未来 14年後
「ぎゃイッ」
ソファでぼーっとしていると苦手な首筋をさっと遊ばれ、奇声がもれた。
「なに、月?」
「月じゃないよー未桜だよぅ、ねぇー?」
振り向くと娘の未桜を抱いた月が未桜にねぇー?と言っていた。どうやら未桜の手を使っていたずらをしてきたようだ。
「月はいたずらばっかだな」
「未来が難しい顔ばっかりしてるからだよ。もっとほぐれなさーい、ほら」
言いながら回り込んできた月が未桜を受け渡す。
生後3ヶ月の娘を抱くのはいまだに緊張する。なんせ小さくて、柔らかいのだ。そこに脆さを感じずにはいられない。大切に大切に、ゆっくり恐々抱く。渡し終えた月が未来の隣に座った。
いつもは月から交代した途端泣かれるのだが、今日はぱっちりおめめに涙はない。見下ろして未桜と見つめ合う。
「かわいい」
ぽつりと率直な感想。
「そうだね」
月が相槌を打ちつつ、未来の肩に頭を乗せた。
「幸せだね」
ほんとに。
月の言葉に心から頷く。
と同時に、いつも難しい顔をさせる使命が過る。
続け。
そう思う事柄が続くように、そう思えない人がいつか思えるように。続けと願い、焦がれた心が救われるように。
その鍵を未来は握っている。
現在16歳の未来の役目は科学者だ。月も同じ役目で同い年、5年前に結婚した。未桜が生まれると月は、あとは任せた、と未来に託して役目を終えた。
そして今の状況は…延々のクライマックス。
原因のウイルス?は見えた。そいつが細胞を殺すことも分かった。
なぜ大人がいないのか。
それもある程度仮説が立っている。
未来しかいないよ。
あるとき、自分の体を研究に役立ててほしいという遺書を遺した人がいて、誰がその体を使わせてもらうか話し合いになった。こういうとき、少し範疇を越えるかなというとき、こどもたちに自信はない。憧れとわくわくに任せてむやみに手を上げる人もいるが、実際には誰かの後ろに隠れる方が責任や挑戦に押し潰されることはない。そんな空気の中、仲間の一人が言ったのだ。
未来しかいない。できるのもやれるのも。
未来はそれを受け取った。実力的にも気持ち的にも自分以外いないという自負があった。
_そして今、病院にいる。
研究所での解剖後、未来が提唱した仮説が有効とされ、病院をはじめ、広く公表している最中だ。
まず後輩が改めて発見されたウイルス?や細胞について説明し、未来の番になった。
「はい、え~と…」
はっきり言おう。人前で話すのが苦手だ。マイクに何か言わないと。いや、言うことは決まっているのだが、動機でうまく発せられない。
「未来がんばれー」
小さく、平淡な声が聞こえた。はっと声の主を探すと、瑠璃色のネックレスを下げて、端っこの席にいた。口パクで早く話しなよと言われる。素っ気ないけど優しい幼なじみに励まされ、口を開く。
「では、なぜ大人がいないのか説明します」
確信めいた発言に部屋が沸き立つ。
「僕たちは先日、解剖をしました。そこで見えたのは細胞が形はそのまま中身が空になった様子です。簡単に言えば、細胞が死んでいました。そして、特にそんな細胞が多かったのが心臓をはじめとする、細胞の入れ替わりにとても時間がかかる器官でした」
何人かがそれだけである程度気付いたようだ。幼なじみもその一人だった。
「細胞の入れ替わりは歳を取るにつれて遅くなり、入れ替わる数も減っていきます。現在、感染症であると考えられているこの現象は、僕たちが生まれる前に充満していて、僕たちも生まれたときにすぐに感染しているでしょう。それでもすぐに症状が現れないのは、ウイルス?が細胞を殺す前に細胞が入れ替わっているからです。ウイルス?が細胞を殺す速度は一年や二年ではありません。その速度を細胞の入れ替わりが越えている限り、ウイルス?に侵される細胞はごくわずかです。ただし、成長するにつれ、さまざまな細胞の入れ替わりが遅くなります。その少しの差で抜かされ、弱っていく。働かなくなった細胞により、生命が維持できなくなる。それが僕たちの仮説です。」
