二章 盗む人④
「あれ、叔父上。一刻ぶりですね。お懐かしい」
杏は少し身をかがめた。律は手に、龍の彫りのある立派なカギを提げていた。
「そのカギ、なんですか?」
「玄視堂のカギだ」
律はすたすたと南東に向かって歩いて行く。
「ひょっとして、今から中に入るんですか?」
「陛下から堂を調べるように命じられた」
「龍娘娘があそこに失せ物を“出現”させたカラクリを解き明かせと?」
杏は後宮の監督官の背を追う。
「カギは尚宮局の管理でしょう? なのに叔父上が?」
「もちろん尚宮局が先に調査した。絶対に何かしかけがあると息まいてな」
ところが、すぐに匙を投げたらしい。
「調査した女官は、青ざめた顔で、陛下にこう報告したそうだ。
『言われている通りだった。あそこは特別な場所だった。
玄視堂では、満ちている龍の力で、絵も生を得て動き出す。
私は力にあてられ、めまいに襲われた』と」
話している間に、くだんの堂へとたどりついた。
当時の龍公主の権勢を表わすように、玄視堂は小さいながら豪奢だった。
瓦屋根の両端には黄金の龍が鎮座し、柱も壁も極彩色に彩られている。
彫刻には水晶や翡翠がはめこまれていた。
「こういうのって、つい構いたくなりますよね」
杏は彫刻の龍の開いた口に、指を突っこんだ。
律は重い錠前を外し、堂へ足を踏み入れる。
「杏、何でおまえまで入ってこようとしてる」
「一人より二人で調べた方がいいじゃないですか」
「だめだ」
「なぜです?」
「……この堂は、信者の中でも選ばれた者しか入れない。
龍の力が満ちているために、長居すれば心身に異常をきたす言われている」
バカげたことを語らなければならない不本意さで、律は不機嫌だった。
「かつて龍玄宗の“奇跡”を暴こうと、何人かがこの堂にこもった。
だが、いずれも一夜明けたら心が壊れるか、自死していた。
ここはそういう因縁の場所だ」
「つまり、私を心配してくれているんですね。叔父上やっさしーい!」
杏はぴょんと跳ねて、広い背中に抱きついた。
聞く耳を持たない姪に、律はあきらめのため息をつく。
「明かりがいるな」
窓のない堂内は、薄暗い。
二人は手分けして、壁に沿ってならぶ燭台に火を灯した。
内壁を埋め尽くす絵があらわになる。
「――これは龍の絵、か?」
律は二、三歩、壁から下がった。
かなり簡略化された龍の絵だ。
長方形の体に、扇状のうろこが規則正しく配置されている。
何体かあるが、どれも色遣いが鮮烈だった。
赤地に黄や、紫地に緑と、お堂の外観に負けず劣らずはでだ。
「……ありえん。うろこが、動いて見える」
律が目をこすった。
「ちょっと、叔父上。なに龍玄宗の期待通りの反応してあげているんですか」
杏は叔父の背を、軽く叩く。
「おまえは動いて見えないのか?」
「見えますけど、単なる目の錯覚です。こうすれば分かるでしょうか?」
杏はさっきの菓子の包み紙を取り出した。
端を折って直線を作り、うろこ模様の上にあてる。
「……本当だな。実際は、少しも模様は動いていない」
「錯視、というものです。
形や色や配置を工夫して描くと、目や頭が勘違いするんですよ。
ないはずの動きを作ってしまう」
「よく知っていたな」
「ふっふっふっ、私も一緒で良かったでしょう?」
絵の謎が解けると、律は壁に手を這わせた。
「次はここに物が現われる謎だな」
「絶対、どこかに抜け穴がありますよね」
しばらく壁を探っていると、不意に、律が額に手をやった。
「叔父上、気持ち悪いですか?」
「……龍の力が満ちているとは全く思わんが。この堂、全体的に何か妙じゃないか?」
おもむろに、杏は懐に手を入れた。
「居るだけで気持ち悪くなるのは、たぶんこのせいかと」
取り出した飴玉を、床に置く。
丸い飴玉はその場に留まらず、ころころと端へ転がっていった。
「転がるということは……この堂、床が傾いているのか?」
「これが違和感の正体です。
目では水平と思っているのに、体では傾きを感じている。
その齟齬でめまいを起こすんです」
律は腕を組んで、感心した。
「よく気づいたな」
「前にも似たようなことがあったんですよ。
父上と一緒に、原因不明の体調不良を訴える患者さんを往診したんです。
患者さんは『家が呪われている』と言っていたんですが、よく調べたら床が傾いていて。
床を直したら、体調もすっかり良くなりました」
杏は壁の調査を再開した。
違和感を覚える部分が見つけたが、中からは動かない。
外から押すと、壁の一部が動いた。
「よし、抜け穴発見。これで密室に物が出現する謎も解けましたね」
杏は穴をくぐって、堂内の律と合流した。
「……どれも、単純な話だったな」
「叔父上ったら。手品の種明かしをされたお客さんと同じ反応してる」
二人は灯りを消し、堂を出た。
カギをかけながら、律がぽつりと漏らす。
「しかし、しかけがあったとなると、それはそれで厄介だな」
「なぜです?」
「他言するなよ。一ヶ月前、龍娘娘は陛下の私室にあった置物まで、この堂に出してみせた」
杏は眉間にしわを寄せた。
「陛下の私室なんて……出入りできる人間は限られますよね」
「部屋の前には、常に見張りもいる」
「それは……怖いですね」
身近に裏切り者がいる。それを暗示するできごとだ。
「一体、だれが陛下の部屋から置物を持ち出したのか……。
調べるのは気が重いな」
律が歩き出すと、杏もそれに続いた。
しかし、三歩で止まる。
「変ですね。陛下の物まで盗まれるなんて。
龍玄宗が仕込みをするにしては、危険が大きすぎませんか?」
投げかけられた疑問に、律も足を止めた。
「……確かに。バレたら、犯人一人の命では済まない。もっと無難な相手を選ぶな」
律は腕を組み、トントンと指先を動かす。
「だが、龍玄宗が関わっていないなら、それもまた妙じゃないか?
盗まれたものは、全部戻ってきている」
「そうなんですよね。盗人として筋が通らない」
杏はくるくると、人差し指で小さく円を描いた。
やがてあることを閃き、ピタリと動きを止める。
懐から菓子の紙包みを取り出した。
「やっぱり……やっぱりそうなんだ、犯人」
「どうした?」
「犯人は目的があって盗んでいる訳じゃないんだ」
杏は李妃の宮殿の方を向いた。
「叔父上、李星皇子の教育係が変わった理由も分かりましたよ」
「なんだって?」
「一連の盗難事件の犯人が、李星皇子だからです」
律は目を丸くした。