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短編

凍える部屋

作者: 綿貫灯莉

 真夏の昼下がり、男は誰もいないマンションの廊下を歩いていた。ポロシャツにスラックスという軽装だが、額から汗が流れ落ちている。


「暑いな」


 手で汗を拭いながら、男は呟く。

 エレベーターの音だけが響き、陽の光が入らない廊下は薄暗く妙に不気味だった。湿気を含んだ重たい熱気と、建物の薄気味悪さを振り払うよう、男は足早に目的の部屋へ向かう。

 そこは、連絡はとれるのに会社には来ない部下が、一人暮らしをしている部屋だった。


 指導係の社員は、何度も電話やメッセージを送っているが、どうも要領を得ないらしい。男も直接連絡をしてみたが、電話には出てもらえなかった。返ってきたメッセージも意味不明なものだった。

 部下の同期たちに様子を聞いてみたのだが、誰も気にしていないのか、状況がわからない。そして、今日見舞いに行くから伝言があるか確認すると、「特にないです」と言われた。

 会社だけの付き合いなのだから、そんなものかもしれないが、その無関心さに虚しさのようなものを感じる。


 ドアの前に立ち、チャイムを鳴らす。

 室内でピンポーンという音が聞こえる。しばらく待つが、ドアが開く気配がない。男はもう一度チャイムを鳴らそうと、手を伸ばしたその瞬間、ガチャリとドアが開いた。

 中から顔を覗かせたのは、部下本人だった。

 頬は痩せこけ、無精髭に虚ろな目をしたその顔は生気がなく、とても年下とは思えない風貌になっていた。足元からは冷気が流れ出してくる。


「久しぶりだな」


 そう男が声をかけると、何を見るでもなく視線を彷徨わせていた部下は、男の存在にやっと気がついた。


「あ、課長でしたか。すみませんが、とりあえず中に入ってもらえませんか? 早く戻らないと」


 何故か急かすようにドアを開けた部下の格好を見て、男は不審に思った。

 今日は猛暑日だというのに、部下はフリース素材の冬服を身につけているのだ。


「早くお願いします」


 そう言われて、玄関先で話そうと思っていた男は、仕方なく部屋の中へ上がりこんだ。

 部下はすでに奥の部屋に戻ってしまったようだ。

 完全に閉まっていない間仕切り戸に手をかけると、音もなくゆっくりと開いた。そして、見えてきた部屋の様子に息を呑んだ。

 カーテンを締め切った真っ暗な部屋の中で、部下は厚手の毛布に包まり、部屋の真ん中に座り込んでいた。そして、冷房が効きすぎているのか、寒いくらいの室温の中、部下は震えている。そして、「すぐ戻っただろ?」、「知り合いだよ」など、誰もいないのにブツブツと呟いている。


「課長、あちらですよ」


 部下は震える手を毛布から少しだけ出して、エアコンの方を指す。


「何がだ?」


 何の話をしているか理解できない男は、恐る恐る部下に聞く。すると、部下はエアコンの方に手を振りながら笑う。


「遭難しないように、お互いに監視してるんですよ。ほら、課長も手を振ってください」


 そう言って振り返った部下の笑顔は、正気にも見える。それが余計に男の恐怖を駆り立てた。「こちらは僕が所属している一課の課長です」と、エアコンに向かって紹介をしている部下の肩を掴んだ。


「おい……、駄目だ。ここにいたら駄目だ。とりあえず外に出るぞ」


 上擦る声を抑えながら、男はエアコンのリモコンを探して停止ボタンを押す。そして、何かを呟きながら抵抗する部下を、なんとか部屋から引き摺り出した。

 お節介かと思ったが、男はすぐに各所へ連絡をした。

 部下が以前お世話になっていたという心療内科は、無理な願いを聞き入れてくれて、これからカウンセリングをしてくれることになった。

 クリニックに行く前に、男ははたと気がついた。部下の格好だ。フリース素材の服では目立ちすぎる上、真夏の暑さで汗をかきはじめた部下を着替えさせたほうがいい。

 しかし、部下のあの部屋には戻りたくないので、男は一旦自分の家に行き、適当な服を貸すことにした。偶然にも男の住むマンションと、部下の住むアパートは近かったので、炎天下の道を急いで歩いた。



「ああ、もう、脱いだやつはそのまま置いていけ。洗っておくから」


 汗だくのフリースを玄関付近に投げ捨て、夏の装いになった部下を、再び外に連れ出す。呼んでおいたタクシーでクリニックまで付き添い、長時間のカウンセリングを終えると、一階には部下の家族が迎えに来ていた。


