三章 商う人②
大きな香料店ときらびやかな装飾品店の間に、小さな店がひっそりと立っている。
机一つ分ほどの広さ。白布のかかった露台の前に、丸々とした店主がぽつんと立っていた。
「あの……さっき何と?」
杏が声をかけると、店主は飛び上がらんばかりに驚いた。
色白の顔に驚きが走り、つぶらな瞳が丸くなる。
「お、白粉でございますかっ!?」
甲高くすっとんきょうな声。
呼びこみ慣れしていない様子がありありと出ている。
「“安心・安全な白粉”って聞こえた気がしたんですが……この『新・清華白粉』って、鉛が入ってないんですか?」
杏が紙包みを示すと、店主はコクコクとうなずいた。
「はい、そうです。鉛を一切使っておりません。よくご存じですね!」
「医官なんですよ。……使い心地、試せるんでしょうか?」
露台に用意されている白粉刷毛を見ると、店主は嬉しそうにした。
「ぜひお試しください! 使い心地には、特にこだわっていますから」
杏は腕の内側に、白粉を塗ってもらった。
粉は細かく、伸びもよい。こすっても簡単には落ちない。
「いかがですか? 鉛入りのものに負けない思いますけれど」
「これはすごい。変わらないですね」
杏は感心したものの、念入りに質問する。
「辰砂も使っていませんよね?」
「もちろんです。それも白粉に使われますけれど、体に良くないんですよね」
「できれば材料を教えていただけると……」
「申し訳ありません。原料や製法は極秘なので、あたしも知らないんです」
でも、と店主は少し身を乗り出した。
「どうか、信じてください。この白粉を作った職人さんは、白粉の毒で大切な奥様とまだ小さかったお嬢様を亡くされたんです」
つぶらな黒い瞳は、まぶしいほど純真な光を宿していた。
「二度とだれも、自分と同じ悲しみを味わうことがないように――そう願い、寝食を惜しんで作ったのが、この白粉なんです」
「な、なんて良い話……!」
杏は涙ぐみ、手で口元を押さえた。
「ですよね。私も、その想いに心を打たれて。少しでも力になりたくて、ここで売ることにしたんです」
店主もそでで目元を押さえる。
「職人さん、作ったはいいけれど、売るのはお上手でなくて。
街で売ってみても、全然ダメで。ここへ売りこみにいらしたんですよ」
「後宮で流行れば、街でも自然と流行りますもんね。
……でも、売りこみ、よく成功しましたね」
接待と賄賂が必須の場所だ。街での販売より競争は厳しい。
店主が言いにくそうに、事情を明かしてくれる。
「あたしが委託料とか色々肩代わりして、販売に漕ぎつけたんです。
仇信様に泥水を浴びせられても叩頭しているのが、見ていられなくて……」
杏は驚いて、また口に手を当てた。
「い……いい人すぎますよ、店主さん」
「やだ、変わり者なだけですよ。まわりからも、よくそう言われるんです」
店主は恥ずかしそうに、小太りの体をくねらせた。
「ちなみに、売れ行きは?」
一気に空気が重苦しくなった。
「焼きたて焼餅、いかがですかー!」の呼び声がよく聞こえた。
「う、売れてない、ですか?」
「お恥ずかしながら、一つも」
話している間も、人々はこの店の前を素通りしていく。
長いこと陳列されているからだろう、白い紙包みは少しくたびれていた。
「いいお品なのに。どうして……?」
「実はこれ、数年前に、医官の方が後宮で宣伝したことがあったそうです。そのときは『清華白粉』という名で」
「ああ、今のは改良版なんですね。だから名前に“新”の文字が」
最初のものは粉が粗く、伸びも悪く、使い心地が今一つと受け入れられなかったらしい。
「ひょっとして、お客さんもその時の印象を引きずっていて……?」
「そうみたいです。お声がけしても、試す前から渋い顔をされるんですよね」
店主は重たいため息をついた。
「一つも売れないまま終わるなんて……なんだか職人さんにも申し訳ないわ」
「え――お、終わりって?」
杏は思わず聞き返した。
「まさか今日で終わりなんですか? このお店」
「売上が悪いお店は、すぐ入れ替えになるんですよ」
店主は自嘲の笑いを浮かべた。
「市でお店を開きたい人は、たくさんいますしね」
にぎわう店をながめる横顔には、あきらめが浮かんでいる。
杏は少しの逡巡の後、店主の手をつかんだ。
驚いている相手を、まっすぐ真摯に見つめる。
「申し遅れました、私は西の医房の白杏と申します」
「え……あ、あたしは高鉄雄ですけれど……?」
「高鉄雄さん、ぜひ。私に白粉を売るお手伝いをさせてください」
突然のことに、高鉄雄はぽかんとしていた。
「実は私、女性に安全な白粉を使ってもらう活動に勤しんでいるところでして。
この白粉が売れることは、私にとっても望ましいことなんです」
「まあ……そういうことなんですか」
高鉄雄は大きくうなずいたが、引け腰だった。
「でも……もう、今日で終わりですから……」
「何をおっしゃるんです。今日はまだ始まったばかりですよ!」
杏はまだ高い陽を指した。
「こんないい品が売れないなんて、絶対おかしいです! 二人でがんばりましょう!」
「白杏さん……」
ぶわっと、高鉄雄の目に涙があふれた。
そででは足りず、今度は白い手巾で目元を拭う。
「嬉しい。同じように思って下さる方がいて、ほっとしました」
「とりあえず、私が一つ買いますから」
「え! ありがとう!」
銭と白粉を引き替えて、杏は高鉄雄ににんまり笑いかける。
「これで売上ゼロを脱出ですね。
今が最低なら、あとは上昇あるのみ。ドン底、ドンと来いです!」
「ふふ、白杏ちゃんって。おもしろい」
暗いばかりだった高鉄雄の顔に、光が差した。
二人が笑い合っているところに、律が不思議そうに寄ってくる。
「杏、焼餅を買いに行ったんじゃなかったのか?」
屋台のことをすっかり忘れていた。
杏は買ったばかりの白粉を見せびらかす。
「すみません、叔父上。理想の白粉に出会ったので、つい」
「ほお。良かったじゃないか」
「私、このお店のお手伝いをすることにしました。
この白粉が売れれば、みんなが自然に無害な白粉を使うようになります。
ご店主さんと一緒に、売って売って売りまくりますよ!」
「おいおい。やる気なのはいいが、店の迷惑にならないようにな」
律は軽く露台をのぞきこみ、店主に目を向けた。
パサ、と高鉄雄が手巾を落とす。
「ば――白律御監?」
杏ははっとした。宦官たちの天敵、後宮の監督官と距離を取る。
「安心して下さい、高鉄雄さん。私と叔父は、仕事上は無関係です!」
杏は警戒されているのかと思ったが、どうも様子が違った。
高鉄雄は包子のようにふっくらとした白いほおを、赤く染めていた。
瞳は星が散っているように輝いている。
恋する乙女、がぴったりの表情だ。
「夢みたい……」
高鉄雄はよろめき、バタッと仰向けに倒れた。
「大丈夫ですか!?」
店の内側に回った杏は、顔色を変えた。
「は、鼻血!」
極度の興奮のせいだろう、店主の鼻からは一筋の血が垂れていた。
「わーん、血は無理ぃ……」
情けない声を上げて、杏も倒れた。
「……」
律は呆然と、折り重なって倒れている高鉄雄と杏を見下ろす。
この二人で大丈夫なのか、と大いに不安になった。