運命の赤い糸【ノーラ】
ティラン侯爵家の一人娘ノーラには、人に言えない秘密があった。
それは小指と小指で繋がる赤い糸が見えることだ。
幼いころから、いや生まれた時から、ノーラには小指にある赤い糸が見えていた。それも自分の指だけでなく他の人の指の糸も見えるのだ。怖がられたら困ると誰にも言えなかった。
(これはいったいなんなのかしら?)
幼いころは意味が分からず、誰もが見えるものだとそう思っていた。
何の疑問も持たず過ごす日々の中、ノーラ付きの侍女ナターシャに「この指の糸が取れないの」と話しかけたところ疑問顔を浮かべられ、そこで初めて自分だけが『赤い糸』が見えるのだと知った。
自分の指にも、他の人にも、いつもついている赤い糸。
糸の先がどこへ行くのか、誰に繋がっているかは分からないため、ノーラには不安が付きまとう。
赤い糸の三十センチ先からは薄くなっていて見えなくなっている。そのため自分の赤い糸の行方はノーラ自身にも分からない。
けれど父や母や、使用人についている糸は、結婚している相手が傍にいればその相手と繋がって見えて、その相手が傍にいなければ糸の先は薄く見えなくなっていた。
結婚相手と揃っているときだけ繋がって見えたことから (これはもしかして……結婚相手とつながる糸なのかしら?) とノーラは気づいた。
気になったノーラは 『小指の赤い糸』 について、物語に出てきたのだけどと言ってナターシャに聞いてみた。
「ああ、それは運命の赤い糸ですね」
「運命の、赤い糸?」
「はい」
ナターシャが首をかしげるノーラを見て、まあまあおほほと微笑ましげに笑う。
お嬢様もそういったことに興味が出てきたのですね、となんだか嬉しそうだ。
「実は将来結婚する相手とは赤い糸で繋がっているのだと、有名な恋愛小説に書いてあるのですよ。きっとお嬢様が読んだ物語はそのお話なのでしょうね」
「そう、なんだ」
「はい、うふふふ」
ナターシャに良いことを聞いたノーラは、自宅で開かれる夜会や茶会で大人たちの様子を窺った。
大抵一人に一本の赤い糸がついていて、一緒に来るパートナーと繋がっている人がほとんどだった。
(ナターシャの言った通り、結婚相手と繋がっているって本当のことだったわ)
でもごくごくたまに一人で物凄い数の糸をつけている人や、赤ではなく黒い糸をつけている人もいた。
それから糸というよりもロープに近いような太い糸をつけた人も見かけたし、赤い糸のほかにピンク色の糸も数本つけている人などもいた。
(基本は皆赤い糸一本だけど、人によって少し違うのね……うふふ、面白いわ)
興味津々なノーラは、面白い糸をつけている人がどんな人物なのか探ってみた。
使用人たちの休憩室に潜り込み、皆の噂話を聞いての情報収集だ。
茶会や夜会で両親が忙しい中、幼いノーラが休憩室に遊びに来ても皆気にしない。
それに幼いノーラには話の意味など分からないだろうと、そう思っていたようだった。
その結果。
奥様を亡くされた人は黒い糸をつけていた。
ロープのような太い糸をつけた人は、執着が酷いそうだとメイドたちが言っていた。
何本も赤い糸をつけている人は何度も結婚をしているらしく、どうやら見えない糸の先は切れているようだった。
中には残念なことに糸自体が付いていない人もいた。
そしてピンクの糸をつけている人は 『愛人』 という存在がいる人らしく、ノーラは何だか少しだけ嫌な気分になった。
何故なら貴族男性の半分ぐらいがピンクの糸をつけていたし、貴婦人の中にも赤い糸のほかにピンク色の糸をつけている人がいたからだ。
政略結婚もある貴族社会。
だから愛人というものを持つのは当たり前のことなのかもしれないけれど、ノーラは何となく自分はそれでは嫌だなと思った。
だって自分の両親はお互いに繋がれた赤い糸一本だけで、とても仲が良く、たまに喧嘩したとしてもすぐに仲良くなって、お互いがお互いを思いやっていて、愛情深くって、素敵な夫婦だったからだ。
仲のいい両親が大好きなノーラは、当然自分もそんな相手と結ばれることを期待した。
(私もいつか赤い糸の相手と幸せになりたいなぁー)
ノーラの中にそんな希望が生まれたある日、父がノーラに婚約者候補を連れてきた。
その相手とは父の友人スペアラント伯爵家の次男、ライアン・スペアラントだった。
ライアンは子供ながらにすでに優雅な顔立をしていて、優し気にニコッと笑うと、ノーラの前で頭を下げた。
「ノーラ嬢、初めましてライアン・スペアラントです。どうぞよろしくお願いいたします」
初めて会ったライアンは、ノーラが思い描いていた理想の相手のようだった。
(……すごく優しそう……それにカッコいいわ)
年齢はノーラよりたった一つ年上でまだ子供なのにライアンは落ち着いていて、茶会で見かける粗野な男の子たちとはまるで違った。
見た目も夢の中に出てくるような王子様のように綺麗な顔立ちで、銀髪の髪は輝いて、少し垂れ目気味な瞳は優しげで……