「本当にありがとうございます」


 そう両親に感謝をされ、支えられるように連れられていく部下を見送ると、急いで会社へ戻った。そうして、部長への報告を終えると、滞った仕事を残業して片付け、独り住まいの部屋へ戻った。


「あれは、精神を病んでいたからなのか」


 昼間の出来事を思い出し、男は身震いをした。

 あの部下にその兆候を見つけられなかったのは、自分が鈍感だったからだろうかと、玄関横の明かりをつけながら考える。



「週末、山に行くんです。そこはある噂があってですね……」


 会社に来なくなる直前にあの部下と会話したのは、そんな登山の話だった気がする。確かその山は、遭難して亡くなった登山者の霊が出るとかなんとかで、その類の話が好きな人間が興味本位で訪れるのだと言っていた。

 登山にも幽霊にも興味のない男は、締切の迫ったレポートのことを考えながら、生返事をして聞いていたはずだ。



 男はそんなことを思い出しながら、部下の着ていた服を拾い上げる。そして洗濯機に放り込もうとした、その瞬間、何かが床に滑り落ち、ゴトッと音を立てた。男は床に落ちた物に視線を落とし、見覚えのあるその物の名前を思い出す。


「カラビナ、と言ったか。確か登山で使う道具だよな」


 どうやらフリースのポケットに、そのカラビナが入っていたようだ。見た目より重量のあるその金具を持ち上げ、手のひらに乗せる。

 こんなものを使って登山をするほど、あの部下が登山家だったとは知らなかった。


「今度会った時に、フリースと一緒に渡すか」


 洗濯機にフリースを入れ、スタートボタンを押す。そして部屋に入ると、日中に溜め込んだ熱が男を包み込む。とても耐えられない暑さの室内を冷やそうと、急いでエアコンを入れる。

 そのまま、無意識に男の指が動いた。


 ── ピ、ピピピピ、ピピ


 微かに発光するリモコンの画面には、冷房の最低温度が表示されていた。





「ところで、課長の姿が見えませんね」


 すっかり体調が戻った部下は、職場復帰したことを報告しようと課長の姿を探す。

 助けてもらった時のことは全く覚えていないが、両親が感謝するようにと口うるさく言っていたので、一応お礼を言っておこうと思ったのだ。


「よくわからないけど、どうも休職中みたいなの。なんでも連絡はとれるらしいけど、出社はしていないって」


 女性社員が、書類の溜まった課長の席を見つめる。


「それは心配ですね」


 クールビズなのに半袖を着るのが嫌で、袖を捲って涼をとっている部下は、指導係に渡す資料で顔を扇いでいた。

 その様子を見て、女性社員は思い出したように尋ねる。


「そういえば、ずいぶん前だけど、登山に行くって言ってなかった? 結局行ったの?」

「ああ、行きましたよ。でも、噂の凍える幽霊には会えませんでした」

「なによ、それ?」

「なんでも冬季に入山禁止になっている山に入って遭難して、そのまま死んだ登山者の幽霊らしいです」


 そう言いながら、部下はスマホでその噂が書き込まれているサイトを見せる。

 そこには遭難者の当時の様子が、真しやかに書かれていた。遭難時に友人に助けを求めたが、そんなに切羽詰まった状況だと思わず、友人は適当に返事をして放置したのだという。そうして、延々と来ない救助隊を待ち続け凍死したと。無関心が生んだ悲劇とコメントもあった。


「この、『凍える』ってなに?」


 女性社員はサイトを読む気はないらしく、見出しの文字だけ拾って尋ねる。


「なんでも取り憑いた人間をずっと監視して、自分が死んだ時と同じように凍えさせるとか。それで衰弱させて、最終的には死に追いやるとかって」

「怖っ。絶対に会いたくないわ」


 全く興味を示さない女性社員に、なんとか興味を持ってもらおうと、登山した時のことを思い出しながら話す。


「えー? でも、会ってみたいと思いませんか? 幽霊。あ、そういえば、その山で落ちていたカラビナ拾ったんですよ。確か、記念に持って帰ってきたはず」


 その発言に、女性社員は眉を顰める。


「記念って……。もし亡くなった人の持ち物なら、ちゃんと遺族の人に返しなさいよ」

「えー。せっかく持って帰ってきたのに。でも、あれどこにやったんだろ」


 立ち話をするふたりに、部長が声をかける。


「これから課長にメッセージを送るが、何かあるか?」


 ふたりは顔を見合わせてから、首を横に振る。


「特にありません」

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