三章 商う人①
先代の皇帝は「城にいながら外の空気を感じたい」と言った。
その気まぐれをきっかけに、後宮の中に市が立つようになった。
店を構えるのは宦官や女官。まねごとめいた催しではあるが、毎度にぎわっている。
生涯外に出られない者たちにとって、市の喧騒はよい気晴らしだ。
人々は屋台から漂うにおいに頬をゆるめ、立ちならぶ店をあちこちのぞきこむ。
杏も熱心に小間物屋を見ていた。
「珍しいな。おまえがこういう店に興味を持つなんて」
「おや、叔父上。今日は暖かくていい天気ですねえ」
律は、杏の手にある品に目を留めた。
愛らしい紙包みだ。地は桃から白へぼかされ、雲母を混ぜて刷られた花模様がきらきらと光っている。
中央には、流麗な筆致で『珠姫白粉』と記されていた。
「買うのか?」
「どうしようか迷っているところです」
律は目だけを動かした。
杏の顔は、右側がほとんど髪で隠されている。
「代金は持つ。迷っていないで買え」
「え? いいんですか?」
「他にいる物は?」
「叔父上……」
杏は優しく寛大な叔父を仰いだ。
「じゃあっ、そこの店の化蝶白粉と、あそこの鳳凰白粉もお願いします!」
「待て! どれだけ塗りたくる気だ」
律は姪の肩をつかんだ。
「白粉ばかり、そんなにいらないだろう。顔がお面になるぞ」
骨ばった指が、そっと杏の髪に触れる。あらわになった顔の右側には、青黒いアザが広がっていた。
しかし、それ以外は完璧だ。肌は白く透き通り、目鼻立ちは整っている。氷肌玉骨の美人といって差し支えない。
「今でも充分綺麗なのだから、そこまでしなくても」
杏はキョトンとした。「あっ」と叔父の勘違いに気づく。
「自分のために買うわけではないんですよ。ちょっと、事情があって」
杏は商品を台にもどした。女官で混みあう店から離れる。
「先日、他の医房の方から、白粉について相談を受けたんです」
「白粉の?」
杏は人差し指を立てた。
「今、よく使われている白粉には、白鉛が多く含まれているんです。
でも近年、鉛は体に毒だと分かりました」
「そういえば、霖兄も言っていたな。一時期、啓発活動をしていたような」
「ええ。――成功したのは、私だけでしたけど」
杏は素肌の頬をかいた。
「相談してきた医官さんも、父上と同じなんです。
患者さんから同じ質問をされて、詰まってしまうらしくて」
「……どの白粉を使えばいいか、か?」
「ご明察!」
男性として、律は苦笑した。
「男の医官には、荷が重い質問だな」
「で、女医官の私の出番という訳です」
杏は市を見渡し、頭に手をやった。
「まあー、しかし。困ってますよ。鉛を使っていない白粉なんて、どこにもなくて」
「白粉を使わない、という選択肢はないのか?」
軽い調子でいった律に、杏は半目になった。
「あー、叔父上ー、その発言は全女性を敵に回しますよ?
『女心を分かってない!』って怒られますよー?」
杏は相手を指さし、子供のようにはやしたてる。
「女性にとって美しさは命。白い肌は大事な売り物。故に白粉は必須。
この論は、礼楽の典籍と同じくらい頭に叩きこんでおいて下さいね」
「心に刻んだ」
倍以上の言葉を返されは、律はうなずくしかない。
愚考を改め、別の選択肢を挙げる。
「白鉛以外を使った白粉は、ないのか?」
「ありますけど、白鉛が一番使い勝手がいいんですよ」
「なら、せめて白鉛の量が少ないものを使ってもらうしかないんじゃないか?」
「その通り! でも、混ぜ物が多いと、使い心地に影響するんですよね」
「それで、比較のためにあれこれ白粉を欲しがったわけか」
杏はうなずき、律と距離を詰めた。
他には聞こえないよう、小声で尋ねる。
「でも、ここの市、お値段が高くないですか?