ライアンのあまりの美少年ぶりに照れてしまって、挨拶が小声になってしまったノーラを呆れることもなく「可愛いね」とライアンは褒めてくれてドキンッと胸が鳴る。
その後は二人で遊んでおいでという両親の言葉に従い、ノーラはライアンと一緒に遊んだ。
中庭に出たライアンはこの屋敷に住むノーラよりも庭の草花に詳しく、どんなことでも知っているのではないかと思うほど博識だった。
それに「手をつないでもいいかな?」と優しく声をかけてくれて、まだ子供なノーラをちゃんとエスコートしてくれた。
夢の中にでもいるかのようなふわふわとした感覚に、ノーラはこれが恋なのかしら……とドキドキとした。
「ノーラ、また僕と一緒に遊んでくれる?」
ライアンの言葉にノーラは「はい」と頷く。
ノーラの返事を聞いてライアンは凄くうれしそうな笑顔を浮かべると「良かった。ノーラ、これからよろしくね」と笑顔で手を差し出してくれた。
ノーラはドキドキしながらその手を取る。
(この方とならお父様たちのような夫婦になれるかも……)
そう思った瞬間、ノーラの小指にあった赤い糸がするすると伸びていきライアンの糸と結ばれた。
(ああ、やっぱりこの方が私の運命の相手だったんだ……)
ノーラの初恋はこの日に芽生え、そして二人の仲の良い様子を見ていた両親は、ライアンとノーラの婚約を結んでくれた。
それはライアンとの出会いの日が、二人の婚約記念日にもなった瞬間だった。
それからのライアンは婚約者としてノーラに接してくれた。
記念日には必ずプレゼントを届けてくれて、彼の優しさに愛おしさが募った。
それに最初の誕生日は記念になるからと、ビリジアン王国から取り寄せた琥珀色の宝石のペンダントを贈ってくれて、ノーラの喜ぶ顔が早く見たいからとライアン本人が届けに来てくれた。
「どうしてもノーラの瞳みたいな宝石をプレゼントしたかったんだ」
「嬉しいです……ライアン様、ありがとうございます」
宝石の大きさは小粒で可愛らしく、まだ幼いノーラの胸元でも十分に似合う品だった。
ライアンは自分のことを考えてくれて、わざわざ国外からプレゼントを取り寄せてくれて、その上ノーラの喜ぶ顔が見たいからと朝早くに屋敷に来てくれたのだ。
こんな素敵な婚約者は他にはいないと、ノーラが感激するのも当然だった。
それにノーラの両親に相談して、ノーラにだけ訪問を内緒にしていたサプライズも嬉しかった。
ライアンの心遣いや気遣いを感じ、この日のことは絶対に忘れないとノーラは只々感動した。
「ノーラの喜ぶ顔が見れて良かったよ……」
「ライアン様……」
ライアンがそっとノーラの手を取り口づけを落とす。
「ノーラ、お誕生日おめでとう」
「……ありがとうございます……」
ニコッと笑うライアンがもの凄くカッコよくて、誰よりも素敵で、その上手に落とされた口づけが嬉しくって、恥ずかしくって、自分の頬が真っ赤に染まっているのが分かった。
「お嬢様、良かったですね」
ライアンが帰ってからもプレゼントのペンダントを抱きしめたままのノーラに、ナターシャがふふふっと微笑まし気に笑い、声を掛けてきた。
他の人に言われたら揶揄われていると思う言葉も、幼いころからずっと傍にいるナターシャからなら不思議と恥ずかしくなく素直になれた。
「うふふ、ええ、ものすごく嬉しいわ。こんなにも幸せな誕生日は初めてかもしれない」
「ふふっ、優しい婚約者様で良かったですね、お嬢様」
「ええ、本当に素敵な婚約者様だわ」
ナターシャの言葉に素直に頷く。
本当にライアンはノーラに勿体ないぐらい素敵な人で優しい婚約者様だ。
「ナターシャ、私ライアン様と婚約できてとても幸せだわ……」
「まあ……うふふふふ」
ペンダントを抱きしめノーラは本音を呟く。
自分の運命の相手は間違いなかった。
とても素敵な人だし、とても優しい人。
この赤い糸は永遠に結ばれている。
ノーラは自分の運命の赤い糸を見ながら幸せを嚙み締めていた。
けれど……
十五歳になったライアンが学園に入学すると、少しずつ二人の関係は変わり始めた。
学園に成績優秀者として入学したライアン。
ノーラの両親も、スペアラント伯爵夫妻も喜び、勿論ノーラも嬉しくて、自分が入学する時も頑張ろうと気合を入れた。
そんなライアンは 「休みの日は必ず会いに来るからね」 とノーラに約束してくれた。
でも学園生活が進めば進むほど、ライアンがノーラのもとを訪れることは少なくなって行った。
「ごめん、成績優秀者は生徒会の仕事を手伝わないといけないんだ」
「そうなのですね。ライアン様、私のことは気にせず、生徒会のお仕事頑張ってくださいね」
毎週の逢瀬が隔週になり、気づいたら一月に一度になっていた。
「ごめん、ノーラ、来週の休みは友人と勉強をする約束をしたんだ、試験が近いからね」
「そうなのですね。ライアン様、お勉強頑張ってくださいね」
寂しかったけれど、ライアンには将来ティラン侯爵家を一緒に支えてもらわなければならない。
