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後宮の迷医 ー男装医官の心療録―  作者: サモト


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【番外編】町中の名医

時間軸は本編の7年前。

杏の父、霖が主人公のスピンオフ短編です。

 都の閑静な住宅街に、一軒の診療所がある。

 主の名は、白霖(バイ・リン)

 一年後の病を予見し、三年後の病を防ぐと評判の医者である。


 博識で洞察に優れ、三年前には新興宗教の詐術をも暴いた。

 その功績により、皇帝から『太医』の位を授かっている。

 都では名医ともてはやされる立派な人物だ。


 しかし――その彼は今、情けなく机に突っ伏していた。


「また……効かなかった……」


 目の前には、ネズミの入った籠が二つ。

 両者を見比べ、霖は垂れぎみの目尻をいっそう下げる。


「ネズミ・甲には普通のエサを与え、ネズミ・乙には“千年霊芝の粉”を混ぜたエサを与えつづけて十日……」


 甲のネズミは活発に動き回っている。

 対して乙のネズミは動きが鈍く、毛もところどころ禿げていた。


「“長寿の薬”という触れ込みだったけど、これじゃあ毒の疑いまであるなあ」


 薬包紙に載っている紫色の粉を見つめ、霖は重いため息をついた。


「父上、そんな顔をなさっているということは、また変な薬だったんですね」


 診察室に、一人の少女が入って来た。

 霖の養女で、見習い医の白杏(バイ・シン)だ。


 年は十四。

 顔の右上は靄のようなアザに覆われているものの、目鼻立ちは整っている。

 白と薄青の襦裙に包まれた体はすらりと高く、白鷺のような美少女だ。


「おはよう。杏ちゃんを見ると、世界が希望にあふれるね」

「はいはい。私は父上を見ると、心配があふれますよ」


 霖は相好を崩すが、杏は苦笑いを返す。

 ネズミと、周囲に書き散らかされた観察記録に嘆息した。


「毎度、凝りませんねえ、父上は」

「だって、本当に効くなら、杏ちゃんや律君に処方したくて」

「私も律叔父上も、薬に頼らなくてもじゅうぶん健康ですけど」


「万が一があるでしょう、万が一が」

「万に一つじゃないですか」

「杏ちゃんがかわいくないこというー!」


 杏から朝食の膳を受け取り、霖は子供のように騒ぐ。


「ぼくはね、大事な人には長生きして欲しいんだ……できれば永遠に」

「父上、寿命があるからこそ種は健全に循環するって、この前教えてくれましたよね?」

「それはそれ、これはこれ。理屈より感情が勝つこともあるんです」


 霖は正論を暴論でねじ伏せた。


「ぼくは諦めない。たとえどんな小さな希望でも、拾いつづけるよ」

「そうして拾われた希望は、無惨に叩き潰されるんですよね。

 父上、信じる前に徹底的に疑うから……」


 杏は“千年霊芝の粉”の入った薬包紙をもてあそんだ。


「“霊蛇の胆”も“七色に光る茸”も“ミイラの粉”も、ぜーんぶお店つぶれて。

 最近では、そういう行商は都に近づかなくなっているらしいですよ?」


「えっ、嘘。ぼくはものすごく心待ちにしているのに?」


「ここの診療所には近づくなって、薬売りの間では手配書まで回っているとか」

「いやーっ、ぼくの希望の星々ーっ! ぼくを嫌わないでーっ!」


 霖は涙とともに粥をかきこんだ。

 朝食が終われば、診療開始だ。

 表門を開けに、庭へと出る。


「おっと、あれを貼っておかなくちゃ」


 霖が棚から取り出したのは『除災招福』と書かれたお札だ。

 杏がみるみる表情を無くす。


「それも、ひょっとして……どこぞの術士から買ったんですか?」

「買ってはないよ。これは昨日診た張旺(チャン・ワン)さんから、お代がわりに頂いたんだ」


 娘の冷めた視線をものともせず、霖は熱っぽく語る。


「このお札を作ったのは、雷鳴術士という方でね。

 すごいんだよ。雷に打たれても生還なさったんだ!」


「雷に打たれても死ななかった人、私、他でも知ってますけど」


 杏はすでに半眼だった。


「それだけじゃない!

