序章 後宮の迷医①
「なんて役立たずな医官なの! クビよクビ!」
天辰国の後宮の医房で、白杏はだらだらと冷や汗を流していた。
怒鳴っているのは金妃の侍女、張明だ。
「お産のときに血を見て気絶なんて……それでよく医官が務まるわね!」
「面目次第もございません」
杏は胸の前で手を重ね、顔を伏せた。
中性的な顔立ちは、髪で右側が隠れている。
張明が苛立った。
「ちゃんと髪はまとめなさい! だらしない!」
「あ、これは、その――お見苦しいかと思いまして」
長い指が髪をはらうと、青黒いアザがあらわになった。
元の肌は白く美しいだけに、それは雪の上の泥のように目を引いた。
「出していた方がよろしいでしょうか?」
「……それはあなたの自由ね」
張明は少しバツが悪そうにした。
顔をしかめ、こめかみを押さえる。
「あなた、あの白霖太医のご子息と聞いたけれど?」
「娘です。養女ですが」
「養“女”?」
張明は今一度、相手をよく見た。
真新しい医官服に包まれた体は、華奢だ。だが、背はふつうの女性よりも高い。一見すると、細身の青年にも見える。
「女性用の医官服がないので、袍を着ております。
似合いすぎて、何度も宦官にまちがわれておりますよ」
「女……女医官なのに、倒れたの?」
「我ながら、ふがいない限りです。他人の流す血が苦手で……」
「信じられない。女医官なんて、出産のためにいるようなものなのに……」
それ以上は言葉にならないらしい。張明は呆れ返っている。
「『父は名医、子は迷医』なんてウワサを聞いたけれど、その通りね。
呼んだ医者を介抱するハメになるなんて、前代未聞よ」
「名医でなく“迷医”ですか。うまいこと言われますねえ」
はは、と杏は力なく笑った。張明ににらまれ、口をつぐむ。
どう切り抜けたものかと考えていると、カチン、カチン、と硬いものが打ち合う音が近づいてきた。
澄んだ音は規則正しく響き、二人のいる診察室の前で止まる。
「張明殿、どうかなさいましたか?」
落ち着いた声とともに、官袍をまとった男が現れた。
年は二十代後半。背が高く、立ち姿にはスキがない。落ち着いた玄青色の衣が、理知的な雰囲気を引き立てている。
腰には銀縁の佩玉と、薄金の龍文牌が揺れていた。男でありながら後宮への出入りを許されている証だ。
「白律御監!」
御監――正式には尚内監。後宮の監督官を前に、張明はたちまち畏まった。
「姪が何か粗相を?」
「いえ……」
張明は言葉をのみかけたが、意を決して口を開いた。
「白杏医官は白律御監のご推薦と聞いております。一つだけお聞かせください。
血を見て卒倒する方を、なぜ医官に推されたのですか?」
男の冷静沈着な態度が崩れた。「は!?」という目で姪を見る。
一方、杏は窓から中庭の木のつぼみを眺めた。春が近いなあと、現実から逃げたことを思う。
「倒れたのですか?」
「はい。先日、金妃様のお産で」
「……杏」
半ば引っ立てられるようにして、杏は外へ連れ出された。中庭の隅に追い詰められる。
「どういうことだ。 血は平気になった、といっていたよな?」
「いやー……気合で何とかなると思ったんですけどねー……」
杏は目線をななめ下にやり、指先をこねあわす。
「そんな軽い気持ちで仕事にのぞんでいいと思っているのか?」
「ちゃ、ちゃんと対策はしてましたよ? お産に当たらないよう、他の医房に根回ししていました。金妃様のお産に立ち会ったのは事故です」
「つまり最初から、今でも血がダメなことを自覚していたんだな?」
杏は、あ、と口に手を当てた。律の眉が跳ね上がる。
「なぜ正直に言わなかった!」
「言ったら雇ってくれました?」
「もちろん雇わなかった」
「じゃあ言うわけないじゃないですか」
律は姪の耳を引っ張った。反省の色がない相手に、怒りを爆発させる。
「一生のお願いと頼み込んでくるから仕方なくねじこんだのに……許さん! 帰るぞ!」
「嫌です、おうちには戻りたくありません!」
腕を引かれ、杏は必死で抵抗した。
「だって私、ここをクビになったら――どこかに嫁がされてしまうんですよね?
父上の葬儀のとき、親戚の方々がそう話しているのを聞きました」
「心配するな。おまえをよそに出すつもりはない」
「えっ、叔父上がみんなを説得して下さったんですか?」
「俺がおまえを娶ることで決着がついた。これまで通り、霖兄の家で一緒に生活するだけだ。安心しろ」
杏は養女なので、律とも血の繋がりはない。叔父と姪の関係にあっても結婚はできる。
が、思わぬ提案だった。杏はあんぐりと口を開けた。
「叔父上、それ、本気で言ってます?」
「霖兄上に遺言されたからな。おまえのことを頼むと」
「だからといって結婚はないでしょう。相手を選ぶのが面倒だからといって、身近なところで済ませるのはどうかと思いますよ?」
「おまえ、女の仕事がまるでできないだろう。どこかに嫁にやって、うまくやれているかと気を揉むより、自分で面倒を見た方が気楽だ」
「いや、冗談ですよね?」
杏は念を押したが、返事はなかった。
「ちょっ、何かいってもらえます!? 黙っていられると怖いんですけど!」
「何か」
「叔父上がかわいくない回答するー!」