一章 偽る人②
「はいなんでしょう!」
杏は素早く起き上がった。浅黒い肌をした女官がいた。
「――あ。韻夫人のところの」
「侍女の、瑠那デス。来て欲しいデス」
杏の表情がくもる。
往診が嫌だったからではない、瑠那のほおが赤く腫れていたからだ。
「そのほお、どうしたんですか?」
「失敗シタ。琵琶、置き方、まちがえた」
くわしく尋ねると、韻夫人の愛用する琵琶を左右逆に置いたために打たれた、と分かった。ささいな理由だ。
「とりあえず、冷やしましょう。口の中、切れてませんか?」
「ワタシ大丈夫。早くお嬢サマ。頭痛がってて可哀想!」
自分の傷など構わず、瑠那は手を引いてくる。
前回食あたりで呼ばれた時もそうだった。この侍女はひたすら主人を優先し、夫人もそれが当たり前という態度でいる。
主従なので仕方ないが、杏は瑠那の境遇を案じた。
「叔父上、女官の配置換えってあるんですか?」
「後宮で採用された者ならな。彼女は韻夫人の家から連れてきた私的な侍女だから、無理だ」
律は瑠那の容姿に注目した。色の濃い肌に、水色の瞳。主人同様、瑠那もめずらしい見た目をしている。
「たしか元は、異国の商人の奴隷だったと聞いた気がするが……」
確信がもてないでいる律に、瑠那は自分の胸元を指さした。
「ソウ、奴隷。昔の印」
瑠那は少しだけ襟を引いた。異国の文字なのか、幾何模様が焼き付けられている。家畜に押す焼き印に似ていた。
律も杏も、顔をしかめる。
「お嬢様、優しい。好き」
瑠那は無邪気に、にこにこ笑っている。
杏と同じくらいの年だが、子供のような無垢さがあって、どこかあどけない。
「ワタシ、仕事ヘタ。お嬢サマ、ソバにいるだけで良いといった。ワタシでもできる」
杏から見れば、瑠那は主人に八つ当たりの対象にされているのだが、本人に悲壮感はなかった。
ほおは腫れているが、着ているものは清潔で、肌は張りがある。
奴隷だった頃よりは、今の方が恵まれているのだろう。
「まあ、本人が良いなら良いんですけど……」
杏はそれ以上、瑠那の扱いについてあれこれ心配するのは止めた。
往診の支度を整え、医房の表に『往診』の札をかける。
「瑠那さん、腫れを抑える薬だけでもぬっておきますね」
「アリガトウ!」
ほおに軟膏をぬると、瑠那は軽くはねるくらい喜んだ。
杏はゆるんだままの襟も直してやる。
「何かあったら、いつでも来てください」
「ウン!」
やはり瑠那は、大げさなくらい喜んだ。
三日月のように曲がった唇に、杏はふと眉をひそめる。
――天真爛漫な笑顔の奥に、何かほの暗い陰を見た気がした。