 術士様はそれ以来、不思議な力に目覚めた。

 魔を祓い、病を除き、悪を退ける力を得たんだって」


「はあ……」


「なんでも、雷鳴術士様のお住まいの周りには、魔物を封じた石があるらしいよ。

 今度、一緒に見に行こうね!」


「分かりました。お弁当は肉餅でいいですか?」


 杏は完全に物見遊山に行くような態度で答える。


「おやつに蜜餅が欲しいな」


 甘党の霖はちゃっかり注文を追加した。

 お札を片手に、表門を開けに行く。


「白霖先生、大変だ!」


 白髪交じりの男が、さっそく中へ飛びこんで来た。

 その頬には引っかき傷ができ、血がにじんでいる。

 霖は眉をひそめた。


「張旺さん、右腕の次は、右頬まで負傷ですか?」

「いや、俺のことはいんだ」


 自分の傷には一向にかまわず、張旺は身を乗り出した。


「そんなことより、術士様が……雷鳴術士様が……」


 しわのある手が、細かく震えながら外を指差す。


「雷鳴術士様が……どうかなさったんですか?」

「頭から血を流して、倒れていらっしゃるんだ」


*****


 雷鳴術師の住まいは、都のはずれにあった。

 竹林を背景に、ぽつねんと南向きに小屋が建っている。


「昨日、白霖先生にお札をお渡ししただろう?

