触れられない理由、触れたい想い
胸の奥に、 まだ息をしている影がある。
忘れたふりをしても。 名前を変えても。 夜に逃げても。
影は、消えなかった。
これは、影と共に生きてきた 一人の女の子の物語
紗羽は胸に手を当て、ゆっくりと息を吸った。
「来てくれてありがとう。ちゃんと全部話すよ。」
声は震えていない。けれど、指先はかすかに揺れていた。
「…昼の私は、みんなが知ってる“紗羽”だよね。笑って、明るくて……普通でいたい私。」
結凛がそっと頷く。
「うん…」
藍香は優しく微笑んだ。
「紗羽の笑顔、好きだよ。」
その言葉が胸に刺さり、紗羽は一瞬だけ目を伏せた。
「…でも、それだけじゃ、生きられなかったんだ。」
紗羽は息を整え、静かに続けた。
「夜は…“蓮”って名前で動いてる。バーに行って……お姉さんたちの相手してた。」
結凛が眉を寄せる。
「相手って……どういう……?」
「寂しさを紛らわせたくて。何も考えたくないから。誰かと喋って、触れられて……時間が早く過ぎるようにしてた。」
藍香の表情が揺れた。
「紗羽……そんな……」
「楽しくないよ。ただ……沈まないようにしてただけ。」
紗羽は少し間を置き、さらに言葉を続けた。
「裏の顔もある。“銀狼”。この町で……必要じゃない人たちを止めてる。」
結凛が息を呑む。
「必要じゃない……?」
「誰かを傷つけることしかしない人。捕まってもまたやるような人。そういうのを……徹底的に止めてる。」
藍香は驚いたように紗羽を見つめた。
「……紗羽が……?」
「基本は命令するだけ。危ないとき以外は狼牙たちが動く。」
鷹臣が胸を張る。
「銀狼がトップっすから。」
湊も続ける。
「この町、銀狼が守ってるんすよ。」
その横で、無口な青年——凪が静かに立っていた。
気配を消すように佇んでいるが、視線だけは紗羽を守るように鋭い。
結凛は震える声で言った。
「……紗羽……そんなこと……ひとりで……?」
「ひとりじゃない。狼牙たちがいる。」
藍香がそっと一歩近づいた。
「……じゃあ……さっきパニックになったのも……その“裏”のことと関係あるの……?」
紗羽は喉を震わせ、息を飲んだ。
「んーん。それが、違うんだ。……匂い……」
藍香が眉を寄せる。
「匂い……?」
「……藍香さんの……匂いが……だめで……」
藍香の表情が揺れた。
「……私の……匂い……?どう受け止めていいのかわからないんだけど……」
紗羽は言葉を失い、湊が代わりに正座して口を開いた。
「失礼します。本人の口からまだ言えないことをお許しください。
銀狼……紗羽さんは……藍香さんのこと、ほんとに大好きなんすよ。」
結凛が息を呑む。
「……好き……?」
藍香は震える声で紗羽を見る。
「……紗羽……?」
湊は続けた。
「でも……“大切な存在”になるのは怖いんす。銀狼は……大切なものほど失うのが怖い人なんす。」
結凛が小さく呟く。
「……だから“離れて”って……」
「そうっす。嫌いだからじゃない。むしろ好きすぎて、近くに来られると……壊れそうになる。」
歩睦が胸を押さえる。
「……苦しいな、それ……」
湊はさらに続けた。
「匂いで全部思い出すんす。トラウマもある。触れられない。匂いが染み付いて離れない。それでパニックになる。」
結凛は涙をこらえながら紗羽を見つめた。
「……紗羽……」
湊は最後に言った。
「藍香さんが悲しい顔するのが……銀狼にとって一番きついんすよ。」
藍香は唇を噛んだ。
紗羽は否定もせず、ただ静かに目を閉じて聞いていた。
そして、ぽつりと本音を落とした。
「……私さ……藍香さんのこと……大好きなんだ。」
藍香の目が揺れる。
「家族の事故とか……そんなのより……もっとずっと前から……ずっと……好きだった。」
涙が落ちる。
「でも……一番尊敬してた姉と……一番話が合った父が……死んで……“自分に近づいたらいなくなる”って……思うようになって……」
そこまで言った瞬間、紗羽の目から涙が落ちた。
鷹臣がすぐに支える。
「銀狼、息ゆっくりっす……吸って……吐いて……」
紗羽は震えながら続けた。
「……匂いが……いちばん……藍香さんを思い出す……大好きだった。いい匂い……」
藍香は胸に手を当てた。
「……それで、私の……匂い……?」
「昨日さ……バーで一緒にいたお姉さんの香水が……藍香さんに似てて……フラッシュバックして……息できなくなって……」
結凛は手で口を押さえた。
「いつも……近くにいるのに……触れられる距離なのに……触れられなくて……苦しくて……」
