外伝 名もない誓い
──奏多──中学生の時
奏多は、いつも通り、病院の廊下を歩いていた。
医者の父を持ち、何不自由ない暮らし。
周囲からは「羨ましい」の言葉が絶えず
顔が良くて金持ちで、
成績もスポーツもそこそこ。
けれどその万能感が、逆に彼を孤独にしていた。
誰かに相談しても、「安住なら大丈夫でしょ」で済まされる。
近づいてくる友達は
話題に出すのはブランドの服や高い店
金や女の話ばかりのやつが多い。
安住 奏多
(俺って、何なんだろうな)
そう思っていたある日。
病院帰りにふらりと立ち寄ったコンビニの裏手。
壁の向こうから、声が聞こえた。
男数人。
奏多のクラスメイト。
──自分の名前が出てきて、思わず足を止める。
⸻
男1
「マジで安住って便利だよな。
金あって、いいものたくさんもってるし
親が医者で顔も良くて、店も知ってるし、
女も寄ってくるし。」
男2
「なー。
一緒にいるだけで俺らも得するよな。
おこぼれ最高って感じ?」
男3
「彼女できたら紹介してもらいてえわ。
あのレベルの輪にいればこっちにも寄ってくるし。」
男2
「でもあいつ、意外とバカだよな。
こんなんで友達とか思ってるんだから。」
男1
「正直、顔と親の金以外に何かあるか?
中身スカスカだろ。」
男3
「うちの親父も言ってたわ、
金持ちは使える時に使っとけってさ。
将来医者とかになったらコネもあるし」
笑い声が混じるその会話は、日常的な悪意の色をしていた。
拳を握って俯く奏多。
その場で、奏多の時間が止まった。
──ああ、そういうことか。
俺は人の嘘を見抜くのが得意だ…
だから
わかってた。
わかってたけど……
はっきり口にされると、
なんか、思ってたより……痛い。
声も出ず、その場を離れることもできずにいた時。
「──誰の話してんだ?」
正太だった。
声を聞いた瞬間、確信した。
言葉の抑揚も、音の深さも、無駄のない切れ味も。
すべてが、聞き慣れたあいつのものだった。
その声に、場の空気が固まった。
静かに、けれど確実に圧を込めた声。
家庭の事情を背負いながらも、
誰にも頼らずに立ち
母のために、妹のために生きている――。
自分に無い“本物の強さ”を持つ人間。
奏多が同世代の中で本当に尊敬できる、ただ一人の男。
――安堵と同時に、鋭い緊張が背筋を這い上がる。
安住 奏多
(……最悪だ。聞かれた。
あの声、あのタイミング――たぶん、全部聞いてた。)
顔が火照るように熱くなる。
怒鳴るでもなく、笑うでもなく、
ただ静かに声をかけているその感じが――余計に怖かった。
安住 奏多
(まさか、お前も……)
一瞬、最悪の想像が頭をよぎる。
今、正太があいつらと同じように俺を笑ったら。
黙って見て見ぬふりをしたら。
その瞬間、たぶん自分の中で何かが壊れる。
けれど。
戌井 正太
「顔と親の金しかないって、今お前言ったけどな
お前らはそれも無ければ、あとそれ以外にも何があるんだ?」
――違った。
正太の声は、冷たくもなく、熱くもなく。
けれど真っ直ぐだった。
口ごもる男子たちに、正太は一歩ずつ歩み寄る。
怒鳴るわけでも、感情をあらわにするわけでもない。
──ただ淡々と、真っ直ぐに。
戌井 正太
「そんなふうに人のおこぼれ狙いで
自分じゃ何も出来ないやつらに
──奏多のこと言う資格はない。」
男1
「な、何だよ。……関係ねぇだろ、お前には」
男2
「あいつの味方?
お前確か貧乏だよな?
