一章 偽る人⑥
毒という単語に、女官たちは青くなった。
「夫人への食事は、だれが運んでいるのでしょうか?」
「瑠那が膳房から運んでいますわ。
でも、使う御膳は決まっておりません。夫人を狙って毒を盛るのは難しいと思います」
「あるとすれば、瑠那さんがお膳から目をはなしたスキに、ですね」
杏は寝台をふり返った。
話を聞く前に、処置のつづきだ。
毒の吸収を抑えるため、患者に溶いた卵白を飲ませる。胃を保護する甘草湯も与えた。
「ヤブ医者、すぐに元気になる特効薬はないの?」
「休んでください」
杏は夫人に即答する。
毒は種類を特定することが難しい。適切な解毒薬が分からない今、あと処方できる薬は休息だけだ。
「やっぱりヤブね!」
「……では、こちらを少しずつどうぞ」
杏は白湯に、白い粉を溶かした。ゆっくりと、ともかく時間をかけて韻夫人に飲ませる。
そのうち緊張の糸が切れ、患者は枕に頭をあずけた。
瑠那が主人の髪を愛おしそうに撫でる。
「やっぱりお嬢サマ、夜にムリしたのが良くなかった。
王様呼ばれたのも、よくナイ。お嬢サマ、人前苦手。本当は嫌」
三日月形に歪む、口元。瑠那は主人の不調を歓迎しているようにも見えた。
引っかかるものを感じなら、杏は聴取をはじめる。
「瑠那さん、韻夫人は毒を盛られた可能性があります」
青い目の侍女は、びくっと身をすくませた。
杏の方も驚く。まるで犯人と名指しされたかのような反応だ。
「……毒。ダレが?」
瑠那の表情は硬く冷たい。これ以上、どんな感情も漏らすまいとするように。
「ええと、それはまだ推理しているところです。
何か思い当たることはありませんか? 夫人のお膳を運んでいる時に、だれかに話しかけられたとか」
「……華夫人」
「華夫人? 今現在、後宮で琵琶の名手と評判の?」
「お嬢サマ、琵琶、上手。うらやましい。だからきっとアノ人」
瑠那は早口にまくしたてた。
「お食事に細工しているところを、実際に見ましたか?」
「見てナイ。でも、目、離したことあった。きっとその時!」
女官たちもきっとそうだとうなずき合うが、杏は納得しなかった。
安直すぎる。さっきから瑠那の態度も引っかかる。
「白杏医官、今後はどうすればよろしいのでしょう?」
女官たちは部屋の中を右往左往する。
「どこかに報告を?」
「私も分からないので……詳しそうな方に相談してきますね」
韻夫人がぐっすり眠っていることを確認し、杏は院を出た。
後宮をあちこち巡って叔父を探すが、後宮の監督官は多忙だった。
再会できたのは約束していた夕刻、医房でのことだった。
「どうだった? 今回は詐病でなく本物だったか?」
「ええ、本物も本物。事件の匂いまでしましたよ。
韻夫人、毒を盛られた可能性があります」
「……それは穏やかじゃないな」
杏は律に事情を説明した。
話し終えてから、首をひねる。
「でも、何か変なんですよね。華夫人が毒を盛るとは思えないんです。
韻夫人、まだ妬むほど成功していないでしょう?」
皇帝の気を引いただけだ。律も大きくうなずく。
「華夫人はないぞ。まだ内々の話だが、彼女は家臣に下賜されることが決まっている。韻夫人と張り合う理由がない」
「そうなんですか? なら、たれが?」
杏は人差し指でくるくると、宙に小さく円を描いた。
「状況からいけば、瑠那さんしか毒を入れられないと思うんです。
でも、動機が分かりません」
「今までの扱いに対する腹いせか、恨みを持つ人間に頼まれた。
そんなところじゃないのか?」
妥当な説だが、杏はうなる。
「その理由、彼女らしくないんですよね。
だって瑠那さん、夫人からの扱いを本気で苦にしてませんでしたよ。
みんなが同情するような状況なのに、本人は嬉しそうなくらいで――」
杏は指の動きをピタリと止めた。
思い起こされたのは、瑠那に薬をぬった時の光景だ。
杏の心配に、瑠那は笑っていた――暗い喜びをひそませて。
「そうか」
「何がだ?」
「韻夫人の詐病は、瑠那さんにとっても治ると困る病だったんだ」