一章 偽る人④
杏は門前に立った。口の横に手を添え、声を張り上げる。
「あーのー、韻夫人ー! 陛下のお目に留まる方法があるんですけど、知りたくないですかー!?」
五つ数えたころ、韻夫人がまた回廊へ出てきた。
不審そうにしながらも、おずおずと返事をしてくる。
「……そんなもの、本当にあるの?」
「お邪魔しますね」
杏は門をくぐった。中庭を横切り、韻夫人につづいて主屋へ入る。
異国の趣にあふれた空間だった。
床には華やかな織模様のじゅうたんが敷かれ、壁には艶やかな油彩画が飾られている。部屋には、香料と香木の匂いがほのかに漂っていた。
「見慣れない楽器ばかりですねえ……これは太っちゃった琵琶?」
杏は棚をのぞきこんだが、韻夫人は雑談に応じなかった。さっさと長椅子に腰掛ける。
「で?」
ツンとあごを反らし、尊大に問う。
なんとか自分を大きく見せようという虚勢がにじんでいた。
「ああ、陛下の気を引く方法でしたよね――んー、けほっ」
わざとらしく咳きこみ、杏はのどを押さえた。
「すみません、のどがカラカラで。
おいしいお茶を頂ければ、調子が出ると思うんですけど」
「……瑠那、お茶」
「小腹も空いてますー!」
厚かましく主張し、杏は勝手に丸椅子に座った。
ほどなくして、お茶とお菓子が運ばれてくる。
「紅いお茶に、干した果物まで入って。まさに西州の方ですね」
薔薇の花が描かれた茶杯を、杏は興味深くのぞきこむ。
「こちらは……糕、ですか?」
糕は米粉や芋粉の蒸し菓子だが、これは少し違った。表面はこんがりと焼け、香ばしい匂いがしている。
「この香りは黄油? 乳から取った油が使われているんですね。美味ー!」
卵の風味も豊かなふわふわとした菓子を、杏は夢中で口に運んだ。
「――で?」
韻夫人は明らかに苛立っていたが、杏は気にしない。椅子の上で、落ち着きなくもぞもぞと身動きする。
「すいません、なんか腰痛くなってきたので。やっぱり帰ります」
「は!?」
「椅子が堅いせいでしょうかねー。ダメなんですよねー、こういうのー。私って、ほら、育ちがいいのでー」
韻夫人は唇を噛んだ。自分の下に敷いてあった毛皮を投げつける。
「あなたね、いい加減にしなさいよ! 人の弱みに付けこんで!」
「夜に外で演奏なさいませ、韻夫人」
相手が素を出したところで、杏は急に神妙になった。投げつけられた毛皮を、自分の下に敷く。
「後宮にいらっしゃる時を見計らって、陛下がお通りになられる道でお弾きなさいませ。舞台に上がらせてもらえないのなら、自ら舞台を作るより他ありません」
「――っ」
韻夫人は指を握りこんだ。作ったこぶしが震える。
「さんざんもったいぶっておいて、それ!? ふざけないで!」
「ふざけてるのは龍玄宗の方だと思いますけど?
