二章 盗む人②
「医官のくせに、あの程度の出血で気を失うとは何ごとじゃ。
かすり傷だから良かったものの、重い傷の患者がきたらどうする。
一体どういう心構えで医官をやっておるのじゃ!」
「はい、おっしゃるとおりで。申し開きもございません」
診察用の寝椅子に座った少年に、杏はひたすら頭を垂れる。
手当ては、律がしてくれていた。手際よく傷を清め、軟膏をぬる。
「一体だれじゃ、こんな医官を雇ったのは」
「申し訳ございません、李星皇子。私です」
律が深々と頭を下げた。傷に布を巻きながら、ため息をついた。
「出血がなければ役立つので置いておりましたが、やはり――」
「これでも父の白霖には認められておりました! 大丈夫です!」
辞職に追い込まれそうな気配を察し、杏は強引に流れを変えた。
「白霖というと、名医と評判の。そちは、その娘だったのか」
「はい! 今後の活躍にご期待いただければと思います」
皇子の評価が変わってきていることを感じ、杏はさらにつけ加える。
両手を握りあわせ、哀れな様子で切々と訴えた。
「李星皇子、どうかお慈悲を。
私は十一で家族を失い、白霖様の養女となりました。
その父も亡くなり……他に行くあてのない身です。
ここの職を失ったら、この先、どう生きていけばよいのか……」
「なんと。それは気の毒な」
皇子は同情し、かたわらの律に視線を移した。
「それで白律御監が後宮に雇い入れたのじゃな」
「いえ、本人が後宮で働きたいといって聞かないだけです。
私はいっそ妻にしてでも、一生涯の面倒を見る気でおりました」
皇子はたちまち半目になった。杏はあらぬ方向を見やる。
「白杏よ。『巧言令色、鮮し仁』という言葉を知っておるか」
「うっ……責められている雰囲気だけは分かりますっ……」
「『信は道の元にして、巧言は徳の賊なり』も覚えておけ」
「お、叔父上まで何か良く分からないけど耳の痛いことを……!」
皇子はふたたび、年上の医官に説教をはじめる。
「そなた、年は? 二十一!? 『女子、適うるに時あり。男子、冠するに年あり』。
十六にして嫁ぐは当然、立派な夫を得ることこそ女の務めじゃぞ!」
「は……はひ……」
「白律御監ほど有望な男子の妻になれる機会を自ら捨て、わざわざ後宮に出仕とは何事じゃ! 浅はかにも程がある」
「え……えっと……」
「三諫して従うは孝なり。されど白律御監の判断に誤りなし。諫められるべきはそちの方よ。今一度、己の身の行く末についてとくと考えよ!」
「御……御意……っ!」
圧倒的な気迫だった。杏は拱手し、深々と頭を垂れた。
皇子が「のどが渇いた」ともらすと、すぐさま膳房へ向かう。
手伝いに来てくれた律に、小声でぼやいた。
「しっかりした御方ですね。十二、三といったところなのに」
「十二歳だ」
「ということは、陛下が北州の都護府にいらした頃の御子なんですね」
杏は感嘆した。
「すごいですね。陛下は、母君の身分が高くなく、皇位から遠い立場だったのでしょう?