当然学業も大事だし、人との付き合いも疎かには出来ない。
だからライアンがノーラよりも友人付き合いを大事にする気持ちは十分理解できるし、勉強を疎かにできない気持ちもよくわかる。
「でも、やっぱり会いたいな……ライアン様に……」
寂しくってついライアンの名を呟いてしまう。
見かねたナターシャが温かいお茶を入れてくれて、ノーラの下に持ってきてくれた。
「お嬢様、どうぞ」
「ナターシャ、ありがとう……」
その優しさと気遣いにほろりと涙が落ちた。
ライアンに会えない時間が途轍もなく長く感じてとても辛い。
自分だけこの場に取り残されたようですごく寂しい。
「……ナターシャ、とても美味しいわ……」
温かいお茶を飲めばナターシャから元気をもらったようで、少しだけ元気が出る。
そのお陰で、ライアンに会えなくても自分には出来ることがあるのではないだろうか、と思いつく。
ライアンの婚約者として恥ずかしくないように勉強を頑張り、淑女としてのマナーも身に着けよう。
来年はノーラも学園に通う。
そうなればライアンと顔を合わせる時間も増えるだろうし、一緒に過ごす時間も増えるはずだ。
「そうよ、そうよね! 泣いてなんかいられない、時間を無駄には出来ないわ」
ノーラはライアンと会えない時間を寂しがるのをやめ、自分を磨くために有効に使うことにした。
先ずは父に話をし、家庭教師が来る日を増やしてもらった。
淑女教育も今まで以上に気を引き締めて受け、頑張れば教師に褒めてもらえた。
そして忙しい毎日の中、あっという間にライアンと会えない日々は過ぎていき、ついにノーラも学園へ入学する日を迎えた。
「ノーラ、入学おめでとう」
「お父様、有難うございます」
「ノーラ、ティラン侯爵家の娘として頑張るのですよ」
「はい、お母様、心して頑張りますわ」
ノーラが入学の日、婚約者であるライアンが迎えに来ることはなかった。
生徒会に入っていると学園生活も多忙だと聞く。
きっとライアンもノーラを迎えに来る時間を作ることが出来ないほど忙しいのだろうと、そう自分に言い聞かせ納得をした。
「ライアン様からはお祝いの手紙も届きませんでしたね……」
見送りのため一緒に馬車に乗り込んでくれたナターシャが不満げに呟く。
ノーラに会いに来ず、手紙の返信も寄こさなくなったライアンに対し、ナターシャからの評価はガタ落ちで、両親に話すべきだとそう言い出す始末だ。
でもそんな関係も学園にノーラが入学すれば変わるはず。
そんなノーラの思いを知っているからこそ、こうやって二人きりの時にだけナターシャは愚痴るのだが、ぷんぷんと怒りを露にするナターシャを見てノーラは苦笑いを浮かべた。
「きっとライアン様はお忙しいのよ、学園で会えれば私はそれで充分よ」
「……お嬢様……」
それに何よりノーラとライアンは運命の赤い糸で結ばれている。
どんなことがあっても、この関係が切れることはない。
それに今もノーラの中でライアンが一番素敵な王子様であることは変わらないし、彼のことを誰よりも愛していると言いきれた。
だからこそノーラは、どこまでもライアンを信じられた。
学園に入学して数日、ノーラは生徒会室へと呼ばれた。
どうやら入学試験で成績優秀だった上位十名は生徒会へと召集されるらしく、ノーラは指定された日に生徒会室へと向かった。
生徒会への入部は個人の自由になるが、ノーラの一つ上の学年には第三王子がいて、そして同学年には公爵家次男も揃っているため、その二人との縁を作る為にも入部を希望する者は多いだろう。
ノーラもティラン侯爵家を継ぐものとして生徒会への入部を断るつもりはなかった。
それに優秀なライアンも生徒会にいるはずなので、一緒に生徒会活動が出来ることはとても嬉しいことだった。
「ティラン侯爵令嬢、生徒会入部おめでとう」
生徒会室へ着くと現生徒会長である第三王子のダニエル・テミスと、副会長のアンドリュー・ぺルソンがノーラに声をかけてくれた。
ノーラの到着が早すぎたのか、まだ生徒会室に二人以外誰もいない。
間近に王族がいることに緊張しながらも、ノーラはきちんと挨拶をする。
「有難うございます。殿下、どうぞこれからはノーラと気軽にお声掛けくださいませ」
「ああ、そうさせてもらうよ。ノーラ、私のことも殿下ではなくダニエルと気軽に呼んでくれ。それともし分からないことがあったら私たちに何でも聞いてほしい。特に副会長のアンドリューは学園内のことは何でも把握しているからね、どんなことでも教えてくれるよ。学園で一番おいしいランチとかもね」
「うふふ、はい、有難うございます、ダニエル様」
優し気なダニエルの言葉に、緊張気味だったノーラはホッとする。
それにダニエルの横、ぺこりと頭を下げた副会長のアンドリュー・ぺルソンには、以前会ったことがあり親しみがあった。
そう、アンドリューとは幼いころティラン家の茶会で何度か顔を合わせ、一緒に本を読んだこともある仲だ。
