二章 盗む人⑤
皇子を訪ねて行くと、律と杏はすんなり客間に通された。
だが、応対に出てきたのは李妃だった。
室内の調度と同じに、華美な装いだ。
濃い紫色の衣は、一面に刺繍がほどこされている。
高く結い上げられた髪には、豪奢な簪が何本も挿さっていた。
過剰なまでの華やかさは劣等感の裏返しだろうか、と杏はひそかに思う。
「白律御監、どんな御用ざます?」
問う声は高かった。神経質そうだ。
「李星は勉強中ざます。些末なことであの子を煩わせたくないざます。あたくしが聞くざます」
杏は妃の言葉遣いに衝撃を受けたが、黙って拱手していた。
律が一歩進み出る。
「では、妃殿にお尋ねします。なぜ、皇子の教師を宦官に変えられたのですか?」
「前任者が病気になったざます」
「皇子は、そうではないと仰っていましたが」
李妃の表情がこわばった。鳳凰の舞う宮扇をふる。
「郷に入っては郷に従え。宦官との付き合いも必要と考えただけざます」
「恐れながら妃様、それは本心でしょうか?」
杏は、律の隣にならんだ。
「お初お目にかかります。医官の白杏と申します」
「あーたざますか、すり傷で卒倒したヤブ医者は」
李妃の椅子の背にもたれた。
「ですが、今は皇子の心の病を治しにまいりました」
「心の病?」
「皇子は、他人の物を勝手に持って行ってしまう病をお持ちでは?」
さっと、李妃の顔色が変わった。
「近頃、後宮ではよく物が無くなるそうですね。
女官の物ならまだしも、妃嬪や陛下の物までとなると妙です。
そう簡単に持ち出せる物ではない」
「息子が、李星が持って行ったといいたいざますか?」
高い声は、わずかに引きつっていた。
「はい。皇子であれば、李妃様を通じて妃嬪の方々と交流もおありでしょう。
陛下の私室に入る機会もございます」
「実際に、そのような証言も得ております」
律も話に加わると、李妃は立ち上がった。大声で怒鳴る。
「無礼な! 李星は皇子ざますよ。欲しいものは何でも手に入る。他人の物を取るなどありえないざます!」
「人の心は不思議なもので。欲しいから盗みをするとは限りません。
――街の市場で、裕福な奥方が傷んだきゅうりを盗みました。
取った理由は『盗む瞬間の緊張が楽しいから』です」
杏の論に、宮扇を持つ手が震えていた。
「皇子も李妃様もお困りになったでしょうね。
持って来てしまった物を、本人に返したい。
しかし皇子としての名誉は守りたい」
杏はちらりと窓をうかがった。外に、青緑色の袍がちらついた。
「そんな時、宦官たちが現れた。
彼らは『龍娘娘の力を借り、失せ物という形で本人の手に戻せばいい』と提案してきた」
杏と目が合い、盗み聞きしていた宦官はあわてて身を引く。
「その代わり、皇子の教師の席を求められた――違いますか?」
たっぷりと紅の刷かれた唇がわななく。
「違う……違うざます。盗んだのはあたくしざます。李星は関係ないざます」
「いいえ、皇子です。証拠もございます」
杏は紙片を取り出した。
「これは今朝、皇子に軽食をお渡ししたときの紙です。
皇子はこれを懐にしまい、お菓子を包んで返して下さいました」
「それが、どう証拠になるざます?」
「返ってきた紙に、匂いがついていたんですよ。
私の医房からなくなった紅花という生薬の匂いが」
杏は包み紙を李妃に渡した。
「紅花はとても香りが強いんです。
皇子がお菓子を懐に入れた時、そこには紅花もあった可能性が高い」
紙に鼻を近づけ、李妃は顔をしかめた。
紅花の香りは独特で、人によって好き嫌いが分かれる。
「妃殿、そろそろ本当のことを教えて頂けませんか?」
「白律御監――」
李妃の目はなおも泳ぐ。言い逃れる言葉を探していた。
「……母上、もう良いのです。認めましょう」
「李星!」
戸口に、水縹色の袍を着た少年が立っていた。
李妃は身振りで制止するが、皇子は客間に入ってくる。
「盗人はわしだ」
皇子は苦しそうに、自分の両手を見下ろした。
「いらぬのに、我慢できずに手が伸びる。盗む時のあの高ぶりを求めてしまう。
……なんと情けない」
「違うざます! おまえはすばらしい息子ざます!」
李妃は涙ぐむ息子をかき抱いた。
「龍娘娘が言っていたざます。すべては、おまえに憑いた悪い霊のせいだと。おまえのせいではないざます!」
「その通りです、李妃様」
ぞろぞろと、ナマズ顔の宦官が部下を引き連れてやってきた。
「龍娘娘様にお祓いをお願いしましょう。龍の力で悪霊を退けてもらうのです!」
「それで治るざますか? 治るざますね!?」
「李妃様、どうかご冷静に」
杏は凛と声を響かせた。
「その方々は、本当に皇子のために動いていますか?
自分たちに都合の良いように事を運んでいるのでは?」
李妃はうろたえた。端然と結い上げられた髪をかき乱す。
「なら、どうすれば良いざます!
この子だって反省しているのに、やめられないざますよ。
鏡に向かって盗みをしないと百回誓い、聖人たちの言葉をもう何百回と書き写しているのに!」
杏はあんぐりと口を開けた。
とことん生真面目な母子に、驚きが隠せなかった。
「……私が思うに、皇子の病は心の疲れのせいかと」