藍香の目が赤くなる。
「だから……お姉さんたちで……紛らわせてたっていうのもある。でも……藍香さんじゃないと……だめでさ……」
涙がぽたぽた落ちる。
鷹臣がそっと背中を支える。
「こんな……こじらせてたら……藍香さんの幸せなんか……掴めなくて……私なんか……近くにいちゃ……だめだって……思って……」
藍香は胸に手を当て、震える声で言った。
「……紗羽……そんなふうに思ってたの……?それって、わたしが、、」
紗羽はすぐに首を振る。
「ちがう!……藍香さんのせいじゃない……絶対に……自分を責めないで……お願い……」
藍香の目から静かに涙が落ちた。
紗羽の涙は静かで、綺麗で、胸を締めつけた。
「……藍香さんが……悲しい顔するのが……いちばん……つらいんだよ。笑顔でいてほしい。
だから……離れて……って……言っちゃった。ほんとは……そばにいてほしいのに……」
藍香は胸に手を当て、震える声で言った。
「……紗羽……すこしだけ……考えさせて……」
結凛がそっと肩に触れた。
「……行こ。少しだけ……時間、もらおう。」
藍香は深く息を吸い、別室へ向かった。
扉が閉まる瞬間、紗羽は小さく呟いた。
「……うん……大丈夫……」
鷹臣が紗羽を横にさせ、呼吸を合わせる。
湊が水と甘いものを持ってくる。
凪は静かに見守りながら、紗羽の呼吸のリズムを確認していた。
「……いつもありがとう……」
凪が別室へ向かい、状況を伝える。
結凛たちは静かに話し合い、藍香は涙を拭いながら決意を固めた。
「……紗羽のペースで……そばにいる。触れられなくても……距離があっても……それでも……紗羽のそばにいたい。」
そして紗羽のもとへ戻り、まっすぐに問いかけた。
「紗羽。一つ質問をさせて。
紗羽は…なんで私に“触れられない”って思ったの?」
紗羽は逃げずにきらきらした笑顔で答えた。
「…藍香さんはね…みんなの太陽なんだ!かわいくて…かっこよくて…やさしくて…私にとっては…天使で…女神で…」
話す間にも涙が落ちる。
「私は…藍香さんに…したくてもできないことを…バーのお姉さんたちにしてたんだ…
ただ恋愛感情をこじらせて、ね。」
結凛が息を呑む。
「最悪でしょ…こんな人間が…藍香さんを独り占めしちゃ…だめなんだよ…」
涙が静かに落ちる。
「穢したくなかった…濁したくなかった…藍香さんの…明るさが…だいすきだから…」
「さっきさ。藍香さんが横を通った時に、匂いが一気に頭に戻ってきて…好きで…仕方なくて…匂いが入らないように…遠く行ってって…言っちゃったんだ…さっき…」
そして笑いながら呟く。
「だってさ。パニクってる原因の人が…やさしすぎて…助けようとしてくれるから…傷つけたくなかったのに…笑。
だから…言っちゃった…最悪だね…」
紗羽の涙は静かに落ち続けた。
藍香はその涙を見て、ふっと微笑んだ。腑に落ちたように。
この子に必要なのは誰かに甘えられる環境だと。
「最低じゃないよ。こっちおいで。」
紗羽は驚いて顔を上げる。
「その匂いはね、“いいものなんだ”って。“抑えなくていいんだ”って。頭に伝えてあげて。少し時間くれる?」
結凛たちは静かに部屋を出ていく。
扉を閉めると、組織の男たちが外で肩を落としていた。
「…これから俺らって…銀狼に捨てられるんすかね…」
「愛には勝てねぇっす…」
「銀狼…俺らのこと…忘れちゃうんすかね…」
一瞬驚いたが結凛たちは泣きながら大笑いした。
「いや、しょげすぎでしょ……!」
「紗羽は捨てないよ。むしろお前らいないと生きてけないだろ。」
「銀狼の愛に負けた男たち……って感じ。」
「負けたって言わないでくださいよぉ……!」
笑い声が広がる。
部屋の中では、紗羽がゆっくりと藍香へ近づいていた。
「ゆっくりでいいよ。紗羽のペースで。」
「…うん…」
藍香は手を差し出す。
「手だけね。触れなくてもいい。ここにあるってわかるだけでいいから。」
紗羽はその手に近づき、触れる直前で止まった。
「…だめ。触れたら…止まらなくなる…私が…藍香さんを…壊す。」
藍香は微笑んだ。
「壊さないよ。紗羽は優しいから。」
「優しくなんかない。」
涙がまた落ちる。
「…少しずつ…近づきたいよ…ほんとは…隣に座りたい…手、つなぎたい…抱きしめたい…でも…それをしたら…」
藍香はふっと笑いながらまっすぐに言った。挑発するようなちょっと悪い紗羽の大好きな顔。
「紗羽。汚れたりしないよ。濁らないよ。私、そんなに弱くない。
紗羽は私が強いから好きなんじゃないの?