有力だった皇子が相次いで亡くなり、五年前、思いがけず帝位に就かれた。
なのに、皇子がああも君主然とした教養と威厳をお持ちとは」
「もともと、李妃が教育に熱心なお方だったらしい。ご自身もかなりの学をお持ちだ」
「次の皇帝は李星皇子ですか?」
「分からん。このまま陰后が皇子を授からなければ、可能性は高い」
天辰国では、皇太子は指名制だ。
皇帝が、母親の家柄や本人の資質などを見て決める。
「李妃は当然、息子の即位を願っているからな。日々、朝から晩まで教育に熱を注がれているようだ」
「あ、朝から晩まで……。
皇子、疲れないんでしょうかね? ご本人だって、王宮で暮らすことになるとは思っていなかったでしょうに」
診察室をのぞくと、賢い皇子は薬棚を物珍しそうにながめていた。
少し考え、杏は手にしていた碧螺春を置く。
「お待たせいたしました、皇子。北州の茶葉を使った乳茶でございます」
乳茶と聞くと、皇子は体ごとふり返った。
薬棚から寝椅子に、すぐに舞いもどってくる。
「入れるのは、やはりお塩で?」
「塩に決まっておる! そなた、良く心得ておるな」
「北州出身の女官に、食の話を詳しく聞いたことがございまして。黄油もお入れいたしましょうか?」
「苦しゅうないぞ」
皇子は嬉しそうに、黄油入りの乳茶を受け取った。
お茶請けの干し肉に目を細める。
「懐かしい。小腹が空くと、よくかじったものじゃ」
「こんな所にいらっしゃいましたか、李星皇子!」
皇子が干し肉をつまもうとしたところで、またも宦官が診察室に押しかけてきた。
さっきより数が多い。先頭は、両眼の間隔の広いナマズ顔の宦官だった。
「もうお勉強のお時間だというのに。こんなところで何を?」
「ちと、腕を傷めたのでな。手当てを受けておったのだ」
宦官たちは杏を押しのけ、皇子を取り囲んだ。
「いけません、皇子。ここは迷医と評判のヤブ医者です」
「それは身をもって知った。まったく役に立たんかった」
杏は診察室の角に挟まった。
「こんな田舎臭いものをお出しするとは……迷医には品もないと見える」
ナマズ顔の宦官は乳茶を見下ろし、顔をしかめる。
「皇子様にふさわしいのは、選りすぐりの茶と、名人の手による菓子にございます。
本日も、李妃様がご準備なさっておりますよ」
「む……そ、そうか」
皇子は名残惜しそうに、干し肉を手放した。
「さあ、戻りましょう。お茶をして、お勉強です。
休むヒマなど一時もございません。あなた様は、将来の皇帝なのですから」
「分かっておる」
立ち上がった皇子に、律が怪訝そうにたずねた。
「皇子、教師が変わられたのですか?」
「ああ……最近な」
「以前の教師は、李妃様が選び抜かれた才ある女官だったはず。病でも?」
「いや……そういうわけではないが」
皇子の歯切れはどこまでも悪い。
迎えに来たナマズ顔の宦官が、二人に割って入った。
「差し出がましいぞ、白律御監。先の教師に代わって、李妃様がわたくしをお選びになった。それで十分であろう」
歩き出した皇子を、杏は呼び止めた。
「衣が乱れておいでですよ」
袍の合わせ目を正しながら、そっと耳打ちする。
「あとで懐をご覧ください」
賢い皇子は、目だけで杏を見返した。宦官たちに囲まれて去っていく。
「なんか、妙な感じでしたね」
杏は一口も減らなかった乳茶を手に取った。
「皇子なら、故郷の味をけなされたら言い返しそうなものなのに。
宦官の言いなりって感じでしたね」
「ああ……教師が代わっているのも変だ。
陛下は、皇子に宦官を近づけないようにしていたはずなのに」
普通、皇子のそばには幼いころから宦官が付き従う。
だが、常に側にいるために、時に宦官は皇子に悪影響を及ぼす。
皇子は宦官に親しみを覚えるあまり、彼らの意のままに動くようになってしまうのだ
「先代皇帝は宦官たちに甘やかれて育った――姉の龍公主の思惑で、そうなったと聞いている」
「遊び惚けて、政治は側近の宦官に丸投げ。都合のいい操り人形ですよね」
前皇帝に限らない。宦官によって国が傾いたことは、何度もある。
「それを思うと、今の皇帝陛下は賢明なお方ですね。歴史に学び、対処なさっている。
王座から遠かったおかげでしょうか」
「早くに後宮を離れたからな。宦官の影響を受けずに育たれた」
飲んだ乳茶はしょっぱかった。杏は口をすぼめる。
「皇子は大人びた方ですけど、なんだか心配です」
「さっきの宦官は、仇信内侍監と古い仲だ。不安しかない」
律は腕を組んだ。トントンと、指で腕を叩く。
「李妃も陛下と同じ考えだったはずだ。なぜ、教師を変えたんだ……?」
独りごちながら、律は診察室を去って行った。
杏は空の皿を片付けると、仕事の続きにかかる。
今日の業務は生薬の計量だ。よその医房から在庫が足りないと頼まれ、取り分けているところだ。
「私もいつか薬が足りないって言ってみたいですねえ――って、あれ?」
薬棚の前にある作業台へ戻り、杏は違和感を覚えた。
量りかけの生薬を、よくよく見回す。
「薬が……消えてる!?」
何度確認しても、包みが一つ足りなかった。