決して忘れることはないであろう光景が浮かぶ。解剖のときの光景だ。死んだ細胞が多い部分を見て、閃いた。体や細胞について小さい時から頭に叩き込んだ知識で見た途端、無意識に思ったのだ。
遅い、と。
その無意識を慌てて捕まえて、この仮説を立てたのだ。
「部分によってウイルス?に喰われる速度も変わりますが、抜かされるタイミングはほとんど同じであると分かっています。そのタイミングが揃うのが20歳前後。他の研究所にも共有したところ、全ての研究所で理解を得ることができました」
おおと拍手が起こった。未来の方は一息に話して、ようやく落ち着いた。だがまだだ。これから始まる質問タイムに身構える。
一、二は簡単に答えられた。予想して答えを準備していたものだった。
視界の隅で、幼なじみが手を挙げた。後輩が指名する。
「それで、解決策は何かあるのですか?」
きった。
未来の緊張はピークに達した。たった一言言うだけなのに、力が要る。
未来は覚悟を決めた。
「ありません」
「お疲れ」
病院のソファでしばし休憩していると、例の幼なじみが来た。
「さっきはありがと、理実」
未来の礼は片手でさっと流された。日頃から淡白な奴だが、理実ももろいときはもろいことを知っている。その弱さを見せるのが未来でないだけだ。
理実が未来の横に座り、短いひとつしばりを結び直す。
「あそこで"ありません"って言うのも勇気だと思うよ」
こちらが気に病んでいることをさらっとフォローしてくれた。未来がただ休んでいるのではなく落ち込んでいることを見てとったのだろう。繊細さの観察眼は同時に自身も繊細なことを示す。
「ごめん」
「なんであやまるの」
理実が苦笑した。
「未来が一生懸命やってるのなんかみんな知ってるから。まあ、全力でやった人がありませんって言うのは絶望に聞こえた人もいるかもね」
未来の脳裏には何度も"ありません"と言っては溜め息をつかれる光景が浮かんでいた。
「でも、私はそうは思わなかったよ」
唐突な否定に、未来はようやく顔を上げて理実を見た。
「だって、未来が悔しそうだったから。未来は今の成果に満足していない。だから未来のゴールはまだ先にあるんだって分かった。諦めてない。だからあのとき、未来ならやるって、思った」
理実の言葉で自分の気持ちが理解できた。自分がどうしてあの一言を言うのが苦しいのか。ずっと惨めで情けないからだと思っていたけれど、そうか、
悔しいんだ。
自分の中に熱い風が吹き抜けた。
「理実」
礼は素直に受け取ってもらえない。
かわりに未来は宣言した。
「僕が未来を作る」
理実が嬉しそうに頷いた。そうこなくっちゃという風だった。
「なんでも言って、協力する。あ、代々記録した羽多さんカルテの他に関連のノートあるんだけど、持ってく?ちょっと待ってて」
未来より先に理実が動き出した。理実もそれだけ焦がれているのだ。それはそうだろう。理実には年上の大切な人がいて、悲痛なカウントダウンの最中にいるのだ。なるべく早く、未来が鍵を差し込むことは理実の幸せに直結する。それでも理実は一方的に未来を焦らせたりしなかった。
良い友達だ。
未来は理実が駆けていった方向に笑いかけた。
「ただいまー」
「おかえりー」
早目の帰宅だったが朗らかに受け入れられた。
手を洗って声のした方に行くと、テーブルで月がお茶を飲んでゆっくりしていた。ちょうど未桜は寝たらしい。自分もお茶を注いで向かいに腰掛ける。
「そういえば今日早くない?」
「病院で説明あってそのまま帰ってきた」
「あ、理実ちゃんに会えた?」
「会ったよ。助けてもらった」
「良かったね」
月は未来をわかっているので何をどう助けてもらったのかは訊かない。
「あと、」
ここで宣言しておこうと思った。月が味方にいてほしい。
「これからもっと頑張りたい。だから、月にそれを理解しててほしい」
間が空いた。