ノーテンキなだけだけど。」
紗羽の胸が熱くなる。
藍香は明るい声で言った。
「今日はここまでにしよっか。」
その優しさに、紗羽は胸が軽くなる。
「…よかった…藍香さんは…藍香さんのままだ…」
藍香は扉を開け、みんなを呼んだ。
「みんな、戻ってきていいよ。今日はここまでにしよ。」
結凛たちが戻り、空気が少し明るくなる。
紗羽は胸の奥が静かに落ち着いていくのを感じた。
(…あぁ、よかった)
外に出ると、夜の空気が冷たくて、どこかざわついていた。
「帰るかぁ?」
と杉葉たちが話している。
すると、紗羽はふっと目を細めた。
「…気配、多いね。」
瑛祐が慌てて周りを見る。
「え?どこ?どこ?なに?なに?なに?俺らには何も見えんけど?」
歩睦が眉を寄せて紗羽を見る。
「紗羽、何が見えてるんだ…?」
杉葉も不安そうに周囲を見渡した。
「誰がいるの…?」
鷹臣が苦笑しながら頭をかいた。
「いやぁ…すんません。銀狼のために急いで飛び出した俺らの話が広まって…“銀狼が倒れたらしい”って噂になって…見に来たやつらがいるんだと思います。」
紗羽はふっと笑った。
「いいよ。心配してくれて嬉しい。」
藍香は驚いたように目を丸くする。
「え…?」
結凛は笑った。
「紗羽…人気者…
そっちでも人気者ってこと?」
「ちょっと銀狼出すけど。驚かないで」
紗羽は立ち止まり、髪を一度整えてから、わざと少しだけ崩した。
服も着直して、また少し乱す。
その“絶妙な乱れ”が、銀狼の色気と威圧を作る。
瑛祐が息を呑む。
「…え、え、え…紗羽…? 空気が…変わった…」
歩睦も目を見開いた。
「これが…銀狼…?」
杉葉は小さくつぶやく。
「同じ人とは思えん…」
藍香は胸の奥が熱くなるのを感じながら、ただ見つめていた。
(…すご…)
紗羽は静かに言った。
「…出ておいで。」
鷹臣がすぐに動く。
「おい、全員出ろ。銀狼が呼んでる。」
路地裏の影から、ぞろぞろと狼牙のメンバーたちが姿を現す。
緊張していた顔が、紗羽の姿を見た瞬間に一気に緩んだ。
紗羽は“紗羽の声”で微笑む。
「心配かけてごめんね。もう大丈夫。」
「よかったぁぁ!!」
「マジ心配したんすよ!!」
「銀狼倒れたって聞いて!!」
「ほんま無事でよかったぁ!!」
稽古場の前が一気に騒がしくなる。
藍香は呆然とつぶやいた。
「…すごいね…紗羽…心配されすぎ。」
結凛は微笑む。
「紗羽…愛されてる…」
瑛祐は肩をすくめた。
「いや、人気すぎるやろ…?!」
湊が怒鳴る。
「おい!うるせぇぞ!銀狼の前だぞ!」
だが誰も聞かない。
紗羽が手を軽く上げて湊を制した。
「いいよ。」
そして、声を“銀狼”に切り替える。
「おい。やかましい。もう夜やぞ。」
空気が一瞬で凍りつく。
「それと、仕事はどうした。全員非番なわけねぇだろ。
この町のどこで何起きてるか、今この状況で把握できてんのか?」
「す、すんません!!」
「すぐ戻ります!!」
「了解っす!!」
牢牙たちは蜘蛛の子を散らすように一瞬で散っていった。
鷹臣が感心したように言う。
「…やっぱ流石っす…」
湊も頷く。
「銀狼の威圧…えぐい…」
瑛祐は震えた声でつぶやく。
「紗羽…? 今の…紗羽…?
