二章 盗む人③
李妃の宮殿は、格式あるたたずまいをしていた。
大きな門扉はあざやかな朱色で、屋根には黒瓦が整然と連なっている。
ひさしは金箔でかがやき、繊細な彫刻をほどこした扁額が掲げられていた。
門の両脇では、対の石獅子が来客ににらみをきかせている。
「――ちょっと、あなた。何のご用?」
杏がどことなく愛嬌のある石獅子の喉もとをなでていると、門が少し開いた。
垣間見えた女官に、杏はすぐさま畏まる。
「私は西の医房の医官、白杏と申します。
先ほど私の医房へいらした李星皇子にお尋ねしたいことがあり、参りました。お取次ぎ願えませんでしょうか?」
不審者の疑いが晴れたらしい、女官は大きく門を開いた。
「どんな用?」
「実は、私の医房から薬が一つ消えてしまいまして」
「薬が?」
「皇子が医房にいたとき、作業台に茶色い包みがあったかどうか。
それだけお聞きしたいのです。
皇子は台のおそばで、薬棚をおもしろそうに眺めていらっしゃったので……」
女官は静かな中庭をふり返った。
遠くで、詩を朗読する声がしている。
「皇子は勉強中だから、むりよ。邪魔をすると李妃様に叱られるわ」
「そこをなんとかお願いします。
これが私物ならあきらめもつきますが、他の医房から頼まれている薬なのです。
見つからないと、患者に迷惑がかかります」
平に平にお願いすると、女官は奥へと引っこんだ。
消えたのは紅花という生薬だ。
血の巡りを良くする効能があり、産後の悪露や関節痛に処方される。
だが、どんな薬も過ぎれば毒だ。妊婦が大量に紅花を摂取すると、流産のおそれがある。
失くなった生薬が、もし悪意を持って身ごもった妃嬪に使われたら――杏は背に嫌な汗をかいた。
「いかがでした?」
戻ってきた女官は、肩をすくめた。
「残念ね。皇子は覚えていらっしゃらないって」
「そうですか……」
「龍玄宗の龍娘娘様に頼んでみたら?」
女官は気軽にいった。
「あのお方は人の心を見通すだけでなく、失せ物探しもお上手よ」
「はあ……」
気のない返事をすると、女官はむきになった。
「あ、信じていないわね。本当にすごいのよ。
私が無くした物も、龍娘娘様のおかげで見つかったんだから」
「ここ一年ほど、後宮では盗難事件が多いそうですね。
私としては、龍娘娘の“せい”で物が無くなっているのではないかと」
「あら、どういう意味よ」
「私の知らない間に、医房に人様の壺が置いてあったんです。
そしたら龍玄宗の方が『あったぞ、龍娘娘様の言う通りだ!』ってやってきて。
あやうく泥棒にされるところでした」
自作自演をほのめかすと、さすがに女官は鼻白んだ。
しかし、一瞬だ。やはり龍娘娘の肩を持つ。
「それはきっと、また別の人が龍娘娘様の名前を利用しているだけよ。
あの方はそんな姑息なことなさらないわ。
だって、無くなったものをお堂に“出現”させられるんだから」
「……“出現”?」
杏の眉がぴくりと動く。
「後宮のすみに、玄視堂というお堂があるでしょう?
亡き龍公主様がお建てになったお堂」
女官は南東を指した。
「窓はなく、出入りは鍵のついた扉だけ。
それなのに、龍娘娘様はそこに簪を出現させてみせたの。李妃様のご友人が無くした簪を」
堂のカギは、尚宮局が管理しているという。
女官たちを管理する部署なので、宦官の内侍省とは別筋だ。
龍玄宗との関わりは薄い。
「『この堂には龍の力が満ちています。私はその力を使って簪を引き寄せてみせましょう』って言って。こう、念じてね」
女官はその瞬間を再現して、前方に手をかざした。
「尚宮局の人がお堂を開けたら、本当にあったのよ、簪」
女官は興奮して肌を赤くする。
「すごいわよね。私、もう、感動して! 高かったけれど、お守りを買ってしまったわ!」
首元にある赤い紐をたぐり、女官はお守りを出した。
以前、張明が持っていたものと同じだ。
「亡くなった龍公主様のご遺体も、あそこに安置されていたけど、いつの間にか無くなったでしょう? やっぱりあそこは特別な場所なのよ」
「……たぶん、信者がこっそり運び出しただけですよ」
杏のつぶやきは、夢中になっている女官の耳には届かなかった。
「龍公主様は傷を癒すため、あそこから天の世界へお出かけになれたのよ。
『私は再び、この世に帰る!』――あの、最期の約束を果たすために」
うっとりと天を見上げる女官に、杏は黙った。
今は何を言っても、右から左に聞き流されるだけだ。
「何はともあれ、薬のこと、ありがとうございました。他を当たってみます」
「ああ、そうだ。これ、皇子から」
女官は小さな紙包みを渡してきた。
「お返しだって」
宮殿をはなれてから、杏は包みを開いた。
中には厚みのある円い蒸し菓子――圓糕が入っていた。
表面に鳳凰が型押ししてあり、金箔までほどこされている。やたらと豪華な見た目だ。
「わあ。干し肉が、こんな姿になって返ってくるなんて」
皇子の去り際、杏は袍を直すフリをして、お茶請けの干し肉を懐へ忍ばせた。
昔の味が懐かしいだろう、と思ったのだ。
このお菓子は、その心遣いに対する返礼だ。
「エビでタイを釣った気分」
さっそく一口かじる。
もち米の皮に、ナツメ餡がぎっしり詰まっていた。甘さひかえめで上品な味だ。
包み紙にこぼれた欠片まで、ていねいに拾って口に運ぶ。
「……ん?」
杏は包み紙に鼻をあてた。何度もくんくんと匂いをかぐ。
「……んんん? どゆこと?」
「おまえは犬か」
聞きなれた声は、律だった。




