が、瞬時に蒼白く凍てついた。





「シッ!」





 追撃の尾が迫る中、彼女はあえて死地へと踏み込む。





 氷結の刃が、無防備に晒された翼の皮膜を切り裂き、その付け根を一瞬にして凍結させた。





 パキパキと不気味な音を立てて、飛翔の機能が破壊される。





 だが、その代償として――





 回避が遅れた横腹を、蠍の尾が容赦なく抉った。





「がはっ……!」





 革鎧が裂け、熱い痛みが走る。





 毒こそ食らわなかったが、打撃の重さが肋骨に響いた。





 `[Warning: 物理ダメージ(中)。肋骨への衝撃を確認]`





「エルナさん!」





 カイルが叫び、剣を構えて飛び出そうとする。





「来るなッ!!」





 エルナは血を吐くように叫んだ。





 その一瞬の隙、判断の遅れ(ラグ)が命取りになる。





 マンティコアの殺意ヘイトがカイルに向いた刹那、エルナは死地へと自らの身体を割り込ませた。





 襲い来る爪の連撃。





 一合、二合、三合。





 防ぐたびに双剣の刃が悲鳴を上げ、腕の感覚が麻痺していく。





 `[Warning: 装備耐久度(Durability)低下]`





 回避ドッジに徹すればどれほど楽か。





 だが、背後の雛鳥たちを守るという鎖――タンクとしての役割が、高機動(AGI)型である彼女の動きを致命的に制限していた。





 投げナイフを放つ。





 硬い剛毛に弾かれる。





 `[System: 物理ダメージ無効(No Damage)]`





 ダメージは通らない。





 罠を仕掛けるキャストタイムなどない。





 最後の回復薬ポーションを呷るクールタイムすら存在しない。





 ジリ貧などという生易しいものではない。





 これは、緩やかな処刑だ。





 エルナの喉から、獣の喘ぎにも似た呼気が漏れた。





 腰帯で虚しく揺れるポーションの小瓶はとうに干涸らびている。





 リソースは全枯渇オール・エンプティ





 最後の煙幕も、罠も、闇に呑まれて久しい。





「選択肢」などという言葉は、もはや欺瞞に過ぎなかった。





 視界の端、恐怖に縫い付けられたように立ち尽くす三つの影。





 カイルと二人の、あまりに若い冒険者。





 その双眸に映るのは、理性を焼き切った純粋な死への畏怖。





 `[Status: 精神汚染メンタルデバフ - 状態:硬直スタン]`





 こんな終わりを望んで、彼らは剣を取ったわけではあるまい。





(守る…)





 灼けつく肺の痛みが、記憶の蓋をこじ開ける。





 かつて守れなかった者たちの、声なき絶叫が鼓膜の内側で蘇る。





(――二度と)