黒髪に目つきの鋭い紺色の瞳は、幼いころと全く変わっていない。
それと、アンドリューの小指には赤い糸が付いていなかったため、ノーラはよく覚えていたのだ。
貴族家の次男以下は結婚しないことも多いらしく、子爵家三男のアンドリューには結婚相手がいないと想像できる。
優秀なアンドリューを知っているため勿体ないようにも感じるが、こればかりは仕方がないことなのかもしれない。
そんなアンドリューは侯爵家の私書が興味深かったのか、ティラン家の茶会で最初から最後まで図書室に籠り、本の虫と化していた。
そんな想い出を懐かしんでいると、アンドリューとパチリと目が合った。
アンドリューも幼いころの記憶を思い出したのか、ノーラと目が合うとフッと軽く微笑んでくれた。
「ノーラ嬢、久しぶりだね、私のことを覚えているかな?」
「はい、アンドリュー様、ご無沙汰していおります。幼いころは仲良くしてくださって有難うございました」
「いや、こちらこそ、ノーラ嬢がいてくれたからティラン侯爵家の本が読めたんだ。感謝しかないよ」
「いえ、私も一緒に本を読んでくれるお友達が出来て嬉しかったですから」
ノーラの言葉は本心だった。
茶会に来る相手は大人ばかりで、本を目当てだったとしても自分と年の近いアンドリューは有難いお友達だった。
その上アンドリューは他の男の子たちとは違い、乱暴ではなくノーラに優しかった。
きっと兄がいたらこんな感じなのだろうと、幼心にそう思ったものだ。
だから尚更アンドリューの指に赤い糸が付いていないことには驚いた。
彼のような素敵な人ならば結婚出来て当然、そう思っていたからだ。
「ねえ、アンドリュー、折角だからノーラ嬢に学園内を案内してあげたら? 皆が来るまでまだ時間があるし」
「えっ? 案内? ですか?」
「えっ? まだ時間があるのですか?」
ノーラとアンドリューの声がそろい、お互いに顔を見合わせるとダニエルが楽し気にくすくすと笑う。
ノーラは指定の時間通り来たのだが、間違えていたのだろうか?
そんな考えが読み取れたのか、ノーラが持つ生徒会からの案内状をアンドリューが確認する。
「ああ、これは時間を書き間違えているものだね……予定時間よりも一時間早い」
「えっ?!」
淑女でありながら思わず大きな声を出してしまいノーラは「申し訳ございません」と頭を下げる。
それを見てダニエルがまたくすくすと笑い、アンドリューはそんなダニエルを笑うなと責めるかのように睨んでいて、身分を超えた二人の仲の良さが垣間見えた。
「……ノーラ嬢、私でよかったら時間まで学園内を案内しよう」
「……はい、アンドリュー様、ぜひお願いします……」
何となく居た堪れなくてアンドリューに誘われるまま生徒会室を出る。
するとアンドリューが申し訳なさそうに声をかけてきた。
「ごめんね、ダニエルは人を揶揄うのが好きなんだ……」
「いえ……」
優しく気遣いのできるアンドリューに案内されながら学園内を歩く。
上級生であり、生徒会役員でもあるアンドリューは学園内にも当然詳しく、各教科の教室や、冬でも日の当たる温かい空き教室や、一年生の教室へ向かう近道など色々なことを教えてくれた。
「ノーラ嬢、学園の図書室にはもう行ったかい?」
「はい、一度だけですが、入学前から気になっていたので」
「ふふ、生徒会に入部すると禁書庫へも入れるようになるんだよ」
「えっ、そうなのですか」
「ああ、それがあるから私は生徒会に入部したんだけどね」
「まあ!」
アンドリューからいい情報をもらいノーラは笑顔になる。
貴族学園の図書室はとても広く、ティラン侯爵家よりも本の数は多い。
そんな図書室の禁書庫だ。
きっと興味深いものが多くあるだろう。
「とても楽しみです」
アンドリューに嬉しさを伝えていると、廊下の反対側から少しだけ下品な男女の笑い声が聞こえてきた。
二人は学園内でありえないほどべったりと寄り添い、キャッキャッアハハと楽し気に笑いあっている。
恋人同士か婚約者同士なのだろうが、学園での態度としてはだいぶ不適切だと感じた。
「もう、ライ、何言っているのよ、泊りがけなんて絶対に無理よ」
「なんでさ、いいだろう? 二人で街に出かける延長だって」
楽し気に廊下を歩くカップルに視線を送らないようにし、アンドリューの後ろに続いて歩く。
貴族学園にも庶民のように近しい付き合いをする人がいるんだ、そんな感想を持ったノーラの耳に「もう、ライアンったら」と甘ったるい声で婚約者と同じ名を呼ぶ声が聞こえてきた。
「えっ、……ライアン、様……?」
思わず足を止め仲のよさそうな恋人へと視線を送る。
するとそこには確かにライアンと思われる人物がいた。
「えっ? ノーラ……なんで……?」
ノーラがライアンの名を呼べば、浮かんでいた笑顔が一瞬で消えライアンの動きが止まる。
久しぶりに見るライアンは、貴族学園の制服を着崩していて、その上香水臭がかなりきつく、以前の王子様のようなライアンとは別人と呼べる姿だった。