少しして、分かった。応援するね。任せた。、と言ってくれたあの時みたいに明るく背中を押してくれると思っていた。
「そっか」
月がいつもみたいに笑っていないのが気にかかった。
「未来さん」
やんわり指摘する時やおねだりする時の呼びかけだった。どちらにしろ、ふざけた時の「未来さま」ではなかったので、真剣に聞かなければならない。
「退役する気はないの?」
衝撃だった。
いや、たしかに未来は16歳で、退役の権利はある。それに、普段目を逸らしていることを言えば…あと四年だ。あと四年を月と未桜と幼なじみたちと過ごす日々もある。
それでも、よりによって、月に、
「どうしてそんなこと言うの?」
棘があるのが自分でも分かった。
月がはっと目を見開く。
この顔をさせたくないからいつもは何かあっても伝え方を工夫しているし、第一、月はあまり未来を逆撫でしない。笑っているのが好きな月は、人を逆撫でしたり、キツいことを言うのは得意ではないからだ。そんな月だから未来が棘を出したことはほぼ無いに等しい。
でも今は抑えられなかった。
「僕が頑張ろうとしてるのに、なんでそんなこと言うの?」
「そんなことって何?」
今度は未来がはっとした。
「そんなことって何?」
「…退役。」
「その中身もまとめて言ってるんでしょ?そんなことなんだね、未来にとっては」
「違っそういう日々も大切に思ってる。思ってるけど、今、僕にはやらなきゃいけないことがある。僕はただそれをやらせてほしいだけ」
「応援してって?あと四年ずっと応援?ねえ、未来は幸せ考えたことある?」
咄嗟に答えられなかった。
「月は今幸せじゃないの?」
「幸せだよ。でももっと幸せになれる。私だってそれをあきらめたくない。未来、考えてよ」
…
「考えても変わらない」
「は?」
「僕はやる。月がなんと言おうと退役しないし、頑張る。月が勘違いするかもしれないけど、知らない」
「勘違い?何それ、私がバカみたい」
「もうそう思っとけば」
溜め息混じりに突き放す。
「あ、そう。そうですか。未来は自分勝手だね。私たちのことなんてどうでもいいんだ」
「だからどうしてそうなんだよ!」
立ち上がって声を荒げると襖の向こうで泣き声が破裂した。
しまった、とそちらへ一歩踏み込もうとすると、月がすくっと立ち、恨めしそうに未来を睨んでから襖へ向かった。
とてもついていく気にはなれなかった。
お互い溜まったイライラをどうにかするために、未来は足音を乱暴にして外へ出ていった。
勢いそのまま早足でかなり歩いてきてしまった。Uターンするタイミングを失い、気持ちも整理できないまま、まだ進み続ける。_少しの期待を抱いて。
「未来?」
あっ
「伽糸!」
この辺りまでくれば幼なじみの誰かしらに会えるかもと期待していた。
「どした?未来普段ここ通んないじゃん」
と言いつつ未来の顔である程度察したのだろうか、肩に手を回して叩かれる。
「伽糸こそ、この辺じゃないじゃん」
「優芽が野菜くれるって言ったから来たんだ」
「え、いいなぁ」
「行く?」
「いくいく」
この辺は優芽の他にも二人幼なじみが住んでいるが、そっちにおじゃまするにはちょっとアレなので優芽の家に行った方がいい。
「優芽ー来たよー」
伽糸が家の中に呼びかける。
ドタドタ
ガチャっ
「ちょっと待ってて、伽糸……え、未来?」
「優芽、一瞬上がってもいい?」
「え、まあ」
「おじゃましまーす」
「おじゃまします」
伽糸の勢いに続いて上がり込む。何回も来たことがあるので、二人ともかって知ってる様子でリビングへ向かう。ソファには座らず、低いテーブルに合わせて床に座わる。
「優真くんは?」
「今日は夜の漁に出るからもう行った」
優芽はふんわりのほほんとしていて受け入れるのが早い。もう麦茶を注いで持ってきた。ちなみに優真は優芽の弟だ。
ありがとうと受け取り一口飲んだところで、伽糸が口を開いた。
「で?」
ここまで訊かずに場を整えてくれた二人だ。こぼさない訳にはいかない。
「月とケンカした」
