一章 偽る人①
花が咲きほころぶ梅の下。
杏は生姜湯を片手に、必死に女官を口説いていた。
「今日この時この場所で、私たちが出会ったのはきっと運命。
今ならお団子もごちそうします。どうか一時、私の患者になって下さい!」
「病人を作るなヤブ医者!」
女官を医房へ連れ込もうとする杏を、律がはたいた。
後宮の監督官のお出ましに、生姜湯にむらがっていた女官たちがさっと散る。
「人を呼び集めている怪しい宦官がいると聞いて来てみれば……おまえか!」
「うう、だってえ、人が来ないんですもん……」
杏は医房の前にならべた木箱に伏せった。
杏は後宮に仕える医官だ。
しかし“迷医”という不名誉なあだ名のせいで、患者が一人もこない。
ヒマを持て余すあまり、木箱で即席の椅子をこしらえ、青空診療所よろしく人を呼びこむ始末である。
「そのうち自分が『患者来来!』『重病熱烈歓迎!』とのぼりを立てないか不安です……」
「やったら即刻解雇する」
冷たく返しながら、律は桃まんじゅうの入ったカゴを差し出す。
杏はぱっと起き上がった。
「ありがとうございます、叔父上! 生姜湯飲みます?」
湯気立つ茶杯を渡され、律は木箱に腰かけた。
閑散としている医房を見やり、首をひねる。
「それにしてもおまえ、なぜ“迷医”なんて呼ばれている?
先日、張明殿が言っていたように、出血さえなければ医者として問題ないのだろう? どうして閑古鳥なんだ」
杏はため息と共に、桃まんじゅうにかぶりついた。
「たぶん、赴任してすぐの往診が原因です。治ると困る病の方だったんですよ」
「治ると困る病? そんなものがあるのか?」
「珍しくないですよ。叔父上はないでしょうけど、叔父上の周りにもなった方はいるかと」
律は眉をひそめたままでいる。
「ほら、あるじゃないですか。病気が治ると困る場合が」
「……仮病か!」
「そうです。仕事をサボるための仮病とは違って、彼女のは得にもならないのに病気のフリをする。だから“詐病”ですかね」
「だれだ?」
「韻夫人です。東側の院にお住まいの」
夫人は后、妃、嬪に次ぐ四番目の位だ。
後宮では中程度の身分で、後宮の外周に連なる院が住まいだ。
「西州、婁関府の長官の娘か。あちら側では一番の良家だな」
「たしかにお部屋の中、豪華でしたね。異国の物も多くて、交易の盛んな土地の娘さんらしかったです」
韻夫人自身も、めずらしい容姿をしていた。波打つ髪は金に近く、茶色い瞳には緑が混じっていた。黒髪黒目が圧倒的に多い天辰国では目立つ姿だ。
「往診を頼まれたのは、ここに来た日の夜でした。
真夜中に、韻夫人の侍女さんが駆けこんできたんです。主人が食あたりで苦しんでいる、と」
律はすぐ、怪訝にした。
「東の院から、わざわざこの西の医房へ来たのか?」
「私も不思議に思いましたよ。東西南北に医房があるのに、どうして一番遠いところにって」
が、あまり気にしている余裕はなかった。
やってきた侍女が、医房に着くなり嘔吐したのだ。
杏は大急ぎで医官服に着替え、現場に駆けつけた。
「でも――全然だったんですよね」
「全然?」
「韻夫人は、胃もたれと軽い下痢程度。本人は“まもなく死ぬ”くらいの勢いでしたけど、侍女さんや女官さんの方が重症でした」
初仕事と意気込んで向かった杏は、肩透かしを食らった気分だった。
「大げさな性格なんだな」
「それで、韻夫人の診療は早々に済ませて、侍女さんたちを診ようとしたんですが……それが気に入らなかったようで」
杏は頭を押さえた。
「韻夫人、新しい症状を訴えだしたんです。頭が痛い、指がうまく動かない。ついには息が苦しい、とまで」
「……明らかに詐病だな」
「朝まで付きっきりで看病させられた挙句、ヤブ医者呼ばわりされて追い出されました。
最後には『女だったの!? 道理で頼りにならないと思ったわ』って……」
「初日から災難だったな」
「日常茶飯事のようで、お付きの女官さんたちはうんざりしていましたよ。
聞けば、他の医官たちももう往診に来たがらないそうで」
「それで、新入りのおまえのところにまで依頼が来たのか」
律は納得したが、なおも首をひねった。
「韻夫人が大げさなことは、周知の事実なんだろう?
彼女がヤブ医者呼ばわりしただけで、おまえが迷医扱いされるのはおかしくないか?」
杏は恨みがましい目で、白律御監を見つめた。
「あとは叔父上のせいだと思いますよ」
「俺?」
「叔父上は後宮の監督官。特に、宦官たちが不正をしないか見張る立場ですから。姪の私もにらまれているんですよ」
杏はもう一個、桃まんじゅうをほお張った。
「あの人たち、医房の前で『ここはダメです、ヤブです!』なんて叫ぶんですよ?
艾葉をもうもうと焚いてやりましたよ!」
艾葉は虫除けに焚く薬草だ。害虫撃退に成功した杏は、意味もなく勝ち誇る。
「確かに俺は宦官たちに嫌われているが、おまえにもか」
「韻夫人のヤブ医者呼ばわりと、宦官たちの悪評が合わさって――」
杏はパン、と両手を叩いた。
「はい、迷医のできあがり! です」
背から木箱に倒れこみ、青天をあおぐ。
「だれでもいいから患者さんこないかなー」
「アノ……白杏医官」