一章 偽る人⑦
杏は立ち上がった。
「叔父上すみません、今日の酒楼の市場調査は無理です!」
「また今度だな」
「うわーん、女児紅、酥炸花生、高粱酒、醉蝦、白乾児、蘭陵美酒、桂花陳酒! 歩く宝庫を空っぽにしたかったよー!」
酒とつまみと酒とつまみと酒と酒と酒の名前を叫びながら、杏はふたたび東へと走った。
息も絶え絶えに、主屋に駆けこむ。
「おええっ……全力疾走なんて人間のやることじゃない……」
「あなた体力ないの?」
韻夫人は起き上がっていた。そばでは、瑠那が茶杯を手に控えている。
「瑠那さん、それ」
杏が茶杯を指すと、瑠那はびくりと身をすくませた。
「短い時間にまた毒を盛るのは危険ですよ。
さっき韻夫人に処方した特効薬は、ただの塩水ですから」
場が凍りついた。主従はそろって顔色を変える。
「な――何を言ってるの、あなた」
韻夫人は動揺あらわに、侍女を見やる。
「ねえ、瑠那。毒って、どういうこと?」
瑠那はただ、うつむいた。やったことを認めている沈黙だ。
夫人は激昂する。
「おまえ、私を裏切ったの!? だれの命令!?」
「……だれでもナイ。自分」
韻夫人は唇を強く噛んだ。
「そう……自分の意思でしたのね。
そうでしょうね、私の世話なんてうんざりだったでしょうね。毒殺したくなって当たり前よね!」
「違う、お嬢サマ! ソレじゃない!」
「じゃあ、どういうことなのよ!?」
うまく言葉が出てこないらしい、瑠那は声を喉元に詰まらせている。
「瑠那さん、あなたはただ人に必要とされたかったんですよね」
言葉が不自由な瑠那に代わり、杏が心の内を語る。
「あなたは心から主人を慕っている。
具合が悪ければ、看病するのは侍女のあなたの役目。
ずっとそばにいられるのが嬉しかったんですよね」
心を読んでくれとばかりに、青い瞳が杏を見つめてきた。
「たとえ主人の病が嘘でも良かった。
不機嫌に当たり散らされたら、それはそれで、周りから労わってもらえる。
たとえ仕事ができなくても、ありがたがられる。
それが心地よかったんですよね」
ところが近頃、韻夫人の詐病に回復のきざしが現れた。
瑠那は居場所を失うことを恐れ、本当に主人の具合を悪くさせたのだ。
「まさか、そんなこと――」
「本当です。人の心は不思議なもので、憎いから傷つけるとは限らないんですよ」
杏は似たような例を挙げた。
「これは父から聞いた話ですが――よく病気になる男の子がいました。
母親は夜通しで看病し、周りから理想に母と称えられていました。
でも、違ったんです。病気の原因は、母親だったんです。
母親は褒められたいがために、息子に毒を盛っていたんですよ」
杏がゆっくりと手を差し出すと、瑠那は観念したように茶杯を渡してきた。
「瑠那……」
「……ごめんなさい、お嬢サマ」
ほっと肩を下ろしていた杏は、ぎょっとした。
瑠那が、今度は茶壷を持ったのだ。中身を一気に煽る。
「ちょっ――っ、やめなさい!」
杏は茶壺を取り上げようとするが、相手の力の方が強かった。
奪ったときには、中身はほとんど飲み干されていた。
「吐き出しなさい、早く!」
韻夫人は背中を叩いた。
「……ワタシ、悪い奴」
静かに、瑠那は懺悔をはじめた。
「子どものアナタ、虐められて泣く。ワタシ、嬉しかった。必要にされた。
ワタシ、仕事できナイ。でもソバにいてと言われる。幸セ。
……サイテイ」
背を叩く力が強くなる。
瑠那は手で口にフタをした。
「大きくなって、アナタ、泣かなくなった。強くなった。ワタシ、もう要らナイ」
「お願いです、吐いてください。瑠那さんが死んでも、だれも喜びません」
杏は背をさすって語りかけるが、瑠那は動かない。
韻夫人は、乱暴に杏をはらいのけた。
「許さない! 絶対許さない!」
激情にまかせ、韻夫人は瑠那を蹴った。
亀のように丸まっている体を何度も何度も。
「おまえがいたから、強くなれたのでしょう!?」
責める方も、まだ体調が万全でない。げほっと咳きこんだ。
「だれより信じているのに! 何より必要にしているのに!」
血を吐き出きそうなほど苦しげに、叫ぶ。
「この先、おまえなしでどう生きろというのよ!」
金髪の女主人は、浅黒い肌の召使にすがりついた。
*****
一夜が明けた。杏は診察室の寝椅子に伏せっていた。
様子を見に来た律が、死体のような杏を見下ろす。
「生きてるか? 昨夜は大忙しだったようだが」
「なんとか生きてます……」
答える声に張りはない。
「参りましたよ、韻夫人が瑠那さんから離れようとしないんですから。
『あなたも病人なので寝ていて下さい』と言っても、聞いてくれないし。
やっと寝てくれると思ったら、私には一睡もするなって命令してくるし。
瑠那が死んだら私をクビにする、なんて言い出すし」
杏は理不尽な扱いへの愚痴をつらつらと語った。
「とりあえず瑠那さん、峠を越したので。私の首もつながりました。一安心です」
「侍女の方、クビにならないのか?」
「ええ。韻夫人が不問にしました」
部外者ながら、律が案じる。
「危なくないか? これまでの夫人の詐病も、ひょっとしたら一部は瑠那のしわざだった可能性もあるだろう」
「私も疑いましたけど。死にかけの瑠那さんが、全力で否定していました」
律はやはり不安げにする。
「……主人を慕っているとはいえ、そんな従者は獅子身中の虫じゃないのか?」
「きっと、もう大丈夫です。瑠那さん、自分が韻夫人に必要とされていることを実感したでしょうから」
杏は目を閉じた。院での光景がまぶたの裏に浮かぶ。
韻夫人は自分の寝台に瑠那を寝かせ、ずっとその手を握っていた。
「……まあ、多少歪んでいても、金や権力目当てでなく味方してくれる人間は、この後宮では得難い存在か」
律は寝椅子から落ちている杏の脚を上げてやった。
「治ると困る病もようやく全快か」
「そのようです」
杏の声は消え入るように頼りない。なかば寝息を立てている。
律は寝具を取ってきて杏にかぶせ、表に『休診』の札をかけて仕事に戻っていった。