「え、」
「めずらしいね」
二人はなんとかリアクションを抑え、続きを聞いてくれた。
とつとつとつとつと洗いざらい話す。
話し終わって渇いた喉を潤す。黙って聞いていた伽糸がうーんと唸った。
「……コメントしづらい」
優芽もうんと頷く。
伽糸が役目病で言及し始めた。
「どっちも悪い…とはちょっと違うか。どっちの考えも理解できるし、尊重したい考えだよ。多分二人ともお互いの言いたいことは分かってるんじゃない?ま、ちょっと食い違ってるかなってところはあるけど」
「食い違ってる?」
「うん、まあ、伝えることは伝えないとすれ違うってこと。素直にならないと。そのときを間違えないことだね」
そう言って伽糸が麦茶をすする。伽糸の至言は終わりらしい。まだ腑に落ちないところはあるがこれ以上はないのだろう。
「未来はさあ、月ちゃんのこと好き?」
突然優芽がきいてきた。
え、と照れつつ、さっきの伽糸の言葉を思い出して正直に答える。
「うん」
「なら大丈夫だよ」
それだけ言って優芽はコップを傾けた。興味ないのか、と思うような発言だがそんなことはなかった。不思議と、ぽんと背中を押されたような気がした。優芽が優しいことと、人を大切に想えることを知っているからだろうか。
その後は今日会った理実の話や未来が自然に避けた家の二人の話、優芽の網に掛かってた変な色の魚、残虐おままごとに翻弄された伽糸の話をして、またみんなで遊ぼうという流れになった。
どうしよ。伽糸はそろそろ帰りそうだし、僕も帰らないととは思うけど、まだイマイチ…
ピンポーン
はーいと優芽が立ち、めずらしく少し慌てて戻ってきた。
「月ちゃん、月ちゃん」
「えっ」
戸惑う未来をよそに、伽糸はてきぱき動いた。はい月ちゃんこんばんは、あ、美桜ちゃんも、ちょっと預かるね、もうちょっといていいよね優芽?、じゃ、俺たちでみてるから二人で少し歩いてきたら?行ってら行ってらー
伽糸に押し出される形で、日の落ちた道、月と二人きりになった。
「…」
「…」
「歩く?」
「うん」
とりあえず歩き出したはいいものの、気まずい空気は変わらない。
どちらが先に口を開くか、無言の攻防の末、月が口を開いた。
「なんか家であるといっつもこの辺来るよね、未来は」
「まあ、」
「で、だいたい優芽ちゃんの家上がってる」
言われてみればたしかに。優芽のおおらかさに甘えている。
「バカ」
急に罵詈雑言が飛んできた。
えっ月は優芽のこと嫌いなの?僕たちと月は園が違くて幼なじみとは異なる距離だけど、それなりにうまく付き合えていると思っていた。
と、月が未来をのぞきこんで指差してきた。
「あ、絶対分かってないね、その顔。鈍い、ほんっっとうに鈍い!だから疑うんだよ」
何言ってるかよく分からないが馬鹿にされているのは分かる。
でもここでぶつかっては駄目だ。伽糸たちに申し訳ない。
努めての棘のないよう問い返す。
「何を疑ってるの?」
「……本気で言ってる?」
月がどう言えばいいのかじたばたした。その頬が若干赤くて…
あ、その反応で気付いた。
「違うっ優芽は友達で…」
「そんなこと分かってる!」
だよなあ、そうなんだよ、月は分かってるんだよ。だからもっと、未来が言わなきゃ伝わらないことがあるんだ。
_素直にならないと。
そういうことか。というかそもそも未来があそこで素直に言えば良かったんだ。勘違いなんかで隠さないで。
「僕は月のことが好きだ」
月がぴたと立ち止まって未来の方を向く。
「月のことが大切だ。美桜のことも大切だ。ちゃんと想ってる。それだけは信じてほしい」
真っ直ぐ月を見る。
「一年、一年ください。夜遅く帰ったり帰らなかったり、月に家事とか負担かけて、そういう行動で月たちのこと愛してるって示すことが難しくなるかもしれない。でも、一年、理解してください。あと一年だけ一生懸命やりたい。一年経って何も変わらなかったら退役する。約束」
一息にぐるぐると考えてまとめたことを宣言した。月が顔を下に向ける。