 だからよ、俺の分をもらいに、今朝訪ねに来たんだけどよ……」


 張旺につづいて、霖は小屋へと急ぐ。

 戸口に向かって、男がうつぶせに倒れていた。

 着ているのはけばけばしい紫色の長袍で、帯には雷紋が刺繍されている。


「この方が、雷鳴術士ですか。

 ……三十代前半。大きな耳飾りから推測するに、南州軫河(しんか)の出身。黄疸の疑いアリ。酒精が匂いますね」


 ブツブツつぶやきながら、霖は男のそばにかがんだ。

 右の側頭部が、べっとりと血に汚れている。


「ひえっ……」

「杏、あっち向いてなさい」


 霖は素早く、杏の身を反転させた。

 この見習い医は、医者を目指していながら血が苦手なのだ。


「父上、何が御入用です? まずは傷口を洗われますか?」

「いえ……」


 霖は、往診道具を漁る杏を制した。

 雷鳴術士の脈を取り、口元に手をやり、瞳孔を観察する。


「残念ながら、もうお亡くなりです。血の乾き方から見て、死後半刻といったところでしょう」

「そ、そうか……やっぱり……」


 張旺はがっくりとうなだれる。


「側頭部の傷は、この石が原因でしょうね」


 霖はすぐそばに落ちている、拳大の石を拾った。

 血痕がついており、凶器だということがすぐわかる。


「砂岩ですね。粒の粗さと色から判別して、この近くを流れる川のものでしょう」


 霖は角の丸い石をあちこちから眺めた。

 奇妙なことに、石には三つ穴が空いていた。


「道具を使って、穴を空けてありますね。……人の顔なのでしょうか?」


 石には、髪を表したとおぼしき線も刻まれている。

 張旺が怯えた。


「それはきっと、雷鳴術士様が魔を封じた石だよ」

「え? これが、例の?」

「ほら、そこにもたくさんあるだろ?」


 張旺は、小屋の東側を指した。

 顔のような石像群が大小いくつも乱立している。


「ふむ……たしかに。この石、元はそちらにあったものという可能性が高いですね」

「先生、不用意に近づかない方が!」

「なぜです?」


 霖がきょとんと振り返った瞬間、風が吹いた。

 なまぬるい空気の波。竹林の葉が揺れる。

 その音に混じって、魔物を封じたという石から不気味な声がした。


「ひいいっ、魔物のっ、魔物の声だ!」


 張旺は青い顔で耳をふさいだ。


「雷鳴術士様がいってたんだ。

 封印が完全ではないから、たまにうめくんだって……」


 凶器の石からも、張旺は距離を取る。


「きっと、術士様は封印した魔物に殺されたんだ!」


 三人の足元で白い紙片が舞う。魔除けのお札だ。

 術士が倒れた拍子に、懐からこぼれ出たもののようだ。

 杏が冷静に指摘する。


「魔除けのお札があっても、術士さんは魔物に殺された。

 ということは、父上の頂いたお札は――」


「効かなかったとは限りませんよ、杏!」


 霖は間髪入れずに反論した。


「術師様は人に殺された可能性だってあるでしょう?

 むしろ、そう考える方が自然です」


 霖は宙を見上げた。

 指先が次々と縦線を引いていく。


 考えるときの、霖のクセだ。

 まずあらゆる選択肢を思い浮かべ、可能性の低いものを消していく。そういう思考法をしていた。


「きっと、あそこの石像群から誰かがこの石を投げて――」

「いや、先生。雷鳴術士様は魔物に殺されたんだよ」


 張旺は自信に満ちた声で断言した。


「俺は見たんだ。石が勝手に、術士様めがけて飛ぶところを」


*****


「ちょうど、あの空き家の角に差し掛かった時だった」


 張旺は、事件現場の南にある空き家を指した。


「雷鳴術士様のお姿が見えたんだ。

 女性を見送って、家に入られるところだった」


 事件の瞬間を思い出し、ぶるりと身を震わせる。


「そしたらよ、突然、雷鳴術士様めがけて石が飛んできたんだよ。

 石像の所には誰もいなかったのに。

 ひとりでに!」


 石像は、大きなものでも大人の腰ほどの高さしかない。

 もし誰かがここに立っていれば、上半身は見える。


「しゃがんで投げた、ということは?」


 杏が細いあごに指を添え、意見する。


「傷の角度から見て、それはありませんね」


 霖は遺体の傷口を洗い流し、淡々と答えた。


「石は、上から斜めに入っています。

 しゃがんで投げたなら、下から上へえぐる角度になるはずです」


 濡れた手を拭き、霖は石像群の方へ寄った。

 大きな石の足元に、二の腕ほどの長さの像が横たわっていた。


「この石……倒れたのは最近ですね」

「本当だ。元々あったらしい場所、まだ湿っていますね」


 杏が試しに像を起こす。

 地面のくぼみと石の底部は、みごとに一致した。


「ということは、犯人はこの辺りに立っていた、ということでしょうか?」

「そして現場から去るとき、その石を蹴り倒した可能性が高そうですね」

「でも、ここに人なんていなかったですよ! 誓って!」


 張旺は声を張り上げた。


「俺ぁ兵役に就いていたとき、目の良さを買われて見張り番をしていたくらいなんです。

 見間違えるなんて、ありえません!」


「ええ、ええ。もちろん。張旺さんが嘘をおっしゃっているなんて思ってませんよ」


 鼻息荒く詰め寄られ、霖はのけぞった。


 不意に、霖の視線が相手の右半身をたどる。

 真新しい傷のついた右頬。縫い直されている右袖。汚れている右裾――


「……張旺さん、やけに右側ばかりケガをしたり、汚したりしているのですね」

「え?」


 自身に注意を向けられて、張旺は当惑した。


「ああ……そうなんだよな。自分でも不思議なんだけど」


 右半身を見下ろし、張旺はすぐまた話題を戻す。


「でも、今は俺のことなんてどうでもいいよ。

 先生、早くここを離れよう。俺たちも石像に呪い殺されちまうよ!」


「すみませんが、もう少しだけ」


 霖は穏やかに、しかしきっぱりと拒否する。


「杏、犯人が居た場所に立っていてもらえますか?」

「分かりました、父上。事件を再現するんですね」


「張旺さんは、事件を目撃した所へ案内していただけますか?」

「今さらそんなことして……意味あるのかい?」


 怪訝そうにしながらも、張旺は霖を空き家へ案内した。

 家塀の西側の角の、三歩手前で立ち止まる。

 

