四章 醜い人②
錦才人はゆっくりと顔を上げた。
顔は、白紙に無造作に顔料を塗りたくったようになっている。
「私たちは、多くの女性に安全な八彩白粉を使って頂きたいと思っております。
ですが、白粉というのは安全なだけではいけません。化粧品ですから、それを使って美しくなれることが大事です」
脂粉の香で満ちた部屋の中、錦才人はうなずいた。
「そこで、あなたです」
「私……?」
「八彩白粉を使い、私たちの店のとなりに立っていただけませんか?」
杏の頼みに、錦才人は可哀想なくらいうろたえた。
「ど、どうして私を? 私なんかが立っていたら、売れないわ!」
「美人でないから、ですか?」
「そうよ……これを使っても、美しくなれないと思われるだけよ……」
「店のそばに立つのは、完璧な美人でなくていいんですよ」
声を柔らかにして、杏は語りかけた。
「不完全でいい。美しくなろうと努力する姿を、みんなに見せて欲しいんです」
「……え?」
しおれる花のように下へ下へと下がっていた錦才人の首が、持ち上がった。
「化粧は、美しくなるためのもの。
最初から美しい人が使って、意味があるでしょうか?」
周囲の黒ずんだ目が、ぱちぱちと瞬く。
「美人がお化粧をして、より美人になる――当たり前のことですよね?」
化粧で汚れた顔で、コクコクとうなずく。
「では、どこにでもいるような普通の女性が、化粧でだれもがふり向く美女になったら――?」
その様を想像したのだろう、錦才人は目を見開いた。
「感動しますよね。自分もあんなふうに変われるかもしれない――そう、期待しませんか?」
反応は、確認するまでもない。
「私は、あなたは人に勇気を与えることができる存在だと思っています」
「私なんか……が? 人に……?」
杏は懐からもう一つ、八彩白粉を取り出した。
「どうか協力してください。お願いします」
紅や白粉で汚れた手が八角形の包みに伸びる。
しかし、手は触れる直前に引っ込められた。
「だ……だめ……そんなの……怖い」
錦才人は、両腕で自分の体を抱いた。
「醜い私を、みんな笑うわ」
何度も頭をふる。
杏が次の言葉を探していると、高鉄雄が声を上げた。
「あたしからもお願い申し上げます! 錦才人!」
あまりに大きな声に、錦才人は思わずそちらへ顔を向けた。
「あの……あなたは?」
「申し遅れました。あたしは高鉄雄。市でその白粉を売っている者です」
才人の眉が上がる。意外そうに。
「おかしいですよね。あたしみたいなのが白粉なんて売ってるなんて」
高鉄雄は苦笑した。
「いえ……そんな……」
「いいんです。自分でも分かってます。こんな冴えない宦官が、白粉を売るなんて、どうかしてるって」
取りつくろう言葉をさえぎって、高鉄雄は自ら言い切った。
「お客さんに笑われたこともあります。今日は他の店主にまで、あざ笑われました」
情けない笑みを浮かべたあと、毅然と胸を張る。
「でも、今日、初めてやっていて良かった思いました。
白杏ちゃんが、あたしのことを認めてくれたから」
高鉄雄と杏は、親しみのこもった視線を交わした。
「人に笑われるのは、辛いです。
でも、がんばりを見てくれる人は、必ずいます。
だから、勇気を出して、一歩踏み出してもらえませんか?」
一生懸命に絞り出される言葉の数々に、錦才人の腕から力が抜けていく。
高鉄雄は地面にひざをつき、叩頭した。
「錦才人。どうか……どうか! 力を貸してください」
錦才人はゆっくりと、白粉を手に取った。
しかし、それだけだ。明確な答えはない。顔には迷いが浮かんでいた。
無理強いはできない。二人は席を立った。
「次の市で、お待ちしています」
今一度頭を下げ、杏たちは院を後にした。
外は夕陽で茜色に染まっていた。
とぼとぼと石畳を歩いていると、高鉄雄がぽつりとつぶやいた。
「すごいわね、白杏ちゃん。錦才人の心を動かしちゃった」
「え? 全然ですよ?」
自分の影を見ていた杏は、顔を上げた。
「市に来て下さるかどうかは、まだ分かりませんし」
「あたしね、見たの。白杏ちゃんが『あなたは人に勇気を与えられる存在です』って言ったとき――錦才人のおめめに光が宿ったのを」
高鉄雄は、赤と紫の混じる空を見上げた。
「彼女が欲しかったのは、褒め言葉じゃなかったのね。
ありのままの自分を認めてくれる言葉だったのね」
遠い宵の明星に、目を細める。
「たぶん、彼女自身も分かってない。
自分に必要なのは、完璧な美しさなんかじゃないってこと」
杏は自分の足先を見つめた。
「人の心は不思議なものですね。一番欲しいものが、自分では見えないのですから」
高鉄雄がくるりと身をひるがえした。
「白杏ちゃんは、やっぱりちゃんとお医者さんね!
青澄ちゃんは白杏ちゃんをヤブだとかいっていたけど、絶対ちがうわ」
「いやいや。ちょっとの血で卒倒する迷医ですよ」
「それでもいいの。だって、心のお医者さんだから」
杏は少し目を見張った。
「そんな医者、ありませんけどね」
否定するものの、認められるのは嬉しい。照れた表情になる。
「……ありがとうございます」
「錦才人が来ても来なくても。次の市も、がんばりましょ!」
「ええ!」
二人は意気揚々とこぶしを突き上げた。