「ごめんね」
月が再び意を決したように顔を上げる。
「信じてるよ。私ずっと信じてるよ。ごめんね未来。未来が私たちのこと想ってるの知ってたのに。ま、でもそれはたまに疑いたくなるときあるけど。_未来が鈍いから。だからそれについてはあやまらない」
それに関しては何も言えない。
「でも、未来ならできるって信じてたのに、私が自信なくなったのはあやまりたい。一人で思い返して私、未来に対してひどかった。未来ならできるって思ったから、ずっと信じてるから私は退役したのに、疑ってごめん。冷静になって、私やっぱり未来のこと信じていたいって思った。信じてない自分が嫌なの。私が未来のこと誰より信じていたい。だから…」
月がピンと人差し指を立てて、ニカッと笑う。
「一年、あげる。未来ならできるよ。私が信じる」
色んな人から未来ならできると言われてきた。大体それはプレッシャーめいたものだったが、月のはひたすらに温かった。
未来は月に向けて両手を広げた。
「ぎゅってしてもいい?」
「…確認とるとこヘタレだよね」
言いつつも月の方から抱きついてきた。
柔らかくて温かい大切な人からもらった一年。
無駄にしてたまるか。
それからは研究所に泊まり込み、せわしなく頭を働かせた。
それにも関わらず、事は思い通りには進まない。1ヶ月経ったところでとんざしてしまった。
予防、というか解決策で真っ先に思い付いたのはワクチンだ。インフルエンザやコロナにも使われている感染症予防のメジャーな方法だ。
だが、すぐに不可能であることが分かった。ワクチンは弱小化したウイルスを注射し、体の中に免疫をつけ、本物に感染したときにその免疫で退治するか軽症で済ますというものだ。しかし、この世界のウイルス?はそうはいかない。なぜなら既に本物に感染しているからだ。生まれたときからはびこっていて、感染して、影響が出るのが20歳ごろであるというものだ。免疫をつくるもなにも、ずっと本物が体に住んでいるのだ。そして長年、もう約70年経つが、人体の中で免疫はできなかった。
……というのが三週間の成果。
のこりは老化を遅らせたらいいのではという推察だ。一週間ほど資料をあさり、これ有力かもと仲間に発表すると「根本的解決ではなくない?」と言われた。その通りだと思った。未来にはもっと根本的解決を目指してほしいとも言われ、ひとまず老化研究は仲間に預け、未来は出発地点に戻った。
「んー」
デスクで頭を抱える。絞っても絞っても解決策が浮かばない。
_となると、やはり急がば回れか。
未来はパソコンを立ち上げ、病院から届いたファイルを開いた。名目は「羽多さんカルテ」。
やっぱり羽多さんの不思議を解決するのが近道だろう。しかしこれもずぅーっと代々取り組んできたが解明には至らなかった難問だ。
羽多さんは十年前に亡くなった。未来がまだ6歳かそこらで、死因はありえない「老衰」だった。羽多さんの体は研究に役立つよう、ほとんどそのままの状態で保存されている。未来より前の世代が、謎を解くことを後世に託し、いかに保存するかの研究に力を注いだらしい。そのため今でも綺麗に保存されている。それは誰も決定打を掴めず手を入れられていないことも物語る。
羽多さんカルテには定期的に診た記録が書かれている。内容の多くは「異常なし」。たまにレントゲンなど検査の結果がのっていて、後半にいくほど異常が増えていくが、どれも老化の一つと言えてしまうものばかりだ。
なぜ、どうして。考えるが見つからない。
本人の遺伝?性質?
特殊体質と呼んだらそれまでだ。何も収穫にならない。
細かく細かく読んで、それでも何も得られず、また1ヶ月が過ぎていった。
一週間に二、三回は家に帰る。
「ただいま」
ドアを押し開けると、玄関の靴が二足多かった。
もしや
短い廊下を抜けてリビングのドアを開ける。
「おかえりー」
「おじゃましてまーす」
「よっ」
最近会っていなかった幼なじみたちだ。