「ここですよ、ここ。あの木の枝に頬を引っかけて……」


 張旺は忌々しげに、塀を乗り越えて生い茂る庭木をにらんだ。

 地面には、その枝が折り捨てられている。


「『痛っ』と思って、腹立ちまぎれに枝を折りました。

 で、また前を見たら――」


 張旺の隣で、霖も正面を見た。

 右手にある塀が視界に入るものの、術士の家も石像群も、どちらも問題なく見える。


「突然、宙に石が現われて。ぴゅーんって、術士様のところへ飛んで行ったんです」

「そういういきさつなら、この位置は正確でしょうね」


 霖はくせ毛の頭をかいた。

 石像群の中にいる杏が、にこやかに手を振ってくる。

 犯人がいたなら、張旺には確実に見えていたはずだ。

 

 ――が。

 張旺が、急に奇妙なことを言い出した。


「……あれ? 先生。あの子、どこ行っちまったんです?」

「あの子とは……杏、ですか?」

「ええ。石像の所に、いないですよ?」


 霖は小首を傾げた。

 もう一度確認してみるが、杏はちゃんと石像の所にいる。

 なにやら熱心に像を観察していた。


「……本当に、いません?」

「いないでしょう?」


 張旺は自分の視界を疑っていない。


 霖はまた宙を見上げ、可能性の一覧表をにらんだ。

 次々と縦線を引いていきーーやがてその指が、ピタリと止まる。


「……張旺さん。体の正面を、少し右へ。石像の方へ向けてもらえます?」

「石像の方へ?」


 言われた通りにした張旺は、きょとんとした。


「あれ? あの子、ちゃんといるな。しゃがんでたのかな?」


 ぽりぽり頭をかく目撃者。

 霖は確信を得て、静かにうなずいた。


「杏はさっきからずっと、そこに立っていましたよ」

「そんなはずはない!」


 気色ばむ相手を、霖は落ち着いた声音で諭した。


「人の目というのは、ときどき嘘をつくんです」

「俺の目は嘘なんてつかない!」

「たとえば、鼻」


 霖は張旺の鼻先を指した。


「鼻は、常に視界にあります。

 でも普段、いちいち意識していませんよね?」


「……確かに。いちいち見て、ないな」


 張旺は寄り目になって、まじまじと自分の鼻を観察した。


「人の体は不思議なもので。

 見えているのに、見ていない――そんな摩訶不思議なことが起きてしまうのですよ」


「なんでです……? 先生」

「おそらくですけど」


 霖は、今度は自分の頭を指差した。


「常に見えていると邪魔なので、僕たちの頭が見えないようにしてくれているからだと思うんです」


「……なるほど? でも、それと今のことに、何の関係が?」


 訝しげにする張旺に、霖はおもしろそうに続けた。


「ということは、それと逆のことが起きる可能性もあると思いませんか?」

「逆のこと?」

「見えていないところを、見えているように補う、ということですよ」


 霖はもう一度、張旺を事件当時と同じように立たせた。

 その上で、その右側に手を掲げる。杏の姿を覆い隠す位置に。


「今、張旺さんの右側に手を出しています。

 ……見えていないでしょう?」

「見えないよ。でも――」

「ちゃんと景色は見えているのですよね」


 張旺は困惑した。


「ぼくの推測は当たっているようですね。

 人は、欠けている視野を補うことがある。

 勝手に、覚えている景色を当てはめて。

 だから、張旺さんは記憶にない犯人の姿を認識できなかった」


 霖は折り取られた小枝を拾い上げた。


「以前来たときは、この枝は塀を超えるほど伸びていなかったのでしょう。

 記憶にないから、これも、あっても見えなかった。

 それで頬を引っかけてしまった」


 あるのに、見えない。

 その事象を二度も再現されると、張旺はうなだれた。


「……すまねえ、先生。自信満々に、犯人はいなかった、なんて」

「年と共に現れる眼病です。自分では気づきにくいですから、仕方ないですよ」