庶民向けの白粉ですら、ちょっとためらうくらいなんですけど」
「当然だ。ここにある商品は、宮外の店からの委託品だ。売価には店主の取り分が上乗せされている」
「やっぱり!」
杏は、楽しく穏やかに買い物をしている人々を見回した。
「みなさん、怒らないんですか?」
「市を通さず、物品の仕入れ係に頼んでも、同じだけ手間賃を取られる」
「う……それなら、市でいいですね。あれこれ比較できますし」
杏は今一度、外へも出入り自由な白律御監に頭を下げた。
「毎度、ありがとうございます、私の仕入れ係様。
手間賃なし。翌日配達可能。自分が恵まれていたことに今、気が付きました」
「それはいいが。おまえ、酒以外に頼むものはないのか?」
呆れたように言われ、杏はよく考えた。
衣食住や仕事に必要なものは後宮から支給されている。頼むものといったら個人の嗜好品だ。
「……そうだ、おつまみ!」
「今度から手間賃を取ることにする」
「なんで!?」
杏は去って行く叔父のそでをつかんだ。
「待ってください! まだマジメなお願いが」
「なんだ」
「無害な白粉を、街で探して買って来てもらえませんか?」
律は眉をひそめた。
「探して来て、どうする?」
「どうするって。市にないなら、私が売ればいいかなって」
安直な思いつきに、律は即座に釘を刺す。
「この市は内侍省の管轄だ。勝手に店は出せん」
「えっ! そうだったんですか」
杏は少し頭をひねった。
「なら、市場に頼みこんで置いてもらうえば」
「どこの宮外の店も、内侍省への売りこみは必死だぞ。
後宮で流行っているとなれば、箔がつくからな」
ぐぬぬ、と杏は奥歯を噛みしめる。
「じゃ、じゃあ、白粉に毒があるって訴えて」
「とっくに霖兄が文書を出している。結果は、見ての通りだ」
「えーん、無力……」
杏は肩を落とした。
しばらくしょぼくれていたが、フツフツと怒りが湧いてきた。こぶしを握る。
「というか、この市。内侍省が権限を持ち過ぎじゃありませんか? 独占市場じゃないですか!」
「宦官たちが甘い汁を吸うために定例化された市だからな」
「はあ!? だれですか、そんなことしたの!」
「龍公主」
「キー! またその名前ー!」
杏は頭をかきむしった。
「宦官たちを手懐ける一策、というわけですか?
内侍省は商品を売りこみに来た店から、接待や賄賂を受け取れそうですもんね」
「市の店主たちも、売上の何割かを運営費として徴収されている」
杏は憮然とした。二度もおいしい仕組みだ。
「内侍監の仇信さんは、市のたびに小躍りしてそうですね」
「踊りながら銭勘定しているだろうな」
市は明るくにぎわっているが、律は冷めていた。
「監視の目が必要ですよ。
青澄さんという方が開いているお店の鳳凰白粉なんて、ぼったくりでしたよ! 上乗せしすぎですよ!」
「もちろん、一度は問題に上がった」
後宮の監督官はため息をついた。
「陛下は、市を尚宮局との共同運営にしようとなさった。
取り扱う品や値段を、両者の協議で決めさせようとした」
「でも、結局こうなっているということは――」
「その話が出た途端、内侍省が市を休止したんだ。
妃をはじめ、後宮中から不満続出。計画は立ち消えた」
律は腕を組み、指でトントンと叩く。
「何か、きっかけがあればな。内侍省に口出しできるような」
杏は悩む叔父に寄り添っていたが、鼻先をくすぐるにおいに気を取られた。
ふらふらと屋台に引き寄せられる。
「わ……あの焼餅、ゴマも入ってておいしそー」
「敵の懐を潤す気か」
「ち、違います! 味見です! 品質調査は必要だと思いません?」
はあ、と律はため息をついた。
懐に手を入れるのを見て、杏はあわてて手をふる。
「たまには私がごちそうしますよ。
そんな難しい顔してないで、叔父上もちょっとは市を楽しみましょうよ。
おいしいものに罪はありませんよ?」
杏は屋台へと駆けた。
まんじゅうや蜜水の売り歩きを避けていて、足を止める。
「――あ、安心・安全な白粉、ございます……!」
か細い声が、喧騒の中にかすかに紛れていた。