未来が集中し始めてから、幼なじみたちは頻繁に未来の家に来るようになった。未桜と遊んだり、月を手伝ってくれたりしているらしい。らしい、というのも本人たちは特に未来に何も言わないので月からきいているからだ。しれっとひょうひょうと優しい友達である。
「久しぶりっ」
気分が上がって、二人が座っているL字ソファに座る。
「元気?」
「元気元気。あ、でも天はこの前やけどしたよ」
「えっ」
「マジであれは危なかった。高熱で加工してるときにくしゃみした」
「こわっ」
「ねー、なのにわたしに隠すんだよ。手洗うときに全然袖まくろうとしないから怪しんだら案の定…」
「別に言えばいいじゃん、桗紀に」
「いや、なんか…」
心配かけたくなかったか、カッコ悪くなりたくなかったか、かな。
「そんで無理やりめくって、切手サイズ越えてたから病院行った。理実がみてくれたんだよ。二人でバカだねーって」
それはさぞ天の立場がなかったことだろう。
天と桗紀は二年前に結婚した。幼なじみの中ではずっと二人がこうなることは読めていた。それなのに少し、いやかなり時間がかかったのは肝心なときにツンデレになる桗紀と、日頃は明るくはきはきしてるくせに大事なときにモジモジする天のせいだ。天と桗紀を除いたメンツで話すときは大体、おい早くしろよあの二人、とぐちっていた。
そんな二人が交際0日でくっつくのには未来たちが一役買った。天が急に決意を固めて4人に頼んだプロポーズ大作戦とか色々あったけれど、ここで話すには長_。
「それより、未来に渡すものあるんだろ」
ふてた天が話を逸らした。
「そうそう」
桗紀が足元のトートバッグを探る。
「これ」
桗紀が差し出したのは古いノートだった。
「なにこれ?」
疑問を抱きつつ受けとる。
「わたし今管処で、使われなくなった家の整理してるの。けっこう前から手付かずで放置されてるとこ片付けて壊すか決めよう、みたいな。そのノートはね、昔の教員アパートから出てきた」
「教員アパート?」
「昔の学校の先生たちが住んでたとこ。全然使われてなくて、70年くらい放置されてた。物とか家具とかそのまんまでね、そのノートは机の上に置いてあった」
「なんでこれを僕に?」
「開いてみれば?」
桗紀に促されて古いノートを開く。
[どうして理科を学ばないといけないんですか?]
少し乱雑な字が飛び込んできた。
そのあとには落ち着いた字が続く。
[理科は絵未さんの生活の中にあふれていて…]
絵未
覚えがある。知っている。
未来は立ち上がってばたばたと二階へ行き、一人部屋の引き出しを引いた。
一通の、過去からの手紙。
封筒に入った一枚の紙は、おそらく未来よりずっと前の世代から読まれ、みんなそっともとの位置に戻したのだろう。未来も役目につき、この家に住み始めてすぐに見つけた。
見つけてから、見つけたから、この役目に没頭した。
[これから先のみんなへ。
えっと、私は絵未です。みんなの、人によってはひいひいひいひいおばあちゃんくらいになるかもしれません。
私はみんなの役目を選びました。役目が代々受け継ぐものって最近知ったんですけど…みんな、科学者で良かった?いやだったらごめんね。でも科学者はテスト受からないとなれないから嫌な人は悪い点をとってもらうとして…。まあ、みんなも楽しく懸命に生きてください。
で、ここからは科学者になったあなたへ。
まず、科学者になってくれてありがとう。うれしい。
私が科学者になった理由は、この病気で亡くなった大切な人にもらったものを世界にあげるためです。_こんなこと言ったら壮大なかっこつけだよね。たぶん本当はただ、大切な人にもらったものを抱いて想いたかっただけです。
だから私はきっと想うだけで終わります。時間が短すぎたな。結局何もできなくてごめんなさい。本当に、本当に、何もできなかった。悲しんでる人もそれでも頑張ってる人も周りにいたのに、私は何もできなかった。
だから、あなたに託してもいいですか?
