終章 迷う人③
堅い寝椅子の上で、杏はなつかしい夢から醒めた。
すでに日は暮れ、医房の中は薄暗い。
昼前に一度意識を取りもどしたが、後宮の監督官に『今日一日は絶対安静』を命じられた。することもなく寝転んでいるうちに、ふたたび眠ってしまったらしい。
物音を聞きつけ、慎重に寝返りを打つ。戸口から人が入ってきた。
「――杏? いるのか?」
返事もせず、杏はぼんやり人影を見つめた。
律が明かりをつけて、そばまで寄ってくる。
「明かりもつけずに、どうした。具合が悪いのか?」
「……んー……叔父上が戸を閉める姿って、父上とそっくりだなあと。新たな発見でした」
「細かい指摘だな」
律の手が、杏の頭をなでた。
髪の間からウロコのようなアザがのぞくが、杏は隠さなかった。ただ心地よさそうにしている。
「……なんだ、にやけて。何かおもしろいことでもあったか?」
「いやあ。私の選択はまちがってなかったなあと」
律が声の調子を落とす。
「何がだ。飛び降りたことをいってるのなら、怒るぞ」
「もっと昔のことですよ。父上の子供になって良かったなって。
おかげで理想の父だけでなく、理想の叔父まで手に入れました」
「なんだそれは」
杏は窓から満月を仰いだ。ゆっくり身を起こす。
窓際の小卓には、中秋節のお供えがきちんとならんでいる。
「叔父上ー、月餅食べましょうよ。お腹空きました」
「本当、自由だな、おまえ」
やれやれとため息を吐きつつ、律はお茶を用意した。大きな月餅を切り分け、小皿に載せる。手慣れた所作だ。
「いただきます」
杏は餡がぎっしり詰まった一切れにかぶりついた。
口の端についた欠片を舌でなめとり、龍井茶でのどをうるおす。
「後始末、お疲れさまでした。陰后様は、どうなさっています?」
「自ら龍娘娘と仇信を宮殿から追い出したよ」
律も月餅を口に運びながら応じた。
「しばらくは放心状態だったが、食欲ももどった。妊娠については、最初からなかったように素知らぬ顔だ」
「はは。現実に返ったようで、よかったですよ」
「龍娘娘――丁春蘭は牢だ。素性を聞けば、大金持ちの娘だったとか、公主だったとか、荒唐無稽な話ばかりする。
おまけに、言動が子供のようになってしまって。まともな証言が取れず、取り調べの担当が手を焼いていた」
「……そちらは自分の心の牢に入ってしまいましたか」
「仇信は罷免だ。最後まで『自分も丁春蘭に騙されていた』とか『陰后のためだった』とか、あらゆる言い訳をしていた」
「仇信内侍監らしいですねえ」
杏は二切れ目の月餅に手を伸ばした。
「陛下にだけは報告させてもらったぞ。おまえが本物の辰小龍だと」
「正体を公言しないでくれて、ありがとうございます」
「表向きには、すべて俺の仕組んだ芝居ということにしておいた。
俺が筋書きを用意し、おまえに本物の龍娘娘を演じさせたという形だ」
「ほう? みなさん、納得していました?」
「みんな半信半疑の様子だった。が、信じるだろう。
本人ですら忘れていたであろう丁春蘭という名を、おまえはぴたりと言い当てた。芝居でもないと、説明がつかない」
ふと、律が神妙な面持ちになった。
月餅でほおを膨らませている杏を見つめる。
「……杏。おまえ、本当に、何か妙な力を持っていないよな?」
杏は月餅を吹き出しそうになった。
「ちょっと、叔父上。最後の最後にその冗談はないですよ。龍玄宗は全部インチキって証明したでしょう」
「分かっている。たぶん昔に会っていたとか、何か理由があるんだろう。だが――」
自分でもバカなことを言っていると感じているようだった、律は視線を外す。
杏はにやりと笑った。
「私の雰囲気に気圧されちゃいました?
いやー、すっかり庶民が板についたと思っていましたが。
まだまだイケますかあ、私。後光とか見えました?」
「見えんわ」
「ううん、叔父上に頭を下げてもらえるなら、束の間、昔にもどるのもやぶさかではないですねえ。
いいですよ、白律。私は寛大です。あそこの桃をむいて、私に献上する栄誉を与えましょう」
「素直にむいて欲しいと頼め」
杏の額を、律は指先で軽くはじいた。お供えの桃を器用にむいていく。
その様子を、杏は妙技でも見るように目を輝かせてながめた。
「叔父上の推理通りですよ。私は昔、彼女と会ったことがありました。話しているうちに思い出しました」
「丁春蘭が、人々から石を投げられていたときに?」
律は、丁春蘭の叫んだ言葉を引き合いに出した。
「そうです。彼女がウソつきと責められていた時に。
私は子供の頃、読心術を身につけるため、いろんな人と会話させられましてね。
話しながら、素性や特徴、考え方、クセ――あらゆる情報をひたすら頭に叩き込みました。やりすぎて、吐きそうになるほどに。
八歳になる頃には、人のウソを見抜くことにかなりの自信を持っていた」
均一に切り分けられた桃を、杏は口に運んだ。甘い果汁が口の中にあふれる。
「ところが、そんな私でもウソを見抜けない人がいました。それが丁春蘭です」
「興味を惹かれたおまえが、彼女を助けて話を聞いた、と。だからあんなに詳しかったのか」
杏は苦い顔をした。
「高くなっていた鼻をへし折られましたよ。
人の心は不思議なものですね。生きるために、明らかなウソさえ本当に変えてしまう。心とは、私が思っている以上に深いものなのだと思い知らされました」
律は椅子の背にもたれた。
「まさかおまえが龍娘娘本人だったとはな。
医官になってから袍を着ているのは、正体を気付かれないようにするためだったのか?」
「古い知人がいないとも限りませんから。アザと一緒に、性別も分かりにくくしておいた方がいいと思って」
杏は思い切りそでをまくった。
「はーっ、これで、これからは家の中で薄着ができる」
あらわになった白い腕には、顔と同じようにうっすらとウロコ状のアザがあった。
「顔だけじゃなく、体のあちこちあるんですから。隠すのに、気を使い通しでしたよ」
「……ひょっとして、嫁に行くのを嫌がっていたのも、それのせいか?」
「夫婦では隠し通すのは難しいでしょう?」
アザをなで、杏は少しだけうつむいた。
 