ほんとに?」
歩睦も驚きを隠せない。
「声も…雰囲気も…別人格…」
杉葉は息を呑む。
「これが…銀狼…?」
藍香は胸の奥がじんわり熱くなるのを感じていた。
紗羽はふっと笑い、“紗羽”の声に戻る。
「…じゃあ、帰ろっか。」
稽古場の前。
銀狼モードを一瞬見せた紗羽に、みんながざわざわしていた。
結凛が興味深そうに聞く。
「ねぇ…夜のほうの紗羽は見せてくれないの?
銀狼見たせいで興味が…」
瑛祐も身を乗り出す。
「そうそう。銀狼は見たけど…“夜の紗羽”ってどんなの?」
紗羽は一瞬だけ目を伏せ、短く、はっきり言った。
「…それだけは見せない。」
その声は、恥ずかしさでも照れでもなく、
“本気で拒む”声だった。
鷹臣が真顔で言う。
「銀狼が嫌だとかどうかより、見たら男性陣は嫉妬に狂うので、やめたほうがいいと思いますよ。」
瑛祐が固まる。
「え、どゆこと……?」
湊も続ける。
「女性陣も止めたほうがいいと思うっす。」
結凛が眉をひそめる。
「は?なんでよ?」
「そんな怖い顔しないでくださいよ…仕方ないじゃないですか。
夜の街に銀狼が入ると…モテすぎて…周りがざわつくんすよ…男女関係なく…」
結凛は絶句した。
「…は?」
瑛祐も呆然とする。
「…紗羽…お前…どんだけなん…?」
紗羽は静かに苦笑しながら言った。
「あれは…見せたくないかな。」
声は静かで、でも絶対に揺らがない。
「こっそりついてこないように、
“見に来よう”なんて思わないでね。」
その言い方があまりにも自然で、
でも背筋がぞくっとするほど“銀狼”だった。
結凛は小さく頷く。
「…そっか。」
瑛祐も肩を落とす。
「まぁ…紗羽が言うなら…」
歩睦は苦笑した。
「無理に見せろとは言わんけど…」
杉葉もため息をつく。
「気になるけど…まぁ…」
みんな表面上は納得している。
でも心の中では
(尾行すれば見れるかも……?)
その考えが全員の頭に浮かんでいた。
紗羽はその“心の声”を、まるで音声で聞いたかのように読み取る。
(全員、考えてること丸見え。
ほんとに尾行しようとするんだろうな…)
紗羽はスマホを取り出し、狼牙たちとチャットを開く。
「一旦裏入る。見失わせて、車とかでうまいこと誘導してくれたりするかな。」
鷹臣 「了解っす。任せてください。」
湊 「銀狼の尾行なんて、誰も成功させませんよ。」
「よろしく。」
紗羽はみんなに向き直る。
「じゃあ…帰るね。」
藍香が優しく微笑む。
「気をつけてね。」
結凛も手を振る。
「また明日ね。」
瑛祐が言う。
「送ろうか?」
「大丈夫。」
紗羽は歩き出す。
鷹臣たち二人が自然に横についた。
みんなが見送っていると
一台の車が、紗羽とみんなの間をすっと通り過ぎた。
その車が抜けた瞬間。
紗羽も、鷹臣たち二人も、跡形もなく消えていた。
まるで闇に溶けたように。
瑛祐が固まる。
「…え…?」
歩睦も目を見開く。
「どこ行った…?」
杉葉は息を呑む。
「一瞬で…?」
結凛は震える声でつぶやいた。
「…これが…銀狼…?」
藍香は少しだけ笑った。
(…紗羽…ほんとに…すごいな…)
みんなが「じゃあ帰ろっか」と言いながらも、足はまったく動かない。
藍香も、結凛も、瑛祐も、歩睦も、杉葉も、
“紗羽が消えた方向”を見つめたままだった。
でも、誰も気づいていない。
紗羽はもう、稽古場の2階建ての屋根の上にいた。
読んでくれてありがと。紗羽、やっと打ち解けたみたいだね、一安心。
藍香と仲良くしてくれるといいなぁ、、。
この先も、いろいろあるよっ。 気に入ってくれたら、次も覗いてみてな。
コメディ要素ときどき入っちゃうからね!
感想とかあったら、遠慮せんと教えて! めっちゃ嬉しいし、まじで力になる!