私みたいに想ったり焦がれたりするだけじゃなくて、あなたはには恐れず向き合ってほしいです。目を背けたくなっても、こんなこと遠いかな、意味あるかなと思っても、進んでください。進み続けてください。どんなに周りがあきらめても、はたまた何やってんだと後ろ指さされても止まってはいけません。誰かは、あなたは、こがれて進み続けないといけません。_私たちの歩みはいつか未来に繋がるから。
私はあなに託します。]
久々に読んで、また心が熱くなった。
私たちの歩みはいつか未来に繋がるから。
偶然なのか必然なのか、この一文は未来にとってだけ二重の意味を持つ。
手紙を置いて、脇に挟んだノートを手に取りぱらぱらめくってみる。
筆跡の半分が手紙と同じだ。二種類の字が交互に並んでいる。
ぱら、
突然空白の多いページがきた。
たった一つの質問が書かれている。
[この世界から大人はいなくなりますか]
その下に落ち着いた字が揺れていた。
[いなくならないよ]
天と桗紀は夕飯を一緒に食べてから帰った。ありがとう、気を付けてと送り出してから、月とテーブルでお茶を飲む。
「桗紀ちゃんがくれたノート、なんだったの?」
「ひい……おばあちゃんとその先生の交換ノート。すごく大事なものだと思う。明日からちゃんと読もうかな」
「理実ちゃんかくれたのは読んだの?」
「うーん、はじめちょこっと読んだんだけど、なんか羽多さんの話す昔話をそのまま書いたメモみたいな感じで。とりあえずいっかなってやめた」
そっかとマグカップを持ち上げた月に思う。
「進捗どう?とかきかないんだね」
「えっ?まあ話したかったらきくよ?でも、最後の報告だけきければいいかな。ま、大体未来の様子で進み具合は分かるし」
「えっちなみにいまどんな感じに見える?」
「とんざ」
思わず突っ伏した未来を見て月がころころ笑う。
そんな月を見て、きっと月はどんな未来も笑って受け入れてくれるだろうと思う。
でももし最高の報告ができたら、とびきりの笑顔を見せてくれるだろう。
その笑顔が見たい。
研究所では相変わらず羽多さんカルテとにらめっこしている。
[変わったこと:膝が痛む、忘れっぽい、姿勢が悪くなってきた]_羽多さんが80歳のときの記録だ。もはやそれは老衰なのか病気なのか分からない。
何も掴めないにらめっこに一息つきたくなって古いノートを開く。最近は束の間の気分転換にゆっくり読み進めている。
最初の方は落ち着いていない字がつっけんどんな感じで、理科系の質問というより勉強に対する反抗に思えた。思わずくくっと笑ってしまうようなところもあった。だがだんだんと疑問の理科レベルが向上していき、きっとこの人先生に乗せられたんだなとはたから分かる。自分のずっと前を生きた手の届かない人の息ぶいた人間が垣間見えて、新鮮さとどことなく懐かしさを覚えた。
今日は何かな?
[今日、ハブに噛まれた人が血清療法で助かったというニュースを見ました。血清療法って他の動物の血を入れるんですよね。なんでそれで治るんですか?]
落ち着いた字は…
[血というより血清ですね。重要なのは抗体です。動物に毒を入れて体内で抗体を作らせ、その動物の抗体を血清として取り出して人に注入します。異なる種の血清を入れるのはリスクがありますが、緊急時はリスク承知で使う方法です。]
血清療法か。いろいろと感染や毒のまわりを抑える処置方法を調べていたときに知った方法だ。だがすぐに却下した。この病気に抗体を持つ動物がいないからだ。
何か収穫があるかも、という下心で読んでいる面もあるが、そううまくはいかない。
戻るか。
再びパソコンに向き直る。
「あっ」
スクロールしようとキーパットに手を置いた拍子、矢印の居場所が悪くて✕を押してしまった。
せっかく長くカルテを見続けてきたのにもう一度開いて場所を探さないといけなくなった。しかも閉じられた先はずらーっと似たようなファイル名が連なっていて、今どれを開いていたのかぱっと分からない。
「もぉー」
やけくそで絶対にこれではないが一番上のファイルを開く。
そのファイルは羽多さんの生年月日をはじめとする基本情報がまとめられている。大体頭に入っているつもりなのでしっかり読んだことはない。
·○○○○年●月△日生まれ
·持病なし(花粉症、スギ、ヒノキ)
·職業 宇宙飛行士
_羽多さんて宇宙飛行士だったの?それはこの世界になってからは存在しない職業だ。ただ本などでその職業がどんなものかは知っている。
小さく驚きつつ先を読む。
·両親は今世の病で他界
·右肩に傷あり
そうなんだ。直接体を見たことがないので知らなかった。
右肩に傷あり
何気なくもう一度読む。
待て。何気なくで済ますな。
なぜもう一度読んだ。なぜ。
右肩…違う、そこじゃない。
傷、傷。
あともう1コなにか引っかかる。
驚いたこと…宇宙飛行士!