つまりお互いそれだけ顔を合わせていなかったわけで、ノーラがなぜこの場にいるかもライアンは分かっていないようだった。
「ごきげんよう……ライアン様……あの、生徒会ではないのですか?」
婚約者同士とは思えない素っ気ない挨拶をライアンに投げかける。
ライアンの様子を見れば生徒会役員でないことは分かるし、嫌みに近い言葉かもしれない。
入学した当初、ライアンは生徒会の手伝いがあると言っていたが、今の彼を見ればそれも長続きしていなかっただろうと判断できる。
優秀生徒がこれほど制服を着崩して、何も言われないはずがないのだ。
彼はきっと優秀者のいるクラスではあるけれど、それだけなのだろう。
「俺は……生徒会には入ってないよ……」
ライアンの視線がちらりとアンドリューへ向く。
同級生であり生徒会役員であるアンドリューの前で嘘はつけなかったのだろう。
気まずそうな表情を浮かべるライアンの横、甘ったるい声を少女が発した。
「ライー、この子誰なのー?」
ライアンと一緒にいる少女がちょっと機嫌悪くノーラを見つめる。
それにノーラに見せつけるためなのか、わざとらしくライアンの腕に絡み付き、しな垂れるように寄り添っている。
ライアンの婚約者はノーラだけど、この状態で恋人同士だと呼べるのは、ライアンと目の前の少女のようだった。
「えっと、彼女はノーラ、その、俺の、婚約者だよ」
申し訳なさそうにライアンが少女にノーラを紹介する。
婚約者だと言っているけれど、それを聞いた女性は「ふーん」と返事を返すだけで、ライアンの腕に絡めた手を取るわけでもなく、くすっと笑いノーラを見るだけ。
ノーラに悪いとか気まずいとか、そんな気持ちは全くないようだった。
「ノーラ、彼女は……同じ学年のニナ・シュルツ、その、俺の友人だよ……」
友人と呼ぶには近し過ぎる態度を変えることなく、名を呼ばれたニナがふふっと笑い挨拶をする。
「初めまして、ノーラさん、ライと一番仲のいい友達のニナ・シュルツです。どうぞよろしくね」
ふふんっと勝ち誇ったように微笑んだニナは、桃色のふわりとした髪と、若葉のような緑色の瞳を持っていて、その色合いや雰囲気からして春の妖精のようで、とても可愛いらしい少女だった。
ライアンの友人だと名乗ったけれど、二人の雰囲気は恋人そのものだ。
それに何よりライアンのことを「ライ」と気安く呼び、友人以上の仲だとノーラに宣言しているようだった。
ニナには婚約者のノーラに対し 『二人の仲の良さ』 をアピールするだけの想いがライアンにあるのだろう。
その証拠に二人の小指にはハッキリとピンク色の糸が結ばれていた。
「ノーラ嬢、そろそろ時間だ、生徒会室に戻ろうか……」
言葉に詰まるノーラを気にしてかアンドリューがそう声をかけてくれた。
「は、はい、そうですね……」
どうにか気持ちを持ち直したノーラは、淑女として身に着けた笑顔を張り付け、ライアンとニナに挨拶を返す。
「ライアン様、ニナ様、失礼いたします」
一刻も早くこの場を離れたい。
ライアンとニナを見ていたくない。
生徒会室に戻ろうと声をかけてくれたアンドリューが天使のように思えた。
「ノーラ、近いうちに必ず会いに行くから!」
別れ際ライアンのそんな声掛けが背中から聞こえ、ノーラは張り付いた笑顔のまま振り返り、ぺこりと頭を下げる。
婚約者の前で恋人と仲のいい姿を見せてもライアンは何とも思っていないのか、普段通りの様子だった。
その上 『今夜会いに行く』 とかではなく、近いうちに会いに行くと言う始末。
つまりライアンにしてみたら、今の出会いはそれぐらい大したことのない出来事だったのだろう。
大好きだった彼のことがノーラは分からなくなってしまった。
勉強が忙しいと言っていたのに……
それは恋人との逢瀬のことだったのか。
休みの度に会いに来るよと言っていたのに……
私よりも彼女との時間のほうが大切だったのか。
黒い感情がノーラの中に溢れてきて、ライアンに向ける好意が嫌なものに変わっていく。
信じていたのに、大好きだったのに……と、責める言葉ばかりが心に浮かぶ。
ライアンはノーラを裏切り、他に好きな女性を作ったのだ。
ライアンとニナの小指には、確かにピンク色の糸が繋がっていた。
たとえピンクの糸が見えなかったとしても、あの状況を見てライアンの婚約者がノーラだと思うものがどれ程いるだろうか。
きっと誰も信じないし、友人だと紹介されたニナのほうがよっぽどライアンの婚約者のようだった。
「……ノーラ嬢、今日はもう帰ったほうがいい、馬車乗り場まで送っていくよ」
「……いえ、私は、大丈夫で……す」
そこまで言いかけて、ノーラは自分が泣いていることに始めて気が付いた。
心配げなアンドリューが見つめる前、ハラハラと涙が落ちる。
「アンドリュー様、お見苦しくて、申し訳ありません……」
淑女が外で涙を見せるなどあってはならないこと。