「見えていないのに、見えるなんて。そんなこと、あるんだな」

「今度、ちゃんと視野の検査しましょうね。これ以上、ケガを増やさないために」


 気落ちしている相手の肩を、霖は優しく叩いた。


*****


 杏のところへ戻ると、霖は得意げに魔物の仕業でないことを語った。


「――というわけで、やはりこれは人の手による他殺でした!」


 堂々、胸を張る。


「お札が効かなかったわけではない、ということが、これで証明されましたね」

「それ、わざわざ父上が証明することなんですか……?」

「どこかに犯人の足跡の一つでも残っていないでしょうか」


 霖が周辺を歩きまわっていると、ふらりと、青年が現れた。

 体つきは細く、肌は白い。見るからにひ弱そうだ。


「……雷鳴……術士様は……?」

「術士様は不幸なことに、今朝方、どなたかに石を投げられて――」


 霖越しに、青年は遺体を目にした。

 愕然としてその場にへたり込む。


「……ああ……やっぱり。僕のせいでお亡くなりに……」

「あなたの……せい?」

「雷鳴術士様に石を投げたのは、僕です」


 青年は両手で顔を覆った。

 肩がひくひく震え始めたと思いきや、苦しげに胸を押さえた。

 ヒューヒューと喉が鳴る。


「……喘息か!」


 霖は青年のそばに駆け寄った。

 呼吸が楽になるよう、体を前かがみにさせる。


「落ち着いて。吸うより、吐くことを意識して」


 薄い背をさすりながら、霖は杏を振り返った。


「杏、麻杏丸ある?」

「はい」


 杏は往診道具箱の中から、すぐに指定された丸薬を差し出した。


「麻黄と杏仁が息の道を開いてくれます。噛まずに、舌で転がしてください」


 青年は涙目でうなずき、丸薬を転がす。

 荒かった息は次第に落ち着いた。


「……すみません……取り乱してしまって」

「いえいえ。生まれつき、喘息持ちで?」

「はい。雷鳴術士様によると『母親が殺した蛇の祟り』だそうなんですが……」


 青白い頬を、大粒の涙が濡らす。


「信じていたのに。術士様のおかげで、僕は祟り殺されずに済んでいるのだと思っていたのに……」

「違った……のですか?」


 霖の問いに、青年は唇を噛んだ。


「女性とお酒を飲みながら、術士様は笑っていました。

 『魔物がうなるだの封印しただの、全部見せかけなのに』って」


 霖は固まった。


「それを聞いたら、頭が真っ白になって。気づいたら石を」

「衝動的に犯行に及んだのですね。……騙されていたと知って」

「あの男は偽物だったんです」

「偽物……」


 霖は呆然と、青年のセリフを繰り返す。

 杏の方は、やっぱり、と肩をすくめた。


「父上、ついでに、この石像なんですけどね」

「石像が何か?」

「よく見ていたら、この像たち、目鼻の他にも穴が空いているんです」


 杏は手近にある石の背面を示した。

 指先ほどの太さの穴が、深々とうがたれている。

 像によっては側面にもあった。


「たぶん、これ、龍玄宗の“鳴き龍像”の二番煎じですよ。

 中は空洞で、穴から風が入ると音が出るっていうアレ」


 ちょうどその時、風が吹いた。

 像がうなり声を上げるが――杏が指で穴をふさぐと、音はぴたりと納まった。


「ね?」

「……じゃ、今回も」

「インチキ。立派にインチキ。霊力なんて夢まぼろしでしたね」

「また騙された……!」


 霖は地面に両手をついた。


*****


「また空振りかあ」


 ため息とともに、霖は自宅の門をくぐった。

 青年の身は捕吏に引き渡した。一件落着だが、霖の表情は晴れない。

 やるせなく、門に貼った『除災招福』の札を剥がす。


「杏ちゃん……甘味でも食べに行こうか」

「甘い物の食べ過ぎはよくないと言っていませんでしたっけ?」

「心の! 薬なんです!」