 その誓いだけが、砕け散りそうな身体を繋ぎとめる最後の楔だった。





 自身のHP(生命力)を維持する、唯一の理由。





 背後で地が鳴る。





 マンティコアの鉤爪が腐葉土を掻きむしり、巨岩を砕く音が、死の宣告のように迫る。





 エリアボス級の殺意が、すぐそこまで来ていた。





 覚悟と呼ぶには、あまりに脆い決意。





 エルナは震える指を、革鎧の内ポケットへと滑り込ませた。





 指先に触れたのは、氷のように冷たく、硬質な感触。





 かつてフォルティアの都で、来年一年分の生活費すべてと引き換えに入手した代物。





 拘束系の魔法結晶マジック・クリスタル





 万が一の、そのまた万が一のための保険。





 ――その「万が一」が今、牙を剥いて目の前に迫っている。





 躊躇は、心臓の一拍分だけ。





 彼女はそれを引き抜くと、振り返りざまに腕を振るった。





 闇よりもなお暗い巨大な影の中心へ、祈りを込めて投げつける。





 空を裂いた結晶が、マンティコアの胸郭で弾けた。





 `[System: 魔術連鎖マジック・シークエンス、起動]`





 刹那、世界から音が消える。





 網膜を白く焼き切るような閃光。





 森が真昼の明るさへと塗り変わり、遅れて鼓膜を突き破る甲高い衝撃波が空間を震わせた。





「――ッ!」





 眩暈がするほどの光が収束した、その時。





 マンティコアの巨体は、光で編まれた無数の鎖に縛められていた。





 光のかせは魔獣の鋼の筋肉に深く食い込み、その動きを完全に封じている。





 だが、商人は言っていた。





 その効果時間は――永遠にも等しい、ほんの数秒であると。





「今だ! 走れ!」





 閃光フラッシュに目を焼かれ、カイルたちが棒立ちになる。





 私は彼らの腕を、骨が軋むほどの力――STRに任せて強引に掴んだ。





 手加減など、している余裕はない。





「エルナさん!?」




「問答は後! 川へ! 生きたいなら走れ!」





 死に物狂い。そんな生温い言葉では表現できない。





 剥き出しの生存本能だけが、俺たち四人の足を前へと蹴り出させる。





 隆起した木の根が足首を狙い、鞭のような枝が容赦なく頬を裂く。





 肺は酸素欠乏を訴え、口の中には鉄錆びた血の味が広がっていく。





 心臓が肋骨を内側から叩き割らんばかりに、狂おしく警鐘を鳴らしていた。





 痛みも苦しみも、情報のノイズとして処理する。





 ただ前へ。





 この地獄を抜けた先にある、『川』という名の生存ルートへ。





 その時。





 背後で、硬質なガラスが砕け散るような音が甲高く響いた。





 エルナが展開した光の鎖が、マンティコアの規格外の膂力(STR)によって引き千切られた音だ。





 グルォォォオオオオオオッ!!





 森の天蓋キャノピーを揺るがす怒りの咆哮が、大気をビリビリと震わせる。





 獲物に拘束されたという屈辱が、魔獣の凶暴性に火を点けたらしい。





 `[System: 対象敵対生物ホスタイル敵対値ヘイトが限界突破]`





 先ほどとは比較にならない殺意と速度。





 死の追跡戦チェイスが、再開される。





 巨大な心臓が真下で脈打つかのような地響きが、足裏から内臓を直接揺さぶってくる。





 姿は見えない。だが、確実に『いる』。





 肌をあわ立たせる死の圧力が、背中にぴったりと張り付いていた。





「くそっ…! 速すぎる…!」





 カイルの悲鳴に、絶望の色が滲む。





(まだだ…まだ間に合う…!)





 エルナは奥歯を砕けんばかりに噛み締める。





 闇に慣れた瞳が、木々の隙間に揺れる微かな光を捉えた。





 木漏れ日を反射する、鈍い水のきらめき――。





「見えた! あそこだ!」





 最後の力を振り絞り、四人はもつれるようにして森の縁を転がり出た。





 眼前に広がっていたのは、轟々と咆哮をあげる濁流。





 川岸まで、あと数メートル。





 背後の気配プレッシャーは、手を伸ばせば届くほどにまで肉薄していた。





 `[Warning: 敵性存在ホスタイル接近 —— 危険域クリティカル]`





 マンティコアの吐く、血と獣脂の混じった熱い息。





 それが首筋を舐める錯覚に、全身の神経が警鐘を鳴らした。





 振り返るな。





 考えるな。





「行けぇっ!!」





 川岸に辿り着いた瞬間、エルナはカイルたちの背中を躊躇なく突き飛ばした。





 悲鳴とも驚愕ともつかぬ声が上がり、三つの体が冷たい水面を叩く。




 背後から迫る気配が、巨大な質量となって空気を押し潰す。  




 それは生物の接近というより、見えない断頭台の刃が、重力に従って首元へと振り落とされる瞬間の圧迫感に似ていた。





  そして自らも、最後の一歩で強く地を蹴り、身を躍らせた。





 宙を舞う世界がスローモーションになる。





 眼下には濁流。そして背後には――右眼を抉られ、隻眼となった魔獣が、血涙を流しながら虚空を切り裂いていた。




[System: 対象への『復讐の刻印リベンジ・マーク』を確認]


[System: Unique ID: "隻眼のマンティコア" を宿敵リストに登録]




 その傷は、もはや浅くない。恐怖の対象だった怪物は、今や手負いの『宿敵』へと堕ちたのだ。






 (――次こそは)