侯爵家の娘として、ライアンの婚約者として、厳しく指導を受けてきたノーラは、何とか堪え笑って見せる。
「大丈夫、大丈夫だよノーラ嬢。ここには私しかいないから……」
アンドリューがノーラを壁際に引き寄せ、誰からも見えないようにその身で隠してくれる。
廊下を歩く学生たちの声が遠くで聞こえているが、放課後ということもあり生徒数はそう多くはない。
ノーラがいる廊下へ来るものはいないようだった。
「……有難うございます……」
礼を言うノーラにアンドリューが頷き、そっと内ポケットからハンカチを取り出し渡してくれた。
そんな気遣いがとても嬉しい。
「ノーラ嬢、私たちは幼いころに一緒に本を読んだ仲だ……それはつまり、幼馴染だといえる。だから今だけでも私に甘えてくれないかな……」
そんな言葉を掛けられれば喉の奥が苦しくなり、ノーラはもう涙を堪えることが出来なかった。
子供のようにうんうんと頷くとノーラはアンドリューのハンカチを受け取り、その優しさに今だけ甘えることにした。
自分でもハンカチは持っているが、今はアンドリューの優しさにすがらせてもらう。
(ここにアンドリュー様がいてくれてよかった……)
もしあの場で、ライアンとニナと顔を合わせた時、自分一人だったら……
そう思うだけでゾッとする。
きっと耐えらず、逃げるようにあの場から駆け出していたに違いない。
それは侯爵家の娘として絶対にしてはいけない行為。
ノーラのプライドがそんな愚かな行動を許せはしなかった。
「大丈夫……ノーラ嬢、君が泣き止むまで私が傍にいるから……」
学園内、廊下の隅で流す失恋の涙は、アンドリューのおかげで少しだけ救われたようだった。
その後ノーラはアンドリューに馬車乗り場まで送ってもらった。
泣き腫らしたノーラの顔を見てナターシャが物凄い顔をしていたが、馬車にノーラを乗り込ませた後、アンドリューがそっとナターシャに何かを伝えてくれていた。
きっと今日は理由を聞かないで上げていて欲しい。
そんな声掛けだと思うが、それがとても有り難かった。
今はまだライアンとのことを整理できていないノーラ。
そんな心の状態でナターシャに今日の出来事を伝えれば、自分でも何を言ってしまうかは分からない。呪詛を吐く可能性だってある。
今夜は一人でじっくりと考えたい。
そんな思いがあるからこそ、アンドリューの気遣いは今のノーラには何よりも助けになるものだった。
(私は……あんなことがあっても、ライアン様のことが好きなのかしら……)
帰宅後、湯あみを済ませ自室で簡単に夕食を済ませたノーラは、ライアンのことを考える。
ずっとずっとノーラが恋をしていた相手、それがライアンだ。
優しい婚約者であり、素敵な王子様であり、初恋の相手でもあるライアン。
小指に繋がれた赤い糸で結ばれている運命の相手でもあり、きっとノーラの結婚相手となるべき人なのだろう。
恋に落ちたのが先なのか、運命で結ばれたのが先なのか……
どちらが先かは分からないけれど、今は彼のことが何も信じられない。
きっとこれから何を言われても、嘘ではないかと疑ってしまうだろう。
(そんな相手と、私、結婚できるのかしら……)
以前のライアンの言葉ならば、すべてを信用できた。
けれどニナという相手がいることを知った今、出かけると言われても、仕事で遅くなる言われても、ニナと会うのでは? と疑ってしまうだろう。
それに……
ライアンとニナの繋がる糸は、ノーラとライアンの繋がる赤い糸よりも太かった。
ノーラとライアンの糸が服を縫うための糸だとしたら、あの二人の糸は刺繍用の糸のよう。
それぐらいの違いがあった。
それほどあの二人が想い合っているということだろう。
(もし、ライアン様との結婚を取りやめたら……)
この先ノーラに運命の相手は現れないかもしれない。
一生誰とも結婚せず、ノーラは一人で生きていく覚悟を持てるだろうか。
それともう一つの案として、父が次に決めるであろう結婚相手と愛のない政略結婚をし、ティラン家を支えていく覚悟があるかだ。
契約による政略結婚になるとは思うが、信じられない相手とずっと一緒にいるよりかはまだマシかもしれない。
それにあの父がそこまでひどい相手を見つけてくるとは思えない。
あとは自分自身がライアンを忘れられるかどうかだ。
それが一番難しいことはノーラにも分かっていた。
子供のころからライアンのことがずっと好きで、ずっと両思いで、婚約者なのが嬉しくて、これまで向けられてきた笑顔を思い出すとズキンと胸が痛む。
ライアンとニナの寄り添う姿を思い出せば、息が出来ないほど苦しくて仕方がない。
けれどノーラはティラン侯爵家の一人娘。
結婚する相手はティラン侯爵家を一緒に支えて行ってくれる人でなくてはならない。
「……もう一度だけ、ライアン様に会ってみようかしら……」
縁を切るにしても、このまま繋いでいくにしても、ライアンの話を聞くべきだと思う。
それで納得できるかどうかは分からないが、ノーラはライアンに会って判断をつけることにした。
