表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/43

三章 商う人③

「お見苦しいところをお見せしてごめんなさい。

 憧れのお方が目の前に現れたものだから、興奮してしまって」


 高鉄雄は、花の刺繍の入った手巾で鼻の下をぬぐった。

 杏は店の内側で肩をすぼめる。


「私も医官のくせに鼻血一つ止められず、申し訳ないです」


 ちなみに律はもういない。彼は二人にとって、違う意味で危険な存在だった。


「意外でした。宦官はみんな、白律御監を目の敵にしていると思っていましたが、高鉄雄さんは違うんですね」


「仇信様は蛇蝎のごとく嫌っておられますけど、憎むのは違うと思います。

 あのお方は職務を全うなさっているだけですわ」


 腰帯に龍玄宗のお守りがぶら下がっているが、高鉄雄はきっぱりといった。


「それに――以前、あたしが階段を踏み外しかけたたとき。

 白律御監、わざわざ支えて下さったんです」


 高鉄雄は杏に向かって、ずいと身を乗り出す。


「宦官を、ですよ? 普通、そんなのただ見ているだけですよ!?」


 宦官は、もともと後宮で最も低く見られる存在だ。

 権力を持てる者はごく一部、大半は使い捨ての駒。

 階段から転げ落ちても、気にもされないのが当たり前だ。


「厳しい顔で『気をつけろ』と注意されました。

 でも、その冷たいお声が、あたしにはすごく温かく聞こえて……」


 まぶたを閉じ、高鉄雄はうっとりと思い出に浸る。


「それ以来、もう! ずっとお慕いしています!

 後宮に仕える身ですけれど、心は白律御監に捧げてます!」


 高鉄雄は手巾に顔をうずめ、足をじたばたさせる。

 はしゃぐ様子は、まるで若い娘のようだ。


「高鉄雄さんは心が女性なんですね」


 杏はふふっと微笑んだ。

 はにかんだ笑顔が返って来る。


「そうかもしれません。……あたし、物心がついた頃から、なぜ自分が男なのか不思議に思っていたんですよね」


 太い指がもじもじと手巾をこねくりまわす。


「宦官になると、みんな自分の身の上を嘆くものですけど、あたしは全然で。

 手術の後は、むしろ晴れ晴れしたくらい。本来の自分に戻れた気分でした」


 高鉄雄は乾いた笑みを浮かべた。


「変でしょ? あたしって。こんなんだから、宦官の中でも浮いてるんですよ。

 親が名の知れた武官なので、虐められることはないんですけどね」


 通りがかった宦官が、高鉄雄に気づいて作揖の礼をとった。

 高鉄雄も微笑み、同じように両手を重ねて応じる。


「そういえば以前、自宅の診療所に“男性の象徴がない病”を訴えるご婦人がいらっしゃいましてね」


 杏は軽く目線を上げた。苦笑いする。


「治してくれと詰め寄られ、父と困り果てましたよ」

「まあ! その方と心と体を入れ替えたいわ」


 ひとしきり雑談すると、杏は露台に向き直った。

 ならべられている白粉を見下ろす。


「さて、これをどうやって売るか考えますか」


 思案していると、視界を金茶色の髪がかすめた。

 杏はすかさず声をかける。


「韻夫人! こんにちは。いいお天気ですね」

「あら、ヤブ医者じゃない」


 韻夫人は気安い態度で足を止めた。

 浅黒い肌の侍女、瑠那も一緒だ。


「どうしたの、店になんて立って。とうとう医官をクビになった?」

「いえいえ。女性の健康を守る活動をしているところですよ」


 杏は夫人の、白く美しい肌に目を向けた。


「韻夫人のお肌、今日もお綺麗ですね。どちらの白粉をお使いですか?」

「もちろん、青澄のお店の鳳凰白粉よ。チュン嬪様のご愛用なのだから間違いないわ」


 鳳凰白粉はこの市中でもっとも高価な白粉だ。妃嬪たちに圧倒的な人気を誇っている。


「良いものをお使いですね」


 杏はうなずき、しかし、と切り出した。


「怖がらせるつもりはございませんが、韻夫人は白粉に毒が含まれていることをご存知ですか?」


 “毒”という単語を聞いて、韻夫人の顔に緊張が走る。

 前に毒を盛られたことがあるので、敏感になっているのだ。


「お使いの白粉には、鉛という毒が含まれております。使い続ければ、めまいや頭痛、しびれが起き――命に関わることすらあります」

「知らなかったわ、そんなこと! すぐに落とさなくちゃ!」


 韻夫人は血相を変え、杏のところへ寄って来た。


「どの白粉なら安全なの?」

「こちらです」


 杏は露台の白粉を勧める。


「こちらは鉛を一切使っておりません。安心してお使いいただけますよ」


 韻夫人はすぐに露台の白粉を手に取った。

 しかし、なかなか購入には至らない。白い紙包みを裏返し、表返し、何度もながめるばかりだ。


「……毒がないのはいいとして。これで今まで通りに綺麗になれるの?」


 韻夫人は不安げに眉を寄せる。


「鳳凰白粉と比べても遜色ございませんよ。ぜひ一度、お試しください」


 高鉄雄が刷毛をかまえたが、韻夫人は気の進まない様子だった。

 注意が、通りを歩く妃嬪に逸れる。

 その手には、極細の筆致で鳳凰が描かれた白粉の包みがあった。


「……やっぱり、いいわ。

 あなたの話を信じないわけじゃないけど、みんな、まだ何ともなってないし」


 白粉を露台へ戻すと、韻夫人は風のように去って行った。

 杏と高鉄雄は、がっくりと肩を落とす。


「韻夫人ならと期待していたのですが」

「もう一押し、という雰囲気でしたよね」

「白粉が毒ということは、納得してくださったようでしたけど……」


 杏は、ううん、とうなる。


「人の心は不思議なものですね。害があると知っていても、使い続けてしまう」


 人差し指がくるくると、宙に小さく円を描く。


「私たちは一体、どういう心の動きで買うものを決めているのでしょう……」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