金持ちに拾われて嬉しかった口?」
男数人の嘲笑するような声が響く。
戌井 正太
「関係あるよ。
俺はあいつと友達だ。
金持ちかどうかなんて関係ない。
俺はあいつの中身を知ってる。
だから一緒にいる。」
普段は無口で目を伏せがちな正太が
その時ばかりははっきりと相手を睨んでいた。
戌井 正太
「奏多のおこぼれにすがらなきゃ手に入らない…
──自分の力で何もできないなんて…哀れだな。」
吐き捨てるように言って、正太は彼らに背を向けた。
誰も何も言えなかった。
気まずそうに視線を逸らし、肩をすぼめるしかできなかった。
笑いは消え、空気は冷たく乾いたまま動かない。
ゆっくりと男たちの間を通り抜けていく。
すれ違いざま、誰とも目を合わせないまま歩き去っていった。
その背中を、男たちはただ黙って見送るしかなかった。
残された空気には、気まずさと、自分たちの軽さだけが残った。
顔を出せないまま、奏多は胸の奥に溜まっていたものが
一気に溶けていくような感覚を覚えた。
安住 奏多
(……そうだよな
お前は、そういう奴だった)
救われた。
というには、あまりにもさりげない。
言葉じゃなく、行動で、心の底を拾われた気がした。
それが、たまらなく嬉しかった。
どんな美辞麗句よりも、胸に刺さった。
奏多はそのままその場を離れた。
────
数日後、下校途中の道。
駅前のベンチに腰かけながら、
ジュースの缶を片手に奏多がぽつりと口を開いた。
安住 奏多
「なあ、正太。
……この前、俺のこと、誰かと話してた?」
正太は一瞬だけ缶を持つ手を止めた。
しかし、表情は変わらない。
ただ、わずかに首をかしげて返す。
戌井 正太
「……急にどうした…。」
奏多は笑った。
けれど、それはどこか試すような笑みだった。
安住 奏多
「いや、なんかさ。
ちょっと前まで、女紹介してくれとか、
もう使わなくなったものでいいからブランドものが
欲しいとか、うっとおしかったやつらからの絡みが
妙にピタッと収まったっていうか。
……お前、なんか言った?」
正太はその言葉に、ほんの少しだけ視線を伏せ
親指を内側に左手をぐっと握った。
そして、ゆっくりと答えた。
戌井 正太
「さあ……何かあったなら、そいつらが自分で気づいたんじゃないか」
奏多は、目を細めた。
正太は嘘をつくときや隠し事があるとき親指を内側に入れて左手を握る癖がある。
本人は気づいていないようだが、
付き合いが長い奏多はとうの昔にその癖に気づいていた。
正太は陰でいわれていたことを自分に伝える気はないのだと気づいた。
けれど、それを責める気は毛頭なかった。
安住 奏多
「そっか。
一緒にいるのに飽きたのかもな…
まあ、父親がたまたま金持ちで
俺自身は別に大した奴じゃねーしな。」
わざと軽口を叩いてみせる。
すると、正太がふっと鼻で笑って、隣に座る奏多を横目で見た。
左手のこぶしを緩め、続けた。
戌井 正太
「……大した奴だよ、お前自身がな。」
それだけを言って、
ジュースの缶から一口飲み
正太は何も続けなかった。
けれど、その仕草、
その一言に――奏多の胸は、不意に熱くなる。
何も聞かず、何も誇らず
ただ俺自身を肯定してくれたその一言が、
何よりも嬉しかった。
奏多ももうそれ以上、何も言わなかった。
ただその横顔を、静かに見つめていた。
彼らはそれ以来、その出来事について何も言わない。
ただ一つ、その日を境に奏多は決めた。
(俺にとっての本当の親友は、戌井正太だけだ)と。
仲良くしようと無理に喋りかけたり、ベタベタしたりはしない。
けれど、何かあれば黙って横に立つ。
それが親友だと、信じていた。
それを、正太が気づいていなくても構わなかった。
奏多はその時にただ一つだけ心の中で決めた。
(――――俺はいつでも正太の味方だ――。)
表には出さない。
けれどそれは、
たった一度の瞬間で決まった、
変わることのない誓いだった。