次の日、ノーラは心配げなナターシャに見送られながら学園へと向かった。
二年の生徒らしき人たちにライアンの教室を聞き、教室前で待ってみたが、授業ぎりぎりになってもライアンは現れない。
どうやら学校の授業をさぼることも常習化しているらしく、ライアンへの期待がまた一段減っていった。
昼休みも教室を訪ねたが、ライアンはすでに居なかった。
授業が終わるとすぐに教室を出て行ってしまうらしく、尋ねたクラスメイトには申し訳なさそうに謝られてしまった。
(もしかして私、避けられているのかしら……)
昨日のことを思い出しノーラはそんな気がした。
ニナとノーラが顔を合わせた際、ライアンは気まずそうにしていた。
きっと暫くは顔を合わせたらまずい、そう思っているのだろう。
だからと言って逃げるのは卑怯だと思えた。
下校時間になり、ノーラは暫く自分の教室で時間をつぶした。
何となくすぐに二年の教室に行ってもライアンには会えない気がしたので、時間をおいてライアンの教室を訪ねてみようと、そう思ったのだ。
「ライアン、お前酷すぎるぞ、婚約者の子、朝から何度もお前に会いに来てるってのに隠れやがってよー」
ライアンの教室につけば案の定、ライアンとその友人らしき者たちの声が聞こえてきた。
盗み聞きは恥ずべきことだけれど、今のノーラは廊下を歩いているだけ、そう思って開き直ることにした。
「だってさー、しょうがないだろう、ノーラは可愛いけど、小さいころからずっと一緒にいて妹って感じなんだよ。それにまだほら、女性として成長途中だし、ちょっと女としての魅力がさー」
確かにノーラは小柄で痩せている。
昨日会ったニナと比べれば、女性としての魅力はだいぶ落ちるかもしれない。
自分から聞こうと思ったライアンの言葉だったけれど、愛する婚約者の言葉だと思うと酷く胸が痛んだ。
『妹』
つまりライアンはノーラを女性としては見れない、ということなのだろう。
だからニナと恋仲になった。
それは言い訳のような言葉だけど、これまでの行動を思い出せば妙に納得する。
(ああ、ライアン様にとって私は運命の相手ではなかったんだわ……)
あの日、幼いころの初めての顔合わせの日。
ノーラはライアンを見て一目で恋に落ちたけれど、ライアンは違ったのだ。
政略結婚の相手としてノーラを見ただけ。
赤い糸は運命の相手ではなく、ただの結婚相手を決めるものだった。
それが分かった瞬間、ライアンへ向ける想いはノーラの中から消えていった。
「おい、君たち、何の話をしているんだ。外にまで聞こえているぞ」
廊下で立ち止まっていたノーラを通り越し、アンドリューがライアンたちの居る教室へと向かっていきそんな言葉を掛けた。
きっと立ち聞きをしていたノーラを見かねての行動なのだろう。
アンドリューの優しさに触れ、ライアンへの失恋も少し緩和されるようだった。
「なんだぺルソンか、別にいいだろう? ハハハ、本当のことだ」
ライアンが悪びれることなく笑い、そんなことを言う。
『本当のこと』
それがノーラの胸を抉るが、もう涙を流すことはない。
彼への想いは、もう違うものへと変わった。
幼いころの初恋はいい想い出へと変わった。
そんな心の変化が、自分でも分かった。
「君は努力する自分の婚約者を愚弄するのか? 彼女は勤勉で真面目で、とても素晴らしい淑女じゃないか」
アンドリューの言葉がとても嬉しい、これまで良い婚約者でいようと努力してきたノーラを認めてもらえたようで、アンドリューの言葉が優しさとして胸に広がっていく。
「ああ、だけど 『女』としては微妙だろう。ノーラは顔は可愛いけど、体の線が細すぎるんだよなー」
ライアンの言葉に周りにいるであろう友人たちから笑いが起こる。
きっと今までもライアンはノーラのことを貶めるような言葉を吐いていたのだろう。
彼らもライアンの言葉を面白がっているようで、ムキになるアンドリューのことも揶揄っているようだった。
「お前たちーー」
「アンドリュー様、有難うございます。ですが私は大丈夫ですよ」
怒りを露にするアンドリューを止めるため、ノーラは教室へと顔を出す。
昨日に引き続き、ライアンの言葉は刃物のように鋭くノーラを痛めつけるものだったけれど、でも今のノーラはただ泣くだけの弱い女の子ではない。
ティラン家の娘として、ライアンの前に胸を張って立った。
貴方がいなくても私は大丈夫。
それを体現するように貴族令嬢らしい笑みを浮かべ、堂々とライアンと向かい合った。
「スペアラント様、今のお言葉確かに受け取りました。自宅へ戻り次第父と相談し、結論を出させていただきますわ」
「えっ、ノーラ?!」
「ノーラ嬢?」
ノーラの登場にアンドリューが驚き、ライアンの顔色が悪くなる。
それを見て 『ざまあみろ』 とノーラは優越感に浸る。
自分にこんな貴族令嬢らしい嫌な部分があるだなんて今まで知らなかった。
けれどこれも悪くない。
