終章 迷う人④
「……父上は、だれにも私の正体を明かさなかったんですね。
いってしまえば、後宮の騒動はすぐにカタがついたのに」
「それだけ、おまえが大事だったんだろう」
満月が皓々と、窓辺の二人を照らす。欠けのない月は円満な家庭の象徴だ。
月光を包まれながら、杏は思い出す。父と叔父と、三人で月餅を囲んだ晩のことを。
「兄上は、義姉上を亡くされてからというもの、まるで糸の切れた凧だった。
頭は冴えていても、心はどこか遠くにあってな。みんな心配していた。
でも、おまえが娘になってからはすっかり元にもどったよ。
おまえがいて、本当にいい人生だったと思う」
杏は声を震わせた。
「……私も。父上の娘になって、初めてこの世で息をした気がしました」
ぐすっと鼻が鳴る。
律は、杏の頭を胸に抱き寄せた。
「後始末が一段落したら、兄上のお墓にお参りに行こう。
おまえが無茶をするから、まだこの世に魂が留まっているかも知れないぞ。
今回の報告をして、安心させないとな」
「……はい」
杏は目元をぬぐった。背筋を正し、律に向き直る。
「さて、これで気になっていたことは解決しました。
さんざんご心配とご迷惑をおかけしました、叔父上。
おとなしくおうちに帰ります。煮るなり焼くなり嫁にするなり、お好きにどうぞ」
すっかり腹をくくっている杏に対し、律の反応は鈍かった。
おもむろに、懐へ手を入れる。
「それだがな、陛下からこれを預かった」
渡されたのは、龍の刺繍が入った黄絹の巻物だった。
赤い絹紐をほどき、杏はたちまち眉根を寄せる。
「ん……? て、天命を奉じて位にあり? 医術を以て……誠心を以て……?」
四苦八苦する杏に代わり、律が格調高い文章を滔々と読み上げた。
「『朕、天命を奉じて位にあり。医術を以て衆を救い、誠心を以て人を癒す者を、天下の宝とする。
白杏、その才知聡明、父白霖の志を継ぎ、誠を尽くして陰后の危機を救い、奸を見抜き、惑いを除けり。朕これを嘉し、特に命じて太医署医正に任ず。
以後、白杏は後宮にあって診療に従事し、諸妃並びに女官の安寧を守るべし。医の道を正し、慎みを持って勤め、後宮の繁栄に寄与せよ』――だ」
「その呪文、もっと短く!」
「つまりな。おまえを正式に後宮の医官に任命する、ということだ」
杏はぽかんとした。
その肩を、律がポンと叩く。
「よかったな。クビが繋がったぞ」
「ちょ……ちょっと待ってください。私、血、ダメなんですけど!?」
動揺のあまり、杏は勅書を取り落としそうになった。
「もちろん、それは申し上げた。その上での、それだ」
「えっ、大丈夫ですか!?」
今までむりやり医官を続けてきた身でありながら、杏は思わず聞き返した。
「また龍玄宗を利用して騒ぎが起きないとも限らない。
陛下はおまえに、後宮に妙なやからが出ないよう見張っていて欲しいそうだ」
「それ……医官の仕事じゃないと思いますけど」
勅書を返しはしないものの、杏は困惑していた。
「俺が後宮で女性問題に悩まされなくなったのは、おまえのおかげだし」
「それも、医官の仕事じゃないですよね」
「妃嬪たちが安全な白粉を使うようになったのも、後宮の市が内侍省と尚宮局の共同運営になったのも、おまえの働きがあってのことだし」
「いや、それはほとんど高鉄雄さんのお手柄ですよ」
「李星皇子は、おまえの診療を受けるようになってから落ち着いた。
人の物を勝手に持って行くクセは起きていない。
だが、経過観察は必要だろう?」
「う……そうですけど、皇子、最近、色んな遊びに関心を持つようになってきたんですよね。
山登りしたいとか川遊びしたいって言われたら困るんですけどぉ……」
「韻夫人の詐病を治し、毒殺の危機から救ったのも、おまえの功績だ」
「たまたまです」
「張明殿は、陛下におまえのことを『お産のときには卒倒し、腹痛の患者に飴玉を処方する、とんでもない医者』と話したそうだが」
「改めて聞くと、私ってとんでもないヤブ医者ですね!?」
「金鈴公主と、こうも言ったそうだ――『目には見えない傷を治す名医』だと」
「……」
言い返す言葉が、尽きた。杏は下唇をかるく噛む。
「陛下はおまえをふつうの医者とは違うが、それでも医者だと見込んだんだ。拝命しろ」
杏は勅書の巻物を握りしめた。
「……私で、いいんでしょうか? 私は丁春蘭を救えなかったのに」
「傲慢だな、白杏医官」
律はわざと、他人行儀に姪を呼んだ。
「名医と呼ばれた白霖太医ですら、すべての患者を救えたわけではない。
なのに、おまえはすべて救うというのか? “迷医”のくせに」
皮肉を装った励ましに、杏はふっと笑った。肩の力を抜く。
「そうでしたね。私は役立たずな迷医でした。
だれかを救うなんて、思い上がりもはなはだしい。自分にできることを精一杯やるだけです」
律はもう一つ、皇帝から預かったものを取り出した。
木箱に納められた佩玉――医官の証だ。
「杏……ですか」
杏はそっと佩玉に触れた。
杏の実を平たく象った形をしていた。紅玉髄で作られており、艶のある淡紅色をしている。杏の花びらを思わせる、優しい色合いだ。
「“杏林春暖”……?」
表面に彫られている文字を読む。律が解説した。
「『杏林に春が訪れるように、医者の徳が患者の心と体を温める』ということだ。
転じて『名医の手にかかれば病苦が去り、世が和らぐ』という意味もある。
杏林の故事は知っているだろう?」
「ええ。それは父上に教えてもらいました」
かつて名医と讃えられた人物がいた。
その医者は、治療をしても金銭を受け取らなかった。代わりに、家の周囲に杏の種を埋めてもらうだけだった。
数年後、辺りは杏林となった。医者は生った実で穀物を手に入れ、今度は飢える人々をも救ったという――
「杏林は、良医を表す言葉ですよね」
杏は柔らかく笑む。
「だから、私の名前も杏」
医の道を歩むと決めたとき、養父が改名してくれたのだ。
良き医者になれるようにと、願いをこめて。
「――謹んで拝領します」
杏は医官の証を押し頂き、腰に佩いた。
こうして迷医は、正式に後宮に迎え入れられた。
血は苦手、薬は飴玉、それでも確かに人を救う医者として。
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