序章 後宮の迷医③
張明は公主と手をつないで、宮殿へと帰って行った。
杏は振り返って、胸を張る。
「どうです、叔父上! 名誉挽回、汚名返上です」
「張明殿に認められたからと言って、金妃の出産で倒れた失態は帳消しにはならないからな。
最悪の事態になっていたら、どう責任を取った?」
律も茶杯を飲み干し、席を立った。
「おまえは人手不足で雇っただけの臨時医官だ。後任が決まれば即退職だ」
「ひーん、叔父上、キビしい~!」
情けない悲鳴を上げながら、杏は空になった茶杯や皿を下げた。
寝椅子の上に落ちているものに気付く。
「――ん、忘れ物ですね」
お守りだった。赤い絹紐の先に、玉石で作られたうろこと、小さな木札がついている。
木札の文字を読んで、杏は渋い顔をした。
「“龍玄宗”……」
先代皇帝の御代。
天辰国には数々の“奇跡”で人々を魅了した母娘がいた。
龍玄宗――その信仰は、前皇帝の姉である龍公主と、その娘・龍娘娘を崇拝することから始まった。
真冬に花を咲かせ、火の上を素足で歩き、死者に息を吹き返させる――
龍を守り神とするこの国において、奇跡を起こす二人は“龍の子”と見なされた。
一時は皇帝すらもその威光に頭を垂れ、教団の存在は政にも影響を及ぼした。
「ああ、よかった。ここに落としていたのね」
張明が診察室に舞い戻ってきた。杏からお守りを受け取る。
「それ、新しいですね。最近、手に入れたんですか?」
「ええ。金妃様が身ごもられた時にね。
やっぱり、あやかりたいじゃない? あのお二人の生まれには」
龍公主の母は懐妊中、龍が体に入りこむ夢を見た。
龍娘娘には、生まれつきうろこのようなアザがあった。
そんな神秘が重なったこともあり、二人は龍の子と崇められた。
出生にまつわる奇跡の再現を願って、龍玄宗のお守りを求める者は多い。
「龍玄宗のお守りなんて、まだあるんですね。
十年前に龍公主が亡くなって、龍娘娘も行方が分からなくなって。信仰も下火になったと思っていました」
「龍娘娘なら、戻ってきているわよ?」
「え?」
杏は思わず聞き返した。
「……いつ? どこに?」
「二年くらい前かしら。今は、陰后様の宮殿にいらっしゃるわ」
杏の顔が険しくなった。
脳裏に、死んだ養父の棺がよぎる。
「……あの。まさか、彼女はまた“奇跡”を?」
「ええ! 龍娘娘の占いは評判よ。特に“見抜く目”がすごいのですって。生い立ちから今の境遇まで、ことごとく言い当てるのだとか」
はずんだ声に対し、杏の表情は沈んでいく。
「そういえば、さっきのあなた」
張明は杏に向かって笑った。
「私のことを言い当てるの、まるで龍娘娘みたいだったわね」
「あれはインチキですよ」
杏は苦笑し、さっと顔を伏せた。
「ただの観察と洞察。タネもしかけもある“奇跡”です」
落ち着かなさげに、杏は足裏で床を擦る。
「……張明さん。父は後宮にも出入りしていました?」
「白霖太医? 何度かお見かけしたわね。冗談がお上手で、雰囲気の良い方ね」
張明の表情がなごむ。
「流行り病で亡くなるなんて、本当に残念だわ」
「ええ……本当に」
杏の頭の中に浮かんでいるのは、棺に納まった養父の姿だ。
病がうつるから開けるな、と言われた棺を、杏は律に内緒でのぞき見た。
そして、知った。
養父の死因が病でなく、毒だということを。
「半信半疑だったけれど。お願い通り皇子が生まれたからには、龍玄宗に寄進しようかしら」
張明はお守りをみつめ、大事にしまいこんだ。
去って行く姿を、杏は黙って見送る。
空は暗い。建ちならぶ宮殿の屋根にのしかかるように、雪雲が低く垂れこめている。
「父上……あなたはまさか、龍玄宗の“天罰”に遭われたのですか?」
白い息を吐きながら、杏は後宮の中心――陰后の宮殿のある方角を向いた。