六章 欺く人②
医房へもどると、律が来ていた。
窓辺の小卓に野菜や果物、酒をならべている。大きな月餅も。
明日は中秋節。満月をながめながら、家族や親しい人と過ごす日だ。新年を祝う春節に次ぐ、大事な節句である。
「……月餅、嫌いだったんですよねえ」
杏のぼやきに、律が少し笑った。
「そういえばおまえ、初めてうちで月餅を食べたとき、泣くほど感動していたな」
「実母の作った月餅が泣くほどまずくて。ふだん一切料理しないくせに、外聞のためだけに作るんです。完璧なのは見た目だけで、中身は最悪でした」
味を思い出し、杏は辟易した表情になる。
「全部食べないと、次の食事を出してもらえないんです。
必死で、食べたフリしてそでに隠す方法を習得しましたよ」
「妙な努力をする」
律は苦笑した後、ふと、怪訝にした。
「……おまえの生家、そんな風だったか?」
「独り言です。忘れてください」
杏は膳房へ向かった。盆や器を運んできて、律と一緒に供物を盛り直す。
「意外です。中秋節は家で過ごすとばかり」
「ああ……まあ、ここでやるのも良いかと思ってな」
杏はほおをゆるめる。
自分が医房にいることを当然と思われていることに、気を良くした。
「実はさっき、龍娘娘の占いに行ってきたんですよ」
「は――!?」
「父上には天罰が下ったのだと、誇らしげに教えてくださいました」
律は話題を嫌そうにしていたが、杏は逃がさない。問い詰める。
「叔父上は、父上は病死だといっていましたが。
本当は違ったんですね。天罰を装って毒殺されたのですね」
「おまえ――」
律は軒下に灯籠を飾ろうとする手を止めた。苦々しげに姪を見下ろす。
「毒殺とまで知っているということは、棺の中を見たんだな?」
「不審なことが多すぎましたよ。病がうつるという理由で、私は看病もできず、死に目にも会えず、棺も見るな、でしたからね」
「医官になりたがった本当の理由は、犯人を調べるためか」
律は肩を落とした。
「私に本当のことをいわなかったのは、父上の指示ですか?」
「そうだ。おまえがこうやって首を突っこみに来ることを心配したんだろうな」
じろりと、杏をにらむ。
「杏、帰るぞ」
有無を言わせなかった。律は腕をつかむどころか、相手の胴を抱えた。
杏はあわてる。
「ちょっ、私にも龍玄宗を追い出す手伝いをさせましょうよ! 役に立ったでしょう?」
「おまえに手伝いなんてさせられるか。人の言うことは聞かない、勝手をする。
今だって、俺になんの相談もなく龍娘娘に会いに行って」
「だって、言ったら叔父上、絶対止めるじゃないですか!」
「その言い分自体が、おまえを信頼できない理由だ」
「いーやーでーすー!」
杏は子猿のように柱にしがみつき、律は引きはがそうと力をこめる。
「俺は兄上からおまえを託された。何かあっては墓前に参れん」
「兄上兄上って。そんな思考停止はどこぞのインチキ宗教に傾倒してる輩と一緒だと思いますけど?」
「おまえまで何かあったら、仕事をまっとうできたとして、俺に何が残ると思っている」
「はあ!? 私の方がかわいそうですよ! 叔父上がいなくなったら、本当に一人ですからね!?」
二人はともかく相手より先に死にたがった。
「いいから私を仲間に加えてください! 二度と隠しごとをしないと誓って下さい! そしたら、一挙に問題を解決できるすごいことを教えます!」
「教えていらん。おまえのことだから、どうせ何か危なっかしいことだろう」
「きーっ、これだから悪い遊び一つしない生真面目は! 融通が利かない!」
「後宮に迷医がいる時点で、俺の常識は崩壊しているんだがな」
律は一旦、腕の力を抜いた。そっぽを向いている姪に、ゆっくりはっきり言い聞かせる。
「実はな、おまえの代わりの医官が見つかった」
「え? ――まさか医房で中秋節を過ごそうと思ったのは」
「最後のはなむけだ」
「わーん、読み間違えたー!」
