一章 偽る人⑤
十日後。杏は今日も医房の前で、青空診療所を開いていた。
やってきた律は、無人の医房を一瞥する。
「今日も閑古鳥の世話で忙しいのか?」
「後宮の花を蹂躙するならず者の監視業務も加わって、多忙を極めてますよ」
杏は満開の梅の花と、その間を飛び回る小鳥を愛でていた。
ならべた木箱に寝そべって、全身でヒマを表している。
「先日、陛下におもしろいことを聞かれたぞ」
律が木箱に座った。
「『近頃、後宮へ行くと、どこからともなく琵琶の音が聞こえてくる。
正体を確かめたいが、あまりに巧みな演奏でこの世の者とは思えぬ。
白律よ、華夫人に勝る弾き手など、後宮にいるのか?』と」
杏は身を起こした。思わず笑みをこぼす。
「ちゃんと生きた人間だとお教えしました?」
「ああ。陛下は近々、宴の席に韻夫人をお召しになって、腕前を見るそうだ」
杏は上機嫌で、薬炉から湯壺を取り上げた。
「よかったよかった。韻夫人、夜の演奏を始めてから、赤い盛り塩も止めたんですよ。
女官さんたちの顔もどこかくつろいで。全部がうまくいって万々歳です」
茶杯に湯を注ぐと、丸ごと干した梅花が花開いた。ふわりと、春の香りが立ちのぼる。梅花茶だ。
「ところで、白杏医官。俺は仕入れの帳簿を精査していて、担当の仕事ぶりにいささか疑義を持った。
今日の夜、市場の価格調査に行く。同行しろ」
「医官の仕事じゃない! 全然ない!」
迷医は一抹の矜持をみせた。律は、ふむ、とあごに手を当てる。
「なら、薬種の価格調査にしておくか」
「なんですか、しておくかって。いい加減な」
「餐館や酒楼を回るのでは、さすがにあからさまだろう?」
「あからさま?」
律がおかしそうに笑った。
「めずらしく察しが悪いな。仕事にかこつけて、外に飯を食べに行かないかと誘っているんだ」
後宮に身をおく者は、秘密を守るため簡単に外へ出られない。
臨時雇いの杏も例外ではなく、医官になってからはずっと医房で生活している。
だが、後宮の監督官の監視下であれば話は別。
律の言っていることは、命令という名の外出許可だ。
杏は目をしばたかせる。
「どうしたんですか。ムチもなくアメをくれるなんて。逆に怖いですよ」
「なに、あの万年不機嫌病を治した褒美だ」
大きな手が、杏の頭をくしゃくしゃと撫でまわす。
「どこがいいか考えておけよ」
「わーい! 歩く宝庫が手に入ったー!」
杏がどこにしようか楽しく悩んでいると、女官が一人やってきた。
韻夫人のところの女官だ。迷いをみせながら、頼んでくる。
「白杏医官、往診をお願いできませんか?」
「それは韻夫人の、ですか?」
詐病は治らなかったのかとがっかりしたが、少し違った。
「……その。韻夫人は必要ないとおっしゃるのですが、どう見ても具合が悪くて」
「え?」
詐病の常習犯が平気と言い張り、詐病にうんざりしていた方が本気で心配している。いつもと正反対の構図だ。
「分かりました、すぐうかがいます。――では叔父上、また後で!」
医房の表に往診の札をかけ、杏は東へと急いだ。
院の門をくぐった途端、主屋で言い争う声が聞えてきた。
「ダメです、お嬢サマ! 寝る!」
「邪魔よ、瑠那! ついてこないで!」
韻夫人は回廊に出、段差でふらついた。
杏がかけ寄り、体を支える。息づかいが荒い。汗のにおいがした。
「失礼しますよ」
杏はさっと、夫人の首筋に手を当てた。脈は速かった。額に手をやる動きから、頭痛の症状もうかがえる。
「韻夫人、寝台へ。休んでください。軽く見ない方がいいです」
明らかに異常だが、韻夫人は聞かなかった。震える手で琵琶を抱える。
「嫌よ! やっと好機をつかんだのよ! 休んでなんていられないわ!」
杏は瑠那と協力し、韻夫人を強引に寝台へと運びこんだ。
胃の中のものを吐けるだけ吐いてもらいながら、女官たちに詳しい事情を聞く。
「不調はいつからですか?」
「さっきです。昼食を召し上がった後、しばらくしたら嘔吐なさって」
杏は真っ先に、また食あたりを疑った。
「みなさんは大丈夫ですか?」
「はい、なんとも。夫人と女官は献立が別ですので、私どもは平気なこともございます」
「他のご夫人方は?」
院の食事は、大きな膳房でまとめて作られている。一人が食あたりになれば、他でも起こり得る。
「さっき両隣にお尋ねしましたけれど、変わりない、と」
「では、韻夫人だけなのですね。夫人だけ召し上がったものはありますか?」
「お昼までお茶の一杯も飲まずに、琵琶の練習をなさっていました」
女官たちは視線を交わしあった。
「……実は韻夫人、五日前にもお食事を吐き戻されたんです」
「五日前にも?」
「その時も今回と同じで、夫人だけでした」
ゆっくり休んだら、すぐに回復したらしい。
そのため女官たちもそう気に留めなかったが、二度目となれば偶然とは思えない。
「夫人には、食べると体調をくずす食材はありますか?」
「いいえ。好き嫌いはございますけれど」
食べ物が原因でないのなら、次に疑うのは患者自身の体調だ。
ところが、こちらも問題が見当たらなかった。
「気力にあふれて、お元気でしたわ。
食事を吐かれた時は、ご本人も驚いていらっしゃいました」
となれば、残るのは一番嫌な可能性だ。
杏は寝台からはなれ、声をひそめた。
「こうなると……夫人は毒を盛られた可能性がありますね」