二章 盗む人⑥
一息ついて、杏は皇子に話をふる。
「どうでしょう、李星様。皇子になられて。
以前と違った生活にとまどわれてはいませんか?」
「そうじゃな……誇らしいことじゃが、たまに昔が懐かしくなる」
少年はのど元に指をやった。
「今の生活は何一つ不自由ないが、たまに息苦しい」
「そういうときは、どのように息抜きを?」
「何も。これも皇子のつとめと自らを奮い立たせておる」
杏はまたも唖然とした。李妃に強く訴える。
「李妃様、ぜひ! 皇子に息抜きの時間をお与え下さい。
李星様は突然、幼い身で多くを背負われました。
その上、朝から晩まで勉強勉強。
心を休めるヒマがなければ、だれでも不調をきたします。
――ね、叔父上」
後押しを頼むと、律はうやうやしく拱手した。
「李妃殿、『労苦すれば則ち憩い、憩えば則ち思い、思えば則ち得る』と申します。休むことも学びの一環かと」
「『文武之道、一張一弛』ーーそういうことざますね」
うなずき合う二人のそばで、杏も重々しくうなずいた。
会話が高尚でついていけないが、話が良い方向にまとまってきていることは察した。
「李星、夕餉の前の半刻、おまえの好きなことをするざます」
李妃は上品に宮扇をひるがえした。
「それも大事な勉強、ざます」
「――はいっ、母上!」
まだ薄い少年の肩から、わずかに力が抜けた。
表情がくつろいでいるのを見てとって、杏は床に片膝をつく。
「では、皇子。私の医房から持ち出した物を渡していただけますか?」
皇子はすぐに、懐から茶色い包みを出した。ふっと笑う。
「そちはうわさ通りの迷医だが。少しは役に立つようだ」
「もったいなきお言葉。恐悦至極に存じます」
一件落着。
杏は面前から退こうとしたが、無邪気な声に呼び止められた。
「ところで白杏、息抜きとはどうやるのじゃ?」
思わぬ質問に、杏はまぬけ面をさらした。
「どうって。自分の好きなことをなさればいいんですよ?」
「余は、勉強以外に何をしてよいか分からぬ」
冗談でいっている気配はみじんもない。
生真面目な皇子は“好き”ということ自体が分からないらしい。
杏は内心、頭を抱えた。
「……で、では、体を動かされてはいかがでしょう?
皇子は机に向かっていることが多いですから、よい気晴らしになるかと」
「乗馬や騎射はしておるぞ」
「鍛錬ではなくて、遊ぶのです。何かなさったことは?」
「……鬼ごっこはしたことがある」
「よい思いつきと存じます」
杏は一礼して下がったが、またも呼び止められた。
「白杏よ、どちらが鬼じゃ?」
「……わ、私がやるんですか?」
「そちは余の病を治しに来たのであろう? ちゃんと最後まで治療せい」
体力のない杏は、ほおが引きつった。
「ええと……今日はアレでナニで忙しいので。また今度」
「逃げるか白杏。では、余が鬼じゃな」
皇子は屈伸しはじめた。
「捕まったら、なぜ捕まったのか反省し復習じゃ!」
「そんなの遊びじゃないですーっ!」
情けない悲鳴を上げながら、杏は宮殿を飛び出した。
*****
一夜が明けた。杏は医房の診察用の寝椅子に伏せっていた。
様子を見にきた律が、死体のような杏を見下ろす。
「大丈夫か? 昨日はたっぷり皇子に付き合わされたようだが」
「半分死んでます……体中が痛くて死ぬ」
時に段差を飛び越え、時に木に登り、時に物影を匍匐前進し。
全身をくまなく使った鬼ごっこは、ふだん動かない体には負担が大きすぎた。
「全力疾走なんて、人類のやることじゃないと思います……」
杏は茶杯を取ろうとしたが、一つ一つの動作に痛みが走る。途中で力尽きた。
見かねた律が、口元まで水を持っていってやる。
「さっき皇子と共に、陛下に拝謁してきた」
「一連のこと、報告したんですね。どうなりました?」
「心配ない。皇子が自ら非を認めたことで、陛下の心象はかえって良くなったよ」
「それは何よりです」
「陛下は『人はだれでも過つもの。過ちを認めて正そうとする姿勢が大事だ』と」
李星皇子を取り囲んでいた宦官たちは、後宮から追い払われたらしい。
律は枕元に、肉入りちまきのカゴをおいた。
「手遅れになる前に、皇子の異変に気づけて助かった。礼をいう」
「いえいえ。それより叔父上、一つ頼みが」
さっそくカゴに手を伸ばしながら、杏は切に願った。
「表に休診の札を掛けておいてください。もう、ムリ。今日は動けないっ……痛た! いだーっ!」
「はいはい」
杏の口にちまきを一つ押し込んでやると、律は表に『休診』の札をかけ、自分の仕事に戻っていった。