三章 商う人③
「お見苦しいところをお見せしてごめんなさい。
憧れのお方が目の前に現れたものだから、興奮してしまって」
高鉄雄は、花の刺繍の入った手巾で鼻の下をぬぐった。
杏は店の内側で肩をすぼめる。
「私も医官のくせに鼻血一つ止められず、申し訳ないです」
ちなみに律はもういない。彼は二人にとって、違う意味で危険な存在だった。
「意外でした。宦官はみんな、白律御監を目の敵にしていると思っていましたが、高鉄雄さんは違うんですね」
「仇信様は蛇蝎のごとく嫌っておられますけど、憎むのは違うと思います。
あのお方は職務を全うなさっているだけですわ」
腰帯に龍玄宗のお守りがぶら下がっているが、高鉄雄はきっぱりといった。
「それに――以前、あたしが階段を踏み外しかけたたとき。
白律御監、わざわざ支えて下さったんです」
高鉄雄は杏に向かって、ずいと身を乗り出す。
「宦官を、ですよ? 普通、そんなのただ見ているだけですよ!?」
宦官は、もともと後宮で最も低く見られる存在だ。
権力を持てる者はごく一部、大半は使い捨ての駒。
階段から転げ落ちても、気にもされないのが当たり前だ。
「厳しい顔で『気をつけろ』と注意されました。
でも、その冷たいお声が、あたしにはすごく温かく聞こえて……」
まぶたを閉じ、高鉄雄はうっとりと思い出に浸る。
「それ以来、もう! ずっとお慕いしています!
後宮に仕える身ですけれど、心は白律御監に捧げてます!」
高鉄雄は手巾に顔をうずめ、足をじたばたさせる。
はしゃぐ様子は、まるで若い娘のようだ。
「高鉄雄さんは心が女性なんですね」
杏はふふっと微笑んだ。
はにかんだ笑顔が返って来る。
「そうかもしれません。……あたし、物心がついた頃から、なぜ自分が男なのか不思議に思っていたんですよね」
太い指がもじもじと手巾をこねくりまわす。
「宦官になると、みんな自分の身の上を嘆くものですけど、あたしは全然で。
手術の後は、むしろ晴れ晴れしたくらい。本来の自分に戻れた気分でした」
高鉄雄は乾いた笑みを浮かべた。
「変でしょ? あたしって。こんなんだから、宦官の中でも浮いてるんですよ。
親が名の知れた武官なので、虐められることはないんですけどね」
通りがかった宦官が、高鉄雄に気づいて作揖の礼をとった。
高鉄雄も微笑み、同じように両手を重ねて応じる。
「そういえば以前、自宅の診療所に“男性の象徴がない病”を訴えるご婦人がいらっしゃいましてね」
杏は軽く目線を上げた。苦笑いする。
「治してくれと詰め寄られ、父と困り果てましたよ」
「まあ! その方と心と体を入れ替えたいわ」
ひとしきり雑談すると、杏は露台に向き直った。
ならべられている白粉を見下ろす。
「さて、これをどうやって売るか考えますか」
思案していると、視界を金茶色の髪がかすめた。
杏はすかさず声をかける。
「韻夫人! こんにちは。いいお天気ですね」
「あら、ヤブ医者じゃない」
韻夫人は気安い態度で足を止めた。
浅黒い肌の侍女、瑠那も一緒だ。
「どうしたの、店になんて立って。とうとう医官をクビになった?」
「いえいえ。女性の健康を守る活動をしているところですよ」
杏は夫人の、白く美しい肌に目を向けた。
「韻夫人のお肌、今日もお綺麗ですね。どちらの白粉をお使いですか?」
「もちろん、青澄のお店の鳳凰白粉よ。春嬪様のご愛用なのだから間違いないわ」
鳳凰白粉はこの市中でもっとも高価な白粉だ。妃嬪たちに圧倒的な人気を誇っている。
「良いものをお使いですね」
杏はうなずき、しかし、と切り出した。
「怖がらせるつもりはございませんが、韻夫人は白粉に毒が含まれていることをご存知ですか?」
“毒”という単語を聞いて、韻夫人の顔に緊張が走る。
前に毒を盛られたことがあるので、敏感になっているのだ。
「お使いの白粉には、鉛という毒が含まれております。使い続ければ、めまいや頭痛、しびれが起き――命に関わることすらあります」
「知らなかったわ、そんなこと! すぐに落とさなくちゃ!」
韻夫人は血相を変え、杏のところへ寄って来た。
「どの白粉なら安全なの?」
「こちらです」
杏は露台の白粉を勧める。
「こちらは鉛を一切使っておりません。安心してお使いいただけますよ」
韻夫人はすぐに露台の白粉を手に取った。
しかし、なかなか購入には至らない。白い紙包みを裏返し、表返し、何度もながめるばかりだ。
「……毒がないのはいいとして。これで今まで通りに綺麗になれるの?」
韻夫人は不安げに眉を寄せる。
「鳳凰白粉と比べても遜色ございませんよ。ぜひ一度、お試しください」
高鉄雄が刷毛をかまえたが、韻夫人は気の進まない様子だった。
注意が、通りを歩く妃嬪に逸れる。
その手には、極細の筆致で鳳凰が描かれた白粉の包みがあった。
「……やっぱり、いいわ。
あなたの話を信じないわけじゃないけど、みんな、まだ何ともなってないし」
白粉を露台へ戻すと、韻夫人は風のように去って行った。
杏と高鉄雄は、がっくりと肩を落とす。
「韻夫人ならと期待していたのですが」
「もう一押し、という雰囲気でしたよね」
「白粉が毒ということは、納得してくださったようでしたけど……」
杏は、ううん、とうなる。
「人の心は不思議なものですね。害があると知っていても、使い続けてしまう」
人差し指がくるくると、宙に小さく円を描く。
「私たちは一体、どういう心の動きで買うものを決めているのでしょう……」