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後宮の迷医 ー男装医官の心療録―  作者: サモト


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終章 迷う人①

 やわらかな寝台の上で、辰小龍は目を覚ました。

 豪奢で重い衣は脱がされていた。代わりの、白絹の深衣が肌に心地良い。


 枕もとの香炉から、白檀の煙が細く立ちのぼっている。

 龍紋の入った帷帳の向こうで、人の話し声がした。


「みごとだったぞ、霖。あれほど鮮やかに龍玄宗の真実を明らかにするとは。

 おまえが信者になったと聞いた時は、とうとう気が触れたかと思ったが……すべてはこの結末のためだったのだな」


「いえ……別に。大したことではありませんよ、父上。有り得ないことを前提に、しつこく推論を重ねただけですから」


「陛下はおまえに太医の位を授けると仰せだ」

「い、いや、それは結構です。宮廷勤めなんて堅苦しくて――」


「……霖。おまえ、官吏試験をわざと落ちたな?」

「え? なんのことですか?」


「宮仕えが嫌だからといって、そんな姑息な手を使うとは……才ある者がその才を国に還すのは、士たる者のつとめと教えたはずだが」


「も、もちろん理解しておりますとも! だから僕は医者となり、人の命を救うことで役に立っているわけで」


「ならば、なおさらだ。太医として陛下の健康を守ることは、天下の安寧につながる大事なつとめ。

 これを辞するというなら、本家で素読から鍛え直しだ。もう一度官吏試験を――」


「太医、なります! 嬉しいです! 今後も医の道に邁進します!」


 いかめしい声の主は部屋から出ていった。


 小龍は花文の淡く浮かぶ陶製の枕から、頭を浮かせた。

 帷帳の間から、ふわふわとしたくせ毛の男が顔を出す。

 くだけた話し方をしていた男――霖だろう。


「やあ。ごめんね、起こしてしまったかな?」


 相手は柔和な表情をしていたが、小龍は身構えた。


 ついさっき、小龍が神子を務めていた教団はこの男によって瓦解した。

 母と共に起こしてきた“奇跡”はすべてまがい物。タネもしかけもある詐術だと、信者たちの前で暴かれてしまった。


「気分はどう? 何が起こったか、覚えている?」


 小龍は小さくうなうずいた。

 もちろん覚えている。

 暴かれた後は、劇的な展開の連続だった。

 怒り狂った信者の一人が、短刀をふり上げた。

 龍公主が何度も刺され、あたりには鮮烈な赤が飛び散った。


「私は必ずまた戻って来る!」


 母の最期の言葉が、小龍の耳によみがえる。


 直後、歓声が頭の中を満たした。

 教祖の妄言に狂喜する信者たちの姿――小龍は、さあっと血の気が引いていくのを感じた。


「ああ、僕なんかがついていない方が良かったね」


 霖が差し出してきた手を、小龍は避けた。

 寄ってきた侍女のことも手で下がらせる。青ざめた唇を震わせた。


「……あの人は?」

「龍公主のこと?」

「ちゃんと死んだ?」


 冷徹な質問だった。実の娘らしくない問いかけだ。

 霖は一瞬言葉に詰まったが、やわらかな声で応じた。


「脈も、鼓動も、呼吸も絶えていたよ。三人の医官で確かめた」

「なら、間違いないわね」


 小龍はそっと体の力を抜いた。

 喜びも悲しみもない。ただ、ずっと背負っていた重荷を下ろせた気がした。


「……龍公主は生き返ると言っていたけれど、生き返るかな?」

「死人は生き返ったりしないわ。土に還るだけ」


 小龍は顔を上げた。いつもの通り、毅然と前を見据える。


「……そっか。土に還るのか」


 霖は、どこか残念そうにしていた。


 染みついた習慣で、小龍は相手を観察した。

 頭のてっぺんから足の先まで目を滑らせ、拾った情報をつなげていく。

 陰った表情、身につけたものの意味、これまでの言動――三呼吸のうちに、思考をまとめあげた。


「白霖さん、私には奇跡を起こす力はないの。

 あなたの奥さんを生き返らせることも、絶対にできないの。

 あなたはそれを尋ねたくて、ここにいたのね?」


 霖は絶句した。


「すごいね――」

「知らなかったわよ。あなたに奥さんがいたことまでは」


 霖は目をしばたかせる。


「『僕のことを知っていたの?』と聞きたかったんでしょう?」

「そうだよ――」

「次の質問は『なぜ妻がいると分かったの?』よね」


 面食らっている霖に、小龍は心外そうにする。


「私がすごい訳じゃないわ。種明かしをねだる時、みんな同じ顔をするからよ。いい加減、見飽きてきちゃう」

「はは、芸がなくて申し訳ない」


 霖は照れたような笑いを浮かべた。


「まず気になったのは、その縫い方がいびつな袍よ。

 不器用な仕立てなのに、くたびれるほど着ている。

 きっと大事な人が作ってくれたものだと思ったの」


 小龍は色あせた袍から、くせ毛をまとめている簪に目を移した。


「次にその簪。女物で、金だわ。男性が女性に、求婚のときに贈るものよね。

 それをあなたがつけているということは――もう、形見なんでしょう?」


「……当たりだよ。全部ね」


 霖は笑みを深くした。


「驚いた。本当に何もかも見透かされている気分だ」


 霖は揚々とした仕草で、椅子をつかんだ。繊細な透かし彫りの施された寝台のそばに座る。


「もっと教えてくれる? 君から見た僕を」


「あなたは、本当の奇跡が欲しかったのね。

 本気で信じたかったからこそ、まず徹底的に疑ったのね」


「うん、その通りだよ。それを分かってくれたのは君だけだ」


 近付かれても、小龍はもう身構えなかった。

 数多くの信者たちにそうしてきたように、くつろいで接した。


「私たちの起こした奇跡を暴いた後には、こう言いたかったのでしょう?

 『さあ、次こそ本当の奇跡を見せて』って」


 霖はたまらなく嬉しそうにした。それから、困り顔でくしゃくしゃと頭をかく。


「参るよ。父をはじめに、みんな僕が正義のために真実を解き明かしたと思っているんだから。僕は人一倍、弱くて愚かなのに」


 小龍は目を伏せた。


「……ごめんなさい。うまく騙してあげられなくて」

「君が謝ることじゃないよ。信者になるには才能がいるんだね。先に気づくべきだったな」

「そうね。あなたは全然ダメ。永遠に破門よ」


 二人はふふっと笑い合った。


 不意に、霖がうつむく。

 まだ若いはずなのに、うなだれた頭には白髪がちらほら混じっていた。


「……死人は生き返らない。十歳の君にも分かる道理が、どうして僕にはわからなかったのだろうね」


 小さな白い手が、男の手にそっと添えられた。


「みんな、そう。辛い時は何も見えなくなる。いつもなら分かる簡単なことも分からなくなる。

 私ね、賢さとか強さとかそういう美徳って、ただ運良く保てているだけだと思うの。だから、あなたが特別弱いわけじゃないわ」


 霖は、まだ自分の半分も生きていない少女を見上げた。


「君はすごいね。もう、なんでも分かってるんだね」


「ううん、何も分かっていない。人の心はよく分かるくせに、自分の心は見通せていなかった」


 それきり、小龍は黙ってしまった。

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