杏の腕から力が抜けた。即座に柱から引きはがされる。
「もうちょっと、もうちょっとなのに! 終わる前に終わるううう!」
「龍玄宗のことは俺がやるから。忘れろ」
「奇跡よ起これーっ!」
天に吠えると、控えめな声がすぐそばから降ってきた。
「白杏医官……でよろしいですか?」
女官だった。後ろにはさらに二人、控えている。
立ち居振る舞いの端正さからして、主人はただ者ではなさそうだ。
「どなたか、往診の依頼ですか……?」
うなずかれ、杏は女官を拝む。
「神よ……!」
「いえ。わたくしは陰后様の遣いです」
ごく冷静に、女官は返す。杏も律も驚いた。
「陰后様……の?」
居住まいを正した二人に、女官は神妙に告げる。
「先頃、陰后様のお付きの侍医が急病により辞職いたしました。
後任には、女医官である貴女を召し抱えたいと仰せです。早急に支度を」
二人は一瞬、言葉を忘れた。
「あいにくと――」
「かしこまりました!」
律が断る前に、杏ははきはきと請け負った。
「すぐに準備いたします。少々お待ち下さい」
いうや否や、杏は素早く診察室に取って返した。
「待て、杏!」
後を追って、律もやって来る。
「おかしいだろう、ヤブ呼ばわりされているおまえを侍医になんて。行くな」
「いえ、すべては天龍様のお導きです」
「こんなときにふざけるな」
「迷医が后の侍医になるなんて。龍娘娘の占い通りです」
「なら、明らかに罠だな」
律は杏の腕をつかんだ。
「俺がなんとでも言い繕うから。往診の支度でなく、私物をまとめろ。陰后の宮殿なんて敵陣真っ只中だぞ」
律の態度はもはや懇願に近かったが、杏は冷淡だった。
迷惑そうにため息をつく。
「いい加減、その『おまえを守っている』みたいな態度、やめてもらえません?
叔父上が私を信じてくれないから、私は勝手に動くしかないんですよ?」
律の表情が揺らいだ。
「叔父上は自分が正しいと思っているようですけれど、その心配は本当に私のためですか? ただ自分の気に入らないものを排除したいだけでは?」
手首をつかむ力が、弱まる。杏は口の端を持ち上げた。
「お偉い白律様。名家に生まれ、若く美しく聡明で、前途も明るい。何もかも手に入れて当然の人生。
だから他人の運命をも、どうにでもできると思っていらっしゃる」
杏は手を振りほどかなかった。
むしろ律の胸に体をあずけた。恋人のように、肩にほおを寄せる。
「いいですよ、あなたの望む通りにいたしましょう。
あなたのりっぱな財と権力で、寄る辺のない女を好きに飾って飼えばいい。
顔に醜いアザまであるのですから、寛大さを示すにはうってつけでしょうね」
狼狽している相手を、杏は愛くるしく見上げた。
「優しいあなたは、心のどこかでこう思っていらっしゃるのでは?
『この女は、俺がいなければどこかで野垂れ死ぬ運命――なんてかわいそうなんだろう』と」
自由な片腕を律の首筋にからめ、耳元でささやく。たっぷり悪意をまぶして。
「『見捨てられない』といえば聞こえは良いですけれど、本当は手元に置いておきたいだけですよね。あなたの手なしでは生きられない哀れな存在として」
全身をあずけておきながら、杏は律を満面であざけった。
「ふふ。叔父上って、痛いところを突かれると、そういう顔になるのですね」
「――違う!」
律は杏を突き飛ばした。細い体が窓辺の小卓にぶつかり、供えられていた野菜や果物が転がり落ちた。
「もういい! 勝手にしろ!」
律は憎々しげに杏をにらみつけ、医房を出て行った。
入れ替わりに、陰后の女官が顔をのぞかせる。
「まだかかるのですか?」
「もう参ります。過保護な叔父の説得に、少々手間取りました」
杏は赤いあとの残った手首を押さえた。
くずれた祭壇を目にし、うなだれる。
景気づけにお供えのお酒をあおった。
「――よし、男は度胸、女も度胸! どうもお待たせいたしました、参りましょう」
往診道具を提げて、杏は勇ましく医房を出発した。




