四章 醜い人③
次の市で、杏は店構えにも手を加えた。
遠くからでも目につきやすいよう、商品を高さのある棚にならべる。上には、『八彩白粉』と書かれた額を掲げた。
試供品をのせた盆は店先へ。露台に野花を飾り、安心安全という売りに見合った華やかさを演出する。
「ついでにこれも!」
杏は、台の脚と脚の間――天板の下、客の目線に入りやすい位置に絵看板を差しこんだ。白粉をぬる女性の姿が描かれている。
「文字が読めない方も多いですからね。これで一目瞭然!」
「専用の容器も、間に合って良かったわ!」
仕上げに、高鉄雄が八角形の木箱を積んだ。
彼の手で、表面には彩紙が貼られ、フタには房飾りがつけられている。安価だが、他の容器に見劣りしない仕上がりだ。
「前回より、一人でいい。お客さん増えてくれるといいけど」
「きっと大丈夫ですよ。ともかく笑顔で立ってましょう」
高鉄雄の心配は杞憂で、上々の出だしだった。
韻夫人や李妃が、ふたたび足を運んでくれたのだ。二人に仕える女官たちも、白粉を買い求めに来てくれた。
その後も、ぽつりぽつりと客が足を止めてくれる。
「白杏ちゃんの工夫のおかげね!」
「容器の評判もいいですね!」
むりに作らなくとも、二人は笑顔でいられた。
「あ……の……」
声をかけられ、二人はぎょっとする。
もう薄着をする時季だというのに、声の主は頭から薄衣をかぶっていた。
「……ごめんなさい。顔をさらす勇気までは持てなくて……」
衣の端がわずかに持ち上げられる。
現れた美女に、高鉄雄と杏は目を輝かせた。
「錦才人! 来てくださったのですね」
「どうぞそのままで。ありがとうございます」
錦才人はそろそろと店の内側へ入ってきた。市をあちこち見回す。
「ひょっとして、市自体、初めてですか?」
「は、はい……楽しそうだなとは、思っていたんですけど……」
「今日は軽業師が芸を披露するそうですよ」
「あ、あの杏花糕! おいしいんですよ。形も可愛くて、オススメです!」
二人があれやこれやと市の魅力を教える。
好奇心を抑えきれなくなったらしい。錦才人はまた少し衣を上げた。
が、すぐに下ろす。気の強い顔をした女官がやってきた。
「こんにちは、張明さん。最近、頭痛は減ったみたいですね」
「おかげさまで。――白粉だけど、十個お願いできる?」
「十個も?」
思わず聞き返したが、張明はこともなげにうなずいた。
「金妃様のお達しなのよ。側仕えの女官も全員これに変えるようにって」
「それはやはり、御子たちの身を案じて?」
「ええ。あなたの『李妃様は乳母に化粧をさせなかった』って話。あれが響いたみたい」
「同じ母親の話は、説得力が違いますね」
杏は棚から、包みを十個取った。強風で額がかたむき、頭に当たる。
「今日は風が強いですね」
「そちらも……店員さん?」
商品を受け取りながら、張明は錦才人に目をやった。
風のせいで衣がめくれ、顔が見えてしまっていた。
「……きれいね」
杏と高鉄雄は身を固くした。
錦才人が取り乱すかもしれないと覚悟を決めたが、褒め言葉には意外な言葉がつづいた。
「眉。描くの、お上手ね」
「……え……?」
錦才人は、衣に伸ばしていた手を止めた。
杏たちまでポカンとしているのを見て、張明があわてる。
「ごめんなさいね、突然! 私、眉を描くのがすごく苦手だから、つい」
張明は恥ずかしそうに明かし、露台に白粉の代金を置いた。
「張明さん……自分の眉、気に入ってないんですか?」
「気に入っているわけないじゃない、この直線眉!
