五章 恋う人⑤
二人が最後に向かったのは、倉庫の裏手だった。
童莉莉が、退屈そうに髪をいじっている。
「いよいよ最後ですね」
杏は咳払いを一つした。
獲物を狩る獣のように、じりじりと容赦なく律に迫る。
壁際に追い詰めると、ドン! と律の横に手をついた。
「『童莉莉。監察房で働くためなら、なんでもするといったな?』」
白く細い手が、律のあごを取る。
「『なら、おまえはもう俺のものだ。二度と逃げられると思うな』――覚えましたか?」
律は冷静に、自分の横にある細い腕をつかんだ。
「脅しだぞ、それは」
「もう、叔父上、分かっていませんね。女性は強引な男が好きなんですよ?」
「おまえ、それをされたら惚れるのか?」
「もちろん。即座に急所を蹴り上げます」
杏は、叔父の両肩にポンと手をおいた。
「相手が本気になったら、いっそ私がこの手で叔父上をどうこうします。ご安心を」
「どうこうするな。相手を止めろ」
「では張り切って参りましょー!」
「おまえは来るな」
楽しそうな様子を隠そうともしない杏を置いて、律は待ち合わせ場所に向かった。
角に差しかかったとき、首を後ろへ回す。
「来るな、といっている」
「いえ。今回は、やっぱり私が行こうかと」
「どういう風の吹き回しだ?」
「私の見立てが正しい場合、叔父上に迫られるのは、彼女が気の毒なので」
杏が童莉莉のところへ向かうと、すぐに不満の声が上がった。
「ええー? なんで白律御監じゃないのお?」
しかし、その声は次第に沈んでいった。夜闇に、嗚咽が途切れ途切れにこぼれ落ちる。
「……ありがと、白杏ちゃん。分かってくれて」
長いやりとりの後に、童莉莉は晴れやかな顔でいった。
「ちょっとだけ楽になった。話すと楽になるね」
「いえいえ。息抜きしたくなったら、気軽に医房へお越しくださいね」
律は目を白黒させて、杏を迎える。
「いったい何が起きた?」
「童莉莉さんにお聞きしたんですよ。本当は男性のこと、苦手ですよねって」
「男が、苦手?」
律は思わず聞き返した。
「だったら、なぜ男と付き合う?」
杏は両手でパン、と小気味よい音を響かせた。蚊が地面に落ちていく。
「叔父上は、蚊に刺されたとき、叩いてかゆみを誤魔化したことはありませんか?」
「ああ、あるな。かゆみを痛みで麻痺させる、という理屈だろう?」
「人の心は不思議なもので。心も同じような反応をするときがあるんですよ」
「……どういうことだ?」
自分の見立てが当たっていたことを、杏は勝ち誇らなかった。
「彼女は昔、男性に望まないことを強要されました」
重たそうに唇を動かす。
「その傷を癒すことが難しかったので、彼女なりに考えました。
どうすれば痛みを感じなくなるか」
「まさか……それが自分から男に近づくこと、なのか?」
「自分から男性に近づけば、辛かった過去も自分が望んだことと思いこめるでしょう?