なんですか、表の盛り塩。ただの赤い岩塩なのに、まじないの効果倍増とか。そっちの方がよっぽどふざけてますよ」
バン、と韻夫人の手が卓を叩いた。
「あなた、私をバカにしてるの!?」
「私が腹を立てているのは、あくまで龍玄宗です」
杏は真正面から夫人を見据えた。
「とんでもない高値で塩を売りつける人と、ありきたりな助言をする人――あなたの弱みに付けこんでいるのは、どちらだと感じますか?」
若い夫人は、ぐっと押し黙った。自分でも愚かなことをしていると分かっているのだ。波打つ髪を振り乱し、叫ぶ。
「ありきたりな助言じゃ無理だから、頼るんじゃない! まじないに!」
「試したんですか? 陛下の通り道での演奏」
素朴な質問に、韻夫人は黙した。
「……していないわ」
「なぜ?」
「……バカバカしいから。きっと無理。ムダよ」
「はい。私はそのバカバカしいと思うことを試す勇気を持ってもらうために、参りました」
虚を突かれて呆然としている夫人に、杏はにっこり笑った。
瑠那に二杯目の茶を注いでもらう。
「韻夫人の演奏、すてきですね。聞き惚れてしまいました。
私だけでなく、通りすがりの人もうっとりしていましたよ」
「当然でしょ。私の腕は西州一よ」
韻夫人は自信満々に髪を払ったが、ふと、茶色い目に陰を落とす。
「……でも、ダメなのよ。こんな見た目だから」
演奏でタコのできた指が、明るい色の髪をつまんだ。
「新年の楽会の選抜で落とされたわ。『異民族だから』って。
私は生まれも育ちも天辰国なのに、いつも外の人間に見られる」
「陛下は偏見のないお方ですよ? 白律御監がおっしゃっていました」
「……本当に?」
「心配でしたら、最初は布をかぶって演奏するのはどうです?
そうすれば、まずは音色だけで評価されます」
杏は衝立にかかっていた紗を取り、夫人に頭からそっと被せた。
「毎夜、琵琶を奏でる謎の娘ーー月光に透ける紗の衣、かすかに漂うかぐわしい香り。
王は音色に心奪われ、足を止める。だれかと尋ねるが、娘は答えない。ただそっと静かに立ち去るのみ……」
杏は手を組んで、うっとりと語った。長椅子をふり返る。
「どうです? すてきなことが始まりそうな予感、しません?」
韻夫人はぷっと吹き出した。
「何、その手垢のついた三文芝居みたいな話。あなた、そういうのが好きなの?」
「ええ、大好きです。王道、定番、大団円! 最高じゃないですか」
杏は全肯定した。紗の下から、小さな声で提案がある。
「……わざと琵琶の撥を落としていくのは、どう?」
「いいですね。で、陛下が翌日、この撥の持ち主はだれかと聞き、韻夫人が名乗り出る、と。うーん、ベタのベタですね」
「なによ、悪い?」
「とんでもない。大好物です!」
杏は長椅子に座ったが、夫人の口から文句は出なかった。
二人は弾く曲や時間など、ああでもない、こうでもない、と話し合う。
冗談と同じ。夢のような話だ。
しかし、夢は希望を与えた。互いの茶杯が空になる頃、不意に、韻夫人は真顔になった。
「……撥を落としたり、だれか尋ねられて逃げたりなんてことは絶対! しないけど。
私、やってみる」
かたわらの琵琶を取り、韻夫人は唇を引き締めた。
「一度も演奏を聞いてもらえないなんて、嫌だもの」
すると、半歩下がって控えていた瑠那が口出しした。
「お嬢サマ、夜、寒イ。カゼ引く!」
「バカね、厚着すればいいだけでしょ」
一笑した夫人に、瑠那はさらに訴える。
「夜の演奏、迷惑。嫌われる」
「もう充分、嫌われているわよ」
韻夫人に迷いはなかった。瑠那だけが不安そうに両手を握り合わせる。
「……でも……でも……それでもダメだったら」
「その時はその時です。また別の手を考えましょう」
杏は気楽にいい、少し挑戦的に尋ねた。
「大丈夫ですよ。たとえ転ばされても、あなたはきっと何度も立ち上がって来たのでしょう?」
「……分かっているじゃない。そうよ、私はいつまでもメソメソなんてしていないわよ!」
「その意気です!」
起立した韻夫人に、杏は拍手を送った。
往診道具を持って、腰を上げる。韻夫人はさっそく衣装選びをはじめていた。
「さて……これで詐病が落ちつくといいんですけど」
ポロン、ポロン、とこぼれ始めた音を聞きながら、杏は院を後にした。