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六章 欺く人⑦

 ひっと、龍娘娘が小さく悲鳴を上げた。おびえたように身を抱く。


「父の名は丁懐仁(ディン・フワイレン)、母の名は蔡鳳嬌(ツァイ・フォンジャオ)。姉が二人、妹が一人、弟が一人」

「……るな」


「父親は文官でしたが、龍玄宗へ改宗しなかったことで龍公主の怒りを買い、罷免。一家は没落した」

「……見るな」


「望みの一人息子は病死。困窮したあなた方は、龍玄宗の信者となることで食いつなぐ日々を送るようになった――そうでしょう?」

「見るな見るな見るなあああああ!」


 龍娘娘は杏につかみかかった。押し倒し、馬乗りになって責め立てる。


「なんなのです、あなたは! なぜ、なぜっ――あんたは“あたし”を知っている!?」

「よかった。ようやく本当の“あなた”にお会いできましたね」


 杏は寄って来る叔父を手で制した。


「では、私も名乗りましょうか。私の本名は辰小龍(チェン・シャオロン)


 顔にかかる髪を払い、青黒いアザを衆目にさらす。


「――もっぱら、龍娘娘とばかり呼ばれていましたけれど」


 袖でぬぐわれたアザの下から、ウロコ状の模様が現れた。

 輪郭ははっきりとしておらず、色も淡い。しかし、それだけにまるで龍が正体を隠し損ねたような妙な真実味があった。


「あ……あああ……! 龍娘娘……龍娘娘!」


 丁春蘭は畏れるように、杏と間を取る。部屋にいる全員が、息を呑んでいた。


「さあ、もうウソはお終いにしましょう」


 杏は身を起こした。丁春蘭にやわらかな笑みを向ける。


「私はあなたを責めに来たのではありません。あなたの重荷を下ろしに来ただけ」


 後ずさる丁春蘭と、そっと距離を詰めていく。


「ウソは辛いでしょう? 吐けば吐くほど、自分が自分でなくなっていく。

 作り上げた虚像がどんどん大きくなって、その重みに潰されそうになる」


 優美な白い手が、ところどころ白粉のはげた手を包む。


「……私もそうでした。人の心を読む術が上手になればなるほど、自分には特別な力なんてないと知る。ただの人であることを思い知らされる。

 いつか、だれかが、私のウソを暴いて欲しいと心の底で願っていた」


 杏は深い同情をこめて、丁春蘭を見つめた。


「あなたも、そうなのでは?」

「――あなたに何が分かるのです!」


 丁春蘭は乱暴に杏の手を払いのけた。


「龍娘娘は聖なる存在。俗世という泥沼の上に、清らかに咲く一輪の蓮の花。だれかを救うことはあっても、だれかにすがることなど、決してない!」


 ありったけの憎悪をこめたような強い眼差しが、本物を射た。


「みなに石を投げられる娘をかばい、だれもが虚言とあざ笑う言葉を決して笑わず、ただ慈雨のごとく慈愛を注ぐ! それが龍娘娘!」


 くしゃりと、化粧のまだらな顔がつぶれる。

 手は苦しそうに胸をつかむだけで、助けを求めてどこかに伸びることはない。

 ただただ、まぶしそうに正面を見つめる。


「凡愚なその考え! やはりあなたは偽物! 私こそが本物です!」


 丁春蘭は歯を食いしばった。目から一粒二粒、透明な雫をこぼす。

 愛憎をふり切って、部屋の外へと駆けた。


「ご覧なさい、みな!」


 丁春蘭は二階の回廊の欄干に腰かけた。

 下は中庭だ。吹き上げる風が、乱れた黒髪をなぶる。


「母の言葉に倣い、私もまた誓いましょう。私はまたもどってくると!

 龍の御力、その真の輝きを、しかとご覧にいれましょう!」


 両腕を高々と掲げたあと、丁春蘭は上体を大きく傾けた。


「待っ――」


 止めようと手を出した杏も、大きく姿勢をくずす。

 絢爛な黒衣と簡素な白衣が、朱色の欄干の向こうに消えた。


「きゃああああああっ!」


 あちこちで悲鳴が上がった。

 二階の人々は欄干に飛びつき、中庭の人々は落ちた先に駆け付ける。

 少しして、庭の片隅で黒衣がうごめいた。


「――ふふっ、見えましたか? 私の身に宿る、龍のご加護が」


 丁春蘭が飛び起き、声高に無事を知らせた。


「やはり私が龍娘娘! 私こそ真実! 私は不死の存在です!」


 丁春蘭は途切れることのない哄笑を響き渡らせる。


「一生言っていろ、大馬鹿娘娘!」


 いち早く庭へ降りてきたのは、律だ。

 ケガのあるなしを確認することもなく、丁春蘭をわきへ押しのける。


「杏! 杏! 無事か!?」


 杏はうめくように、声を絞り出す。


「……死んだ。これは絶対死んだ」


 身動きすると、その下にある大量の枯草がかさかさと音を立てた。

 中庭の隅に刈り取った夏草が大量に積まれており、杏と丁春蘭はその上に落ちたのだ。


「叔父上、お供えは桃百個でいいですよ」

「まずそのムダな口は無事そうだな」


「あー、危なかった。とっさに壁を蹴って落ちる場所をずらした自分、すごすぎ」

「下敷きにまでならなくても良かっただろう」


 杏は仰向けになったまま、首だけを動かした。

 龍娘娘は狂ったように無事を叫び、周りはそれを白い目で見ていた。


「……見誤りました」

「何を」

「彼女は母と同じ。自分を欺く人。自分の作った世界でしか生きられない人だったんですね」


 杏は両目を片腕で覆った。


「私は一体、彼女の何を見ていたんだか……」


 深呼吸を、一つ。杏は慎重に、手先足先から動かした。


「おい、むりに動くな。すぐに医者を――」


「医者ならここにいますって。……あたた、あばらが折れた? ヒビかな? これぞ本当の骨折り損ってやつですね」


「おまえも無事の報告が騒がしいな」


 律の手を借りて、杏はゆっくりと立ち上がる。


「んー……あばら以外は五体満足、五臓六腑も無事っぽいですね。

 うわ。歩くのも問題ないし。なんてかわいげのない体」


 軽く歩きまわった後、杏は憮然とした。


「くっそー、なんで私ってこうも運が強いんでしょう。

 龍娘娘時代も何かと間一髪で助かるし!

 たまには悲劇の主人公やりたいですよ、まったくもう!」


「おまえというやつは……こっちが倒れそうなんだが」


 律は心労のこもったため息を吐きだした。


「陰后様、お気を確かに!」


 子供のようにはしゃぎ回る丁春蘭の向こうで、陰后が顔色をなくして地面にへたりこんでいた。


 ふんわりとした白い裙に、赤い点が散っている。模様ではない。血だ。


「陰后様、止まっていた月の道が来たかな?」

「一件落着か」


「ですね。――では、叔父上。後はよろしく」

「よろしくって、何をだ」

「命綱なしの飛び降りはできても、血は無理ぃ……」


 杏はふたたび枯草の上に倒れこんだ。

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