痛みを痛みで消そうとしたんです」
律は痛ましそうに目を伏せた。
「望んで後宮に入ったという話は、本心だったのか」
「女だらけですし、いるのは宦官だから心配ないと思って来たのだそうです」
宦官になったからといって、女性に興味がなくなるわけではない。それを童莉莉は知らなかったのだ。
「だから監察房の女官になりたがったのか。あそこなら宦官も近づいてこないし、女に興味のない連中ばかりだから」
「草むしりに行ったら、だれにも構われなかったそうで。とても快適だったといっていました」
「……女ばかりの持ち場に童莉莉を配属するよう、尚宮局に頼んでおくか。迷惑をかけられたし、強くいえば通るだろう」
三人の女官と無事に縁を切り、律は一息ついた。
「それで、次は何をすればいいんだ?」
「これで終わりですよ」
「終わり? この先の女難を避ける方法があるといっていたが、それは?」
「心配無用ですよ。龍娘娘たちが差し向けてきた三つの難を、転じましたから。後はおのずと福がやってきます」
月明かりの下。杏は厄を祓う術士のように、謎めいた微笑を浮かべた。
*****
数日後。杏が桶に足をひたして涼を取っていると、律がやってきた。
「叔父上、その後はいかがですか? 女性からの秋波は止んでいるのでは?」
「……ああ、なくなった。妙に距離を置かれている気さえする」
「よかったです。こちらも叔父上宛の手紙は、一通も預かっていません。
みなさん、叔父上のことを恋の相手と見なくなったようですね」
律は安堵しながらも、首をひねった。
「いったい、どういう訳だ?」
「たとえばですよ? 店先に見た目もよく、香りもよい桃があったとします。
ところが味見をした三人が、みんな微妙な顔で立ち去って行ったら?
叔父上は買いますか?」
「……何かあると疑って、俺も買わないな」
「ですよね。だからみなさん、叔父上のことを恋の相手から外したんです!」
杏は足を跳ね上げた。散った水しぶきが陽光にきらめき、あたりに七色の光を撒く。
「恋文を持ってきた方々に『なぜだか三人共にフラれてしまったんですよね~』とお話したら、みんな文をひっこめましたよ」
「なるほど。……たしかに、難を転じて福となす、だな」
律は感心したものの、心の底からは喜べなかった。何もないのに問題があると思われるのは、愉快なことではない。
杏は足を拭きながら、律ににやにや笑いかける。
「まあまあ、叔父上、落ちこまないで。いざとなったら私が婿に迎えて差し上げます。ご安心を」
「していらん」
律は冷たく硬い塊を、ドンと杏の頭においた。
今日の手土産は、氷の器に盛られた白い氷菓だった。花鳥の形に切られた果物が飾られ、銀箔まで散らされている。金銀財宝を詰め込んだような絢爛さだ。
「何です、これ! 贅沢すぎません? 私、明日死ぬんですか!?」
「礼だ。辞職せずに済んだし、この先も安心して勤められるようになったからな」
「いえいえ。こちらも叔父上あっての医官生活ですから」
「今度、酒でも差し入れる。何がいい?」
「これで充分ですよ。私も楽しみましたし」
杏は上機嫌で氷菓を頬張り、はっとする。背筋に悪寒が走った。
「……何を楽しんだって?」
「え? いや、人の心は誠に奥深く玄妙にして不可思議。今回の騒動は多くの知見と示唆を得る契機となり、大変楽しかったなと」
もっともらしく講釈を垂れる杏のあごを、律がつかんだ。強引に引き寄せる。
「人の苦境をおもしろがるとは、いい趣味だな?」
「おもしろがるなんて、そんなこと」
「ふざけたマネをさせて」
「あれは相手の思考に合わせて考えた、最も理にかなった手法です。決してふざけてません!」
「そのセリフ、俺の目を見てもう一度言ってみろ」
杏の目線がますます逸れた。
人生であるかないかの好機。『せっかくだから叔父にやってみて欲しかったことをやらせちゃえっ!』という欲望が皆無だったとはいえない。
「孤苓や魏沈雅とのやり取りも、おまえ……」
「見てません、私は何も見てません!」
横に逃げようとすると、後ろの壁に片手をつかれた。逃げ道をふさがれる。
耳元でそっとささやかれた。
「ここで全部話すか? それとも――だれにも邪魔されない家がいいのか?」
「わーん、ドキドキするー! すごいドキドキするー!
なんで私の時だけそんなに迫り方が上手なんですか。叔父上に強引なのは似合わないのでやめてくださいいいっ!」
恋とは別の動悸が起きたので、杏は素直に白状した。