 確かな因縁マークをその身に刻みつけ、エルナの体は冷たい水面へと吸い込まれていった。






濁流が、汗と血に染まった絶望的な匂いを掻き消し、洗い流していく。





 燃えるように火照った全身を、数千の氷の刃が同時に突き刺さるような鋭利な激痛が貫く。





 一瞬、呼吸が止まった。





 だが、この冷たさこそが生命線だ。





 濁流が、骨の髄まで浸透していた死の予感――『敵対性誘引アグロソース』を、容赦のない冷徹さで洗い流していく。





 `[Notice: 嗅覚追跡セント・トラッキング無効化]`





 水面に顔を出すと、対岸の森から躍り出たマンティコアが、川岸で苛立たしげに地を掻いていた。見失った獲物を前に、荒れ狂う川の流れを越える術はないらしい。





「…渡るぞ…! 岸に上がれ…!」





 エルナは最後の気力を振り絞って叫び、仲間と共に必死で腕を掻いた。





 水を吸った革鎧が鉛のように重い。





 装備重量過多オーバーウェイトの負荷が体に絡みつき、一掻きごとに体力を削り取っていく。





 それでも、生への渇望だけが、彼らを対岸へと押しやった。





 泥にまみれながら、四人はなんとか岸へと這い上がる。





 カイルが仲間たちの無事を確認し、震える声で安堵の息を漏らした。





「…やった…助かった…エルナさん、あなたのおかげで…」





 カイルが感謝の言葉と共に、エルナを振り返る。





 その時だった。





 張り詰めていた何かが、ぷつりと音を立てて切れる。





 立っていたはずのエルナの身体が、ゆっくりと傾いだ。





 まるで糸の切れた操り人形のように。





 彼女の瞳から意志の光が消え、ただカイルたちの姿をぼんやりと映す硝子玉へと変わっていく。





 `[Warning: 限界活動時間を超過]`





 全身を駆け巡っていた極度の緊張とアドレナリンが霧散した、その瞬間。





 蓄積されたダメージと疲労の奔流が、限界をとっくに超えていた肉体と精神を、完全に沈黙させたのだ。





「エルナさん!?」





 カイルが駆け寄るより早く。





 彼女の身体は音もなく、濡れた地面に崩れ落ちた。





 薄れゆく意識の闇の中。





 仲間たちの焦燥に満ちた声と、自分に駆け寄る足音を、エルナはどこか遠くに聞いていた。





 全身が泥に沈み込んでいくように重い。指一本動かせない。





 `[Warning: HP限界値を下回りました。身体制御権限を喪失]`





 脳裏に無機質な警告が明滅するが、不思議と恐怖はなかった。





 視界の端に映るのは、泥だらけでずぶ濡れだが、確かに生きて呼吸をしている若者たちの姿。





(…間に、合った…か…)





