序章 後宮の迷医②
なりふり構っていられない。杏はひざまずいて、必死に訴えた。
「白律御監、どうか汚名返上の機会を!」
「名誉は返上か。言葉まで迷走してるな。あきらめろ」
「いやーっ! 何も始まらないうちから終わるーっ!」
杏が門にしがみついて騒いでいると、赤い襦裙を着た女児が現れた。歩くたび、髪飾りの鈴がかわらしい音を立てる。
先日、金妃の宮殿で見た顔だ。
「金鈴公主、どうなさいました?」
「……おなかが痛くて」
「それはいけませんね。さあさあ、どうぞ中へ」
杏は意気揚々と、患者を診察室へ案内した。
炭火盆に手の甲をかざしていた張明が、驚いた顔をする。
「どうなさいました、公主様。こんなところへ、一人で」
「腹痛だそうです」
「また?」
公主が診察用の寝椅子に座ろうとすると、張明が止めた。
「公主様、この医者はダメです。頼りになりません。いつもの侍医を呼びます」
「イヤ。あの先生に見てもらっても、全然良くならないもの」
「なら、別の方をお呼びしますから。戻りましょう」
「……イヤ!」
金鈴公主は、荒っぽく張明の手を振り払った。
杏はまあまあ、と二人の間に割って入る。
「公主様は、ずっと腹痛を訴えておられるのですね?」
「そうよ、半年ほど前から何度も。でも、原因はよく分からなくて」
「侍医の診立ては?」
「体質ではないかって。冷えや食事には気をつけているのだけど……」
「……ふむ?」
杏は手を清め、公主の前に座った。視診し、問診し、腹部の触診を行う。
これといった異常は見当たらない。
「でも、痛いんですよね」
杏は人差し指で、宙にくるくると小さく円を描く。考えるときのクセだ。
「ヤブ医者に分かるわけないでしょ」
張明は冷たく吐き捨て、公主をうながした。
「戻りましょう、公主様。一人で出歩かれては、金妃様もご心配なされますわ」
「お母さまは、わたしの心配なんてしないわ!」
またも、公主は張明の手を払った。
公主の目に涙がにじむのを見て、杏はぴたりと指を止める。
「……なるほど。腹痛の原因が分かりましたよ」
杏はふところに手を入れた。
「今、公主様に必要なお薬は、これです!」
出てきたのは、真珠大の黒い粒だ。
鬱々としている公主の表情が、さらに暗くなる。
「大丈夫ですよ、公主様。これは苦くありませんから」
公主は恐る恐る口に含み、ぱっと顔を明るくした。
「飴だぁ……!」
「ふふ、黒糖の飴ですよ」
「飴がおくすりなの?」
「私の中では立派に薬です」
公主は上機嫌で飴玉を転がすが、張明は目を吊り上げた。
「腹痛の人間に食べ物なんて!」
「今日も冷えますねえ。温かい飲み物を用意して来ますね」
杏は炭火盆の上の湯壺を取った。奥へ向かいながら、公主に言い残す。
「お待ちの間、良かったら中庭を散歩していてください。そこのおじさんが肩車してくれますよ」
「おい、勝手に――」
「本当!?」
目を輝かせて見上げられれば断れない。観念して、律はしゃがんだ。
膳房に引っ込んだ杏を、張明が追う。
「飴に散歩に、どういうつもりよ! 原因が分からないから、公主様のご機嫌を取ってごまかしているんでしょう!」
「いえ、ちゃんと治療ですよ。公主様の腹痛はね、おそらく弟君ができたことが原因です」
張明は目をしばたかせた。
「一人でここへいらしたのは、宮殿にいるのが辛かったからではないでしょうか。みなさん、待望の皇子に夢中ですよね」
それを裏付けるように、張明が連れ帰ろうとするたび、公主は嫌がっている。
「どうでしょう、張明さん。二人目の御子ができたことで、公主様に向ける注意が減ったのでは?」
「それは……そうよ。御子が増えた分、目をかける時間は減るわ」
「大人なら事情を理解しますけど、子供にはそんなこと分かりません。自分はいらない子なのではないか――そういう風に思います」
「そんなことは……!」
「さっき、公主様は叫んだでしょう。『お母さまは、わたしの心配なんかしないわ!』って」
杏は茶壺に茶葉を放り込んだ。勢いよく湯を注ぐ。
「つまりね、心配して欲しいんですよ。かまって欲しいんです。
人の心は不思議なもので。声に出せない想いを、代わりに体が訴えることがある。たとえば、腹痛という形で」
張明は肩の力を抜いた。
「つまり、どこも悪くなかった、と……」
「いいえ、悪かったですよ。傷や病は肉体だけにあらず。私は、心の傷も立派にケガだと思っています。
どこも悪くない、なんて軽く扱わないでください」
杏はぴしゃりと言い切った。医師として対処法を伝える。
「公主様の特効薬は、充分な愛情です。どうか公主様をいたわって下さるよう、金妃様にもお伝えください」
中庭では、公主が律の肩車にはしゃいでいた。
その様子を見守っていた張明が、不意にふらついた。壁にもたれる。
「張明さん、よくふらつきますか?」
「え? ええ……今みたいに、だれかに怒った後はね」
張明がこめかみを押さえると、杏はすかさず指摘した。
「それ、怒鳴っていた時もしていましたね。頭痛持ちなんですね」
杏は、怒りが収まっても紅い肌を注視する。
「張明さんは、血の巡りが良すぎる方なんですね。興奮すると頭に血がのぼって、それで頭痛が起きる」
杏は張明用の茶杯に、陳皮を入れた。頭痛を和らげる生薬だ。ふんわりと、さわやかな柑橘の香りが広がった。
「私が言えたことではありませんが、どうか怒るのは控えめに。
ついでに、塩辛い物も控えめに」
「塩辛い物……?」
「お好きでしょう? 雪国の方はしょっぱいものを好まれますけど、体に障りますよ」
張明はたじろいだ。
「どうして、雪国だって」
「え? さっき、火に当たるとき、手の甲を向けていましたよね。あれは、雪国の方が凍傷を避けるためにする癖です」
「よく見ているわね」
「かすかななまりから判断して、ご出身は北州の斗寒でしょうか」
図星のようで、張明はただ驚いていた。
「……あなた、鋭いのね」
「はは、唯一の特技みたいなものなので」
四人分の普洱茶を盆にのせ、杏は診察室へ戻った。
叔父の肩から、興奮でほおの赤い公主を下ろす。
「ねえ、公主様。聞いてください、私はさっき大変でしたよ」
「どうして?」
「張明さんに『公主様は大丈夫なのか!』って詰め寄られました。怖い顔で」
杏は公主をそっと抱きしめた。背中をぽんぽんと叩く。
「大丈夫ですよ、公主様。みんな、あなたのことも大事に思っていますからね」
張明が手を差し伸べると、今度は公主も素直に応じた。
そのひざにちょこんと座り、お茶を飲む。茶菓子のごま団子もぺろりと平らげた。
腹痛のことなど、すっかり忘れてしまったようだ。
「……白杏医官、前言を撤回するわ」
公主の口元をぬぐいながら、張明はぽつりといった。
「迷医は言いすぎだったわ。出血が無ければ、ちゃんと使える医官なのね」