四章 醜い人④
「――あの……」
「はい?」
錦才人はもじもじと、手巾をいじった。真っ赤な顔で、お腹を押さえる。
杏はいいたいことを察した。
「そういえば、もうお昼ですね! 何か買ってきます」
「あ……じ、自分で、買ってみたい、です」
店をはなれた錦才人は、杏花糕を二つ持って帰ってきた。
「ひ、一つといったのに、二つでした。……一組なのですか?」
本気らしい様子に、高鉄雄が吹き出す。
「あなたが美人だからよ。おまけされたの!」
才人は少女のようにほおを赤くして、杏花糕を口にした。
小腹も満たされたところで、店前へ戻る。
杏と高鉄雄の表情が曇った――青澄が店前に陣取っていた。
「いやあ、お見事ですね!」
青澄は錦才人に向かって、大仰に拍手を送った。
「近くでずっとお話を聞いていましたが、あなたの化粧の知識の深さには驚かされました。これだけ客が集まるのも納得です」
彼は――それが魅力的だと信じているのだろう――相手を下からのぞきこむようにして笑った。
「あなたは、こんなちっぽけな店に納まる方じゃありません。
うちへ来て、ぜひ化粧の実演をしていただけませんか?」
できるだけ近づいて、優しい声でささやく。
「もちろん、見返りはたっぷりと」
なれなれしい態度に、錦才人はとまどっていた。杏たちのそばへ寄る。
「……どなた?」
「青澄さんです。鳳凰白粉を売っているところの、店主さん」
白粉の名を聞いた瞬間、錦才人の顔つきが変わった。
当惑が、はっきりとした嫌悪に変わる。
「鳳凰白粉って、あの。使えない白粉」
痛烈な一言に、青澄の表情が凍った。
「あ……ごめんなさい……。使えない、は言いすぎですよね……。化蝶白粉ほどには使えますものね……」
補足は補足になっていなかった。すでに錦才人を信頼していた女官たちは、青澄に冷たい視線を向けた。
青澄の顔に朱が差す。
「ずいぶんご自分の審美眼に自信があるようで」
美しく作られた顔に、青澄は冷笑を浴びせた。
「ま、そこまで化粧をしないと人前に出られない顔では、当然ですよね」
錦才人の顔から、みるみる血の気が引いた。
杏がいい返そうとしたそのとき――パン! と、小気味よい音が響いた。
「一番醜いのは、あなたよ! 今すぐ消えて!」
高鉄雄だった。昨日の大人しさはどこへやら、全身に怒気をみなぎらせている。
「なんだと、この――!」
青澄が怒鳴りかけた、次の瞬間。
そばにいた女官が彼を突き飛ばした。
よろめいたところを、別の女性がさらに押す。
「二度と、あなたのお店では買わないわ」
「最低! 女の敵よ!」
女性たちは青澄を次々と突き飛ばし、ついには物まで投げはじめた。
「みなさん、落ちついて――」
杏が止めに入ろうとすると、騒ぎの一角がふっと静まった。
「春嬪様だわ……」
頭を抱えていた青澄は、顔を上げた。
待っているのももどかしく、人垣を押しのけて大事な顧客に会いに行く。
袍は汚れ、髪はほつれていたが、それでも必死に笑顔を作った。
「春嬪様! 今日はまた、クチナシの花のようにお美しいですね!」
熱烈なあいさつを受けても、春嬪は何も返さなかった。
まるで見えていないかのように、無表情で青澄を素通りする。
八彩白粉の店前に立つと、錦才人におっとりと微笑みかけた。
「すてきなお顔ね。私もあなたみたいに、なれる……?」
錦才人は、涙ぐんだ目で大きくうなずいた。
「はいっ!」
******
医房で、杏は鼻歌まじりに紙を折っていた。
付近の院が留守にしているせいか、今日はひときわ静かだ。遠くから、市の喧騒がかすかに聞こえる。
律が不思議そうにやってきた。
「杏、今日は市を手伝わなくていいのか?」
「ええ。八彩白粉、市での取り扱いを禁止されてしまいましたから」
杏は、折り上げた八角形をわきへ置き、新たな紙を取った。
律が目を見張る。
「あれだけ売れていたのに? 先日は二重三重の行列だったろう」
八彩白粉の購入者には、錦才人が化粧の相談に乗るという催しを開いたところ、評判がまたたく間に広まり、大盛況となったのだ。
「売れすぎたから、ですよ。
最初、内侍省は、高鉄雄さん以外の店にも売らせようとしました。
ですが、八彩白粉を作る職人さんがそれを断りました」
職人は後宮へ売りこみに行った際、仇信内侍監に冷たくあしらわれたことを恨んでいた。高鉄雄以外には品を預けない、と突っぱねたのだ。
「それが内侍監の逆鱗に触れて、委託許可の取り消しというわけか」
「化蝶白粉や珠姫白粉を納めている、宮外の委託店からの賄賂もあったようです」
律は顔をしかめた。
「バカげている。鉛の害の話は、もう後宮中に知れ渡っている。それなのにまだ、それだけを売るとは……」
「でしょう? さ、白律御監。出番です」
杏は紙を折る手を止めず、ニンマリと笑う。
「これを機に、内侍省の独占市場をくずしましょう。
今なら後宮中の女性が味方です。
市を、尚宮局との共同運営に変える絶好の機会です!」
「……おまえ、ひょっとして、そこまで読んでたのか?」
杏は肩をすくめた。
「まさか。そこは成り行きですよ。
私はただ、名前を売れるだけ売ったら、さっさと市から撤退するつりでいただけです」
市で売る限り、売上の一部は内侍省に吸い上げられる。
努力すればするほど、敵の懐がうるおうのだ。こんなバカらしい話はない。
「今の状況はむしろ思惑通り。市から締め出してくれて、こっちは万々歳です」
幸いなことに、高鉄雄も杏と考えを同じにしてくれた。
律を熱く支持する気持ちから、仇信ににらまれることを恐れないでくれたのだ。
「ちなみに、八彩白粉自体は後宮で出回ってます。
高鉄雄さんが錦才人を通じて仕入れ、こっそり売っているので」
妃嬪なら親類を頼って、宮外から物を取り寄せられる。それを利用したのだ。
紅梅、空色、若草、藤、浅黄――売れたことで包みの色は種類が増えた。
杏は、机を埋め尽くす八角形の紙包みに満足げにする。これらはすべて、これから女官たちの手元に渡る。
「八彩白粉、外の市でも見かけるようになったとか。広まってよかったです」
「白杏ちゃーん、白粉百個できたー?」
どたどたと、小太りの体を揺らしながら、高鉄雄が診察室に駆けこんできた。
長身の美男子の姿に飛び上がる。
「きゃああああっ、うそっ、白律様!」
高鉄雄は鼻血を吹いて気絶した。
「わーん、叔父上のバカー」
出迎えようと立ち上がった杏も、その場に倒れた。
「……」
何もしていないのに、なぜ責められるのか。
律は納得いかない気持ちになったが、二人を邪魔にならない場所へ運んだ。
机の上の白粉を片付け、手土産に持ってきた枇杷のカゴをおく。
「さて。せっかくお膳立てをしてもらったんだ。さっそく一仕事しにいくとしよう」
表に休診の札をかけ、律は自分の仕事に戻っていった。