 力説する霖に、涼やかな声がかかった。


「お帰りなさいませ、兄上」


 官服を着た美青年が、霖に拱手する。

 霖の弟、白律(バイ・リュイ)だ。

 二十歳ながらすでに難関の官吏試験を突破し、王城に出仕する身分である。


「あれ? 律、帰りが早いね」


「陛下から、兄上へのお届け物をお預かりしたので。

 早めに退出してよいと、直々に仰せつかったのです」


 律はうやうやしく、黒漆塗りの木箱を差し出した。

 ぎっちり詰まった(ガオ)に、霖が歓声を上げる。


「うわあ……甘くていい匂い!」

「『霊蛇の肝を偽物と見破った件、見事であった』と。これはその下賜品です」

「ええ、あんなことで? ぜんぜん、大したことじゃないのに」


 霖は、芯からこともなげに語る。


「店主の語る霊蛇の大きさじゃ、あの量の肝は到底まかなえないって。

 少し数字を足し引きすれば、だれでも気づくことだよ」


「その報告書についても、陛下はお褒めでしたよ。

 理路整然としているだけでなく、文体そのものに品があり……」


 律も読んだらしい、文章を思い浮かべて陶然とまぶたを伏せる。


「文書とはかくあるべしと、尚書省で回し読みされております」

「ええ……嫌だなあ……。父上に知られたら『やはりおまえは官吏に』って言われちゃうよ」


 霖は肩をすぼめたが、律は誇らしげだ。嬉しそうに、さらに報告する。


「近頃、都の怪しげな薬売りが減ったのは、白霖太医のおかげと宮中で評判で」


「えっ……あ、はは! ま、まあ、太医ともなれば……ね?

 皇帝陛下だけでなく、民の健康を守るのも仕事さ」


 霖は背筋を正した。年長者らしい威厳を持って、咳ばらいを一つする。


「『醫者仁心』だよ。律」

「ご立派です。俺も兄上を見習って、職務にはげみます」


 律はうなずき、一歩下がった。

 菓子箱を預けながら、杏にいう。


「杏、霖兄上は俺の知る限り、最高の師だ。しっかり学ぶのだぞ」

「――はい。仰る通り。はげみます」


 一瞬返事に詰まったものの、杏は素直にうなずいた。

 律がお茶を淹れに去っていった後で、霖に呆れる。


「父上ったら。叔父上の前では格好つけたがるんですから」

「だってだってだって! よくできた弟に、あんなに尊敬されたらさ。情けない兄なんかできないじゃない!」


 霖はさっそく糕にかぶりついた。

 甘く煮た龍眼入りで、甘さが空腹と傷心に沁みた。


「『醫者仁心』って、どういう意味なんですか?」

「……医者はいつだって胸に仁を抱いていなければならないって意味」

「なるほど。いつでも、心に、仁を」


 反復されると、霖は耐えきれなくなって叫んだ。


「分かってます分かってます! ぼくは日々、私欲にまみれて迷走してるダメ医者です! そんな目で見ないで!」

「別にどんな目でも見てないですけど……。ああ、父上、そんなに急いで食べたら」

「――うっ!」


 杏の予想通り、霖は菓子を喉につまらせ、むせた。

 胸を叩き、水を飲み、杏に背をさすられと、ひとしきり忙しくする。


「はあ……。ぼくって、名医というより迷医だよねえ」


 情けない姿をさらした霖は、すっかり自信をなくしていた。

 しょんぼり肩を落とす。


「ああ、そうだ。杏、お茶飲んだら勉強しようか」

「今日は何を?」


「せっかくだし、喘息のことをやろうかなって」

「ぜひ」


「課題は、あの青年に喘息の対処法と薬を差し入れることで。

 取り調べで緊張が続くと、喘息の発作が起きやすいだろうからね」

「よろしくお願いします、先生」


 たおやかに万福の礼をして、杏はふふっと笑う。


「なんだかんだ、父上は仁ある名医ですよね」

「そお?」


 気のない返事をして、霖はまた一つ、ぱくりと菓子を食んだ。

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