 守りきれた。





 その事実だけが、冷え切っていく心の芯に、熾火のような小さな温もりを灯す。





 微かな安堵と共に、彼女の意識は深く、静かな闇へと完全に溶けていった。





 `[System: 意識レベル低下。強制シャットダウン]`







 ***







 夜の帳が下りた冒険者ギルドの酒場。





 そこは一日の死線を生き延びた者たちの熱気と、安堵という名のアルコールがない交ぜになった、独特の喧騒に満ちていた。





 遠くで交わされる武勇伝。高らかな笑い声。





 それらはまるで分厚い水の底から聞こえてくる環境音のように、エルナの耳には届かない。





 数時間前、医務室で喉に流し込まれた回復薬ポーション





 その苦い後味と、古傷に食い込む真新しい包帯の感触だけが生々しく残っている。





 彼女は酒場の最も隅、影が澱むように溜まるテーブルで、一人静かにエールを呷っていた。





 琥珀色の液体が喉を焼く感触は、今日の戦いで失った血よりも、心を削り取った疲労の味によく似ていた。





 身体は鉛。思考は泥。





 `[Status: 精神的摩耗メンタル・ウェアを確認]`





 それは単なる疲れではない。





 死線を越えた後に必ず訪れる、魂が肉体から乖離したかのような虚脱感。





 全てを吐き出し、燃やし尽くし、何も残っていない空虚な器だけが、この隅の席に縛り付けられていた。





 不意に、テーブルへ三つの影が落ちる。





 顔を上げる。





 そこには、治癒を終えたばかりのカイルと二人の仲間が、石像のように直立していた。





 森の泥と、乾いた血。





 その顔には、死線を踏み越えた直後の生々しい記憶が張りついている。





 エルナは応えない。





 感情の光を失った、凍てついた湖面のような瞳で三人を見返すだけだった。





 言葉を発するだけの熱量エネルギーすら、今の身体には残っていない。





 次の瞬間、三人は揃って腰を折った。





 儀礼的なものではない。





 床に額を擦り付けるような、悲痛なまでの深々とした礼。





 革鎧の軋む微かな音だけが響く。





 それは謝罪であり、感謝であり、言葉にならない畏怖の発露だった。





 酒場の喧騒が、幻のように遠ざかる。





 やがて、カイルがおずおずと顔を上げた。





 恐怖と混乱に揺れていた瞳の奥。





 今は、炉で赤められた鉄のような、揺るぎない光が灯っている。





 彼は一度固く唇を結び、喉の奥から声を絞り出した。





「エルナさん……。俺たちに、『生きて還る』ということを、教えてくださって……ありがとうございました」





 その言葉が、凍結した記憶の扉をこじ開けた。





 叩きつける雨音。





 鉄錆と泥の匂い。





 自分を庇い、獣の爪に切り裂かれていく若い背中。





 助けを乞う声に、応えられなかった自分の、麻痺した指先。





 あの日から、エルナの世界は凍てついた森の中で止まっていた。





 誰かを導く資格など、とうに失った。





 新米たちの真っ直ぐな瞳は、罰のように胸を抉るだけだった。





 だが、その冷え切った残像の上に、今日の光景が音もなく重なる。





 咆哮を上げるマンティコア。





 泥濘に踏み込み、がむしゃらに剣を振るうカイル。





 恐怖に顔を引き攣らせながらも、それでも指示を信じようとした魔術師と弓使いの瞳。





 ――死なせなかった。





 ――守り抜いた。





 過去の惨劇が消えるわけではない。





 失われた命が還るわけでもない。





 だが、凍てついていた心の湖に、今日という名の熱い石が投じられ、微かな、しかし確かな波紋が広がっていく。





 その感覚が、エルナの呼吸をわずかに乱した。





 何も言えなかった。





 感謝も、労いも、喉の奥で形をなさずに霧散する。





 ただ、死の匂いを引きずりながらも懸命に立っている三つの命を、見つめることしかできない。





 張り詰めた沈黙を破ったのは、カウンターの奥で重い木椅子が軋む音だった。





 このギルドのすべてを見てきた酒場の女主人、エン・ブーザー。





 彼女は年季の入った腕でエプロンを締め直すと、静かにこちらへ歩いてくる。





 テーブルに着き、エルナの前に、ことりと木製の椀を置いた。





 ふわり、と湯気が立つ。





 飾り気はない。





 だが、身体の芯まで温めてくれそうな、干し肉と野菜のシチューの香りが鼻をくすぐる。





「お帰り。……全員、揃ってるとは上出来じゃないか」





 無骨で、短い言葉。





 だがそれは何より、慈しみに満ちた声だった。





 エルナの視線が、カイルたちの真摯な顔と、湯気の立つ椀とを、緩慢に行き来する。





「……座れ。腹が減っているだろう」





 自分でも驚くほど、声が掠れていた。





 カイルたちが戸惑いながらも向かいの席に腰を下ろす。





 それを見届け、エルナは細く、長い息を吐いた。





 それは疲労ではない。





 凍てついた何かが、ほんの少しだけ内側から融解するような――深い安堵の息だった。





 `[System: 対象の精神的緊張(ストレス値)の低下を確認]`





 ほんの僅か、彼女の口元が緩む。





 微笑と呼ぶにはあまりに些細で、影に溶けてしまいそうな儚い輪郭。





 けれどそれは、誰の目にも触れなかったとしても、彼女の中に生まれた確かな救いの兆しだった。





 エルナはゆっくりと木匙を手に取る。





 湯気の立つシチューをすくい、静かに口へと運んだ。





 じんわりと広がる熱。





 それが冷え切った身体の芯へ、そして止まっていた心の奥深くへと、ゆっくりと沁み渡っていく。





 過去は消えない。





 刻まれた傷も、悔恨も、これからも彼女の中に在り続けるだろう。





 だが――。





 確かな温もりが、今、ここに在る。





 今は、それだけで良かった。


ここまで読んでくださって、ありがとうございます!

いやー、マンティコア強かったですね! エルナさん、マジでギリギリでした……。

カイルたちも、今回のクエストで少しは成長できたでしょうか?


「エルナさん、カッコいい!」「続きが気になる!」と思っていただけたら、ぜひぜひ評価と、ブックマーク登録をお願いします!

皆さんの応援が、エルナさんたちの次への活力になりますので!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