ただへさえも怖がられているのに、よけいに怖い印象になるでしょ!」
怒鳴るのが一番怖い、と杏は思ったが、黙っていた。
「こういう、丸みのある眉になりたいんですか?」
「何度やってもうまくいかないのよねえ。左右対称にならないし。線はガタガタになるし」
張明は物欲しそうに理想の眉を見つめる。
「よかったら、どうやって眉を描いているか、話してみてもらえませんか?」
視線を怖がっている錦才人に、杏は優しく声をかけた。
「彼女、知りたがっているので」
錦才人はようやく、まともに張明と顔を合わせた。
ためらい、ためらい、つややかな紅唇を開く。
「て……点を打つと、いい……です」
「点?」
ずいと、張明が身を乗り出した。
衣を握りしめながら、錦才人はしどろもどろに続ける。
「さ、最初に……眉頭、中間、眉尻と、点を打つんです……。それを目印にして……ひじを固定して、一気に描くと……うまくいきます」
「なるほど……点ね。腕を固定して、一気に」
張明は何度もうなずき、錦才人の肩をつかんだ。
「お願い、それ、実演してみせて!」
「えっ……!? わ、私のやり方なんて……参考になんか……」
「少なくとも、私よりマシよ! 待ってて。眉墨と筆を取ってくるわ!」
張明は走り去って、すぐ道具を持って戻ってきた。
「それで、点はどのくらい打つといいの?」
「えっ、えっと……」
気迫に気圧され、錦才人はていねいに指導をはじめた。
衣が少し、邪魔そうだった。杏はそうっと脱がせる。
取り戻されることはなかった。高鉄雄と、目で笑いあう。
「すごい……初めて描けたわ、満足のいく眉!」
鏡をのぞきこみ、張明が興奮した声を上げる。筆を持つ手が震えていた。
「あなた、すごいわね!」
「す……すごい……? 私、が……?」
「ありがとう! 助かったわ!」
張明が去っていっても、錦才人は目をパチクリさせていた。
しばらくして、自分が何も被っていないことに気づく。
「こ、衣っ……!」
「あのう!」
若い女官が、衣で身を隠そうとする才人を呼び止めた。
さっき、眉の描き方をじっと見ていた客だ。自分の唇を指差す。
「店員さんの唇。どうしてそんなにふっくらして、艶があるんですか? やっぱり普段のお手入れ?」
錦才人は面食らったものの、また、たどたどしく言葉をつむぐ。
「く……唇に、ハチミツをぬって。油紙をかぶせおくと、うるおいます。
仕上げにほんの少し、透明な油を。それで、艶が」
「直前でも、何とかなるんですね」
若い女官は明るく言い、ふと苦笑した。
「でも私、唇が大きいから。あんまり目立たせると、唇お化けですね」
「そんなことないです!」
杏たちが驚くほど大きな声が、錦才人の口から飛び出した。
「わ、私は……見ての通り、口が小さくて醜いので……。
唇から少しはみ出るくらい紅をぬって、大きく見せているんです……。色も明るいものを選んで……。
なので、あなたの場合は……反対のことをすれば……」
「そっか! 何も、唇の輪郭通りにぬらなくてもいいんですよね」
若い女官は手を叩いた。懐から、買ったばかりの口紅を取り出す。
「私も、実演してもらってもいいですか?」
錦才人は目をまん丸にした。
不安げに手を握り合わせたものの、期待に輝く両眼を前に、うなずく。
「……わ、私で、よければ」
請け負った途端、他の客も身を乗り出してきた。
「私も! 眉描くの苦手で!」
「目の下のクマって、何とかなりますか?」
「え……ええっと……!」
錦才人は、三方から迫られてうろたえる。杏は手を叩いた。
「はいはい、みなさん! 順番ですよー。一列に並んで下さーい!」
「椅子、持ってきますね!」
「えええ!?」
杏と高鉄雄は、手分けして場を整える。
錦才人はオロオロとしていたものの、嫌とは言わなかった。
いざ客と向き合うと、次々と客の悩みを解決しはじめた。
「すごい……お勧めの化粧品から、顔立ちに合った化粧まで提案してる」
おそらく、これまでにあらゆる美人の顔をまねてきたのだろう。
相手の顔の特徴を一目で把握し、その魅力が活きる化粧を教えている。
杏と高鉄雄は感心しきりで、うなるしかない。
「……これ、次回から白粉買ってもらった人限定にしましょうよ」
「あたしもそう思っていたところ」
杏がこそっと耳打ちすると、高鉄雄は片目をつむった。
錦才人のお化粧相談には、助言を求める人だけでなく、ただ話を聞くだけの女性まで集まっていた。
机一つの小さな店に、今や人だかりができている。
「お疲れさまです、錦才人。いったん休みましょう」
頃合いを見て、杏はいったん錦才人を店から退かせた。
市で売っていた冷たい金橘水を渡す。
「あ……ありがとうございます……」
よほど喉が渇いていたらしい、錦才人は一息に果実水を飲み干した。
汗は輝き、目は精彩にあふれているが、杏はあえて消極的な提案をした。
「今日は、このくらいにしておきましょうか?」
「いえ、大丈夫です! まだ、やれます」
錦才人は背筋を伸ばした。待ってくれているお客たちを、誇らしげにする。
「……私、父から『女は美しくなければ価値がない』といわれ続けてきたんです」
低く静かに、錦才人は昔を語りはじめた。
「母からも『顔が平坦』とか『目が小さい』とか、そんなことばかりいわれて」
大粒の涙が、錦才人の目からこぼれ落ちる。
「醜かったら価値がないなんて、嘘ですね。美人でないから役に立てることも、あるんですね……」
差し出された手巾に、錦才人は顔をうずめた。
杏も高鉄雄も、優しくその背をさする。
彼女はようやく、一番欲しかったものを手に入れたのだ。