ニコリと笑うと、今にも逃げ出しそうなライアンの学友たちにも声をかけた。
「そちらの皆様、あなた方のお話もしっかり聞かせていただきました。ティラン侯爵家の娘として適切に対処させていただきますので、そのおつもりで……」
学友たちの顔色が一瞬で悪いものに変わる。
いやとかちがうとか何やら言っているが、そんなことは知ったこっちゃない。
ティラン侯爵家の娘を侮辱したのだ。
しっかりとその罪を償ってもらう。
学生だからと許すつもりはない。
なぜならノーラのほうが一つ年下なのだ。
若いから、幼いからなど言って、彼らに醜い言い訳をさせるつもりはなかった。
「では、ライアン様、さようなら」
淑女らしいカーテシーと笑顔を見せ、ノーラはライアンに別れを告げる。
助けてくれたアンドリューに 「行きましょう」 と声をかけ、一緒に教室の外へと出てもらう。
「ノーラ嬢、良かったのか……スペアラントは君の婚約者なのだろう?」
アンドリューが心配げにノーラの顔を見つめる。
この方は幼いころ一緒に本を読んだだけの少女をずっと心配し、一人であるのに彼らに言い返してくれた、とても優しく信用できる人だ。
「はい、大丈夫です。うふふ、ライアン様の本音が聞けてスッキリしました」
この言葉は嘘でも強がりでもなく本心だった。
その証拠か、ノーラの指から赤い糸が消えていく。
きっとライアンとの運命の繋がりが切れたのだろう。
寂しさはもちろんあるけれど、それよりもなんだかホッとする。
あんな人と結ばれなくて良かった。
運命の赤い糸なんて見えてもいいことなんて何にもない。
消えてくれてせいせいするぐらいだ。
フーとため息を吐いたノーラは、ふとアンドリューの手が目に入る。
すると今まで糸がなかったアンドリューの小指からするすると糸が伸びて来て、ノーラの指に絡まった。
それも糸のように細いものではなく、紐のような太さがある運命の赤い糸だった。
「うふふ、ふふふ」
「ノ、ノーラ嬢?」
急に笑い出したノーラを見てアンドリューの顔がますます困惑したものに変わる。
普段から鋭いと言われるアンドリューの紺色の瞳がノーラを見つめるが、そこに嫌なものはなく、どちらかというと熱っぽいもののような気までするのだから不思議でたまらない。
「アンドリュー様、昨日今日と有難うございました」
お礼を言うノーラを見て 「いや」 とアンドリューはそっけなく答えるが、その紺の瞳が心配げに揺れている。
(ああ、この方は本当に優しい人……)
アンドリューの存在がただただノーラを癒してくれる。
傍にいるだけで安心できる。
アンドリューはノーラにとってそう言える相手だった。
「アンドリュー様、宜しければ今度、今日のお礼に我が家の本を読みにいらっしゃいませんか? 以前よりももっと蔵書が増えたのですよ、きっとアンドリュー様も気に入って下さるはずですわ」
思わずノーラはアンドリューを誘ってしまう。
目は口程に物を言うというけれど、嬉しげなアンドリューの瞳がそれを物語っている。
「ああ、是非、お邪魔させてもらうよ……」
そう答えたアンドリューの顔には、今まで見たことがない程の良い笑顔が浮かんでいたのだった。
その後、ノーラの行動は早かった。
家に戻り両親にライアンの件を伝えると、父もライアンの行動に不審なものを感じていたらしく、学園の成績や交友関係など詳しく調べていたようで、ニナとの付き合いも気づいていたようだった。
ライアンとともにノーラを貶めるような物言いをしていた友人たちの家には、警告文書を侯爵家の名で父が出してくれた。
その後彼らがどうなったかはノーラの知るところではない。
ただ学園では二度と会うことはなかった、それが結果と言えるだろう。
そしてノーラとライアンの婚約は、ライアンの有責で解消となった。
ライアンは本人の望み通りニナと婚約をし、シュルツ男爵家へと婿入りしたようだ。
だがあんなにも熱々だったニナとの関係は、上手くいっていないと風の噂で聞いた。
どうやらニナはライアンこそが侯爵になるものだと思っていたようだ。
勘違いにしても物凄い大きさだが、田舎の男爵家出身ならばそれも仕方がないのかもしれない。
きっとライアンのことも詳しく調べてなどいなかったのだろう。
そしてノーラは今……
「ノーラ、すごく綺麗だよ」
「アンドリュー様もとても素敵ですわ」
あの後アンドリューと婚約をし、今日結婚の日を迎えた。
日に日にアンドリューと繋がる糸は太くなっている気がするけれど、それが嫌ではなく嬉しいと思うのだから恋とは不思議なものだ。
あの日、ライアンと決別した日、赤い糸なんて見えてもいいことはないと思ったけれど、アンドリューの愛の重さが目に見えて分かるのならば、それもありだなとそう思うようになった。
運命の赤い糸が見えたから、ノーラは恋を断ち切る勇気と、新しい恋を繋ぐ勇気を持てたのかもしれない。
「私、アンドリュー様と結ばれて幸せですわ」
ノーラのその言葉に嘘はないのだった。
~おわり~