傷、宇宙飛行士
そのとき、未来の中で一つの仮説が高速で組み立てられた。
急いで家に帰った。ただいまもそこそこに二階へ駆け上がる。自分の部屋の机の上、
あった。
理実からもらったノートだ。はじめだけかじって放ったノートである。
もしそうなら、もしそうだとしたら、このノートに証が挟まっているかもしれない。
椅子をうしろでに引いて座りながらノートを開く。
[羽多さんのお話
私は29歳のときに宇宙へ行きました。いきなり驚きましたか?そうです、私は宇宙飛行士でした。そのときの宇宙での出来事は私の人生で最も忘れられません。ですからその話をしたいです。
それは私にとって最初で最後の任務でした。目的は人類未踏の惑星に足跡をつけること。]
それからロケットの話や惑星に着くまでの仲間とのやりとりや生活が続いた。なんとなくそこは重要ではない気がしたので斜め読みする。
はらり
ページをめくると四つ葉の栞が落ちてきた。きっと理実のものだろう。後に残る資料に直に印を付けるとこはできないので、みんなよく栞を使って強調する。理実的にはここが一番の見所だったんだな。
[初めて踏んだ惑星はところどころ大きな岩があって砂っぽくて、行ったことはないのですが、月みたいだと思いました。仲間が全員地を踏んで、跳ねたり見渡したりしました。私もはしゃいでいました。
しかし突然、私の目の前にいた仲間の顔が凍りつきました。
反射的に私は持たされていた刃物を抜きながら振り向きました。
ー見たことがありませんでした。
私よりも大きな、狐のような、蛍光色が散った半透明の生物が私に襲いかかってきました。私が振り向きざま刃物で斜めに斬ると、その生物にとっては血らしき蛍光色の液体が飛び散りました。ですが致命傷には至らず、生物は激昂して私にかぶりついてきました。速さとパワーに避けきれず……それが私の右肩の傷です。
仲間たちがどうにか制圧してくれましたが、私は自分の血と生物の液体にまみれたひどい状態で、もう生きて帰れないと思いました。]
やっぱり。
未来はもう一度立て直す。
例えば、こんなことが考えられないか?
羽多さんが行った惑星では以前にこの世界と同じ病気が流行し、惑星にいた生物はすでに免疫を得ていた。生物を地球上の動物と同一には語れないから何とも言えないが、その免疫やらB細胞が、羽多さんが傷を負った際、生物の液体に触れ、羽多さんの体内に入った。それがうまく増殖し、羽多さんを守っていた。
つまり、羽多さんの体から免疫を見つけ出し、増殖させて接種すれば…
「月!月!」
興奮して月を呼ぶ。
「なに?ドタドタ帰ってきて…」
月は未来の顔を見るなり察したようだ。そして今にもだーっとしゃべりだしそうな未来を止める。
「いいから早く行け!私に話す時間がもったいない!」
そこからが早かった。何年も何十年もせき止められていた水が一気に流れ出したようだ。
未来が息切れしながら話した仮説がみんなに滞ることなく伝わり、こうしようああしようとどんどん物事が進んだ。
大発見もすぐに起こった。
「生物のB細胞らしきもの、発見しました!」
羽多さんから採取した血液を何年か前に作られた0,5Åの顕微鏡で観察していた仲間が叫んだ。
そしてそれがとんとんと増殖の研究をし続けていた者にわたり、「これなら半永久的に複製できる!」という言葉をもらった。それが今度はインフルエンザやコロナの予防接種を担っていた人に届き、
「注射で治せます」
大きな大きな大きな大きな一言だった。
それからは大騒ぎして喜ぶ暇もなく、注射を行き渡らせるために未来の研究所が中心となって大量生産した。それこそ帰ることができなかった。四方八方から早く早くとせがむ声が聞こえて、作らないと作らないと誰かが…と未来を研究所にはりつかせた。
ようやく落ち着いたときには、未来の仮説から半年が経っていた。
「ただいま」
約1ヶ月ぶりの帰宅。1ヶ月前も家には着替えなどを調達するためだけに帰っていたので、ちゃんと顔を合わせるのは半年ぶりかもしれない。先週一度調達で帰ったときに、二人は出掛けていていなかったが、[◯日には帰ります]と置き手紙を書いておいた。
だからきっと、
奥からばたばたと足音が迫ってきた。
未桜が寝ているリビングのドアが勢いよく開く。
ばたばたばたばた
っ
抱きついてきた月をしっかり受け止めた。
「おかえり」
帰ってきた。ようやく役目を果たしたような。
「ただいま」
もう一度、心から。
抱きしめたまま、廊下は冷えるので優しくリビングに移動させる。部屋に入ってから、再び強く抱きしめた。
「月、信じてくれてありがとう」
月がいなかったらきっと果たすことはできなかった。ひょっとしたら、やってやるという気持ちすら湧かなかったかもしれない。月と未桜と友達と、この先も長く一緒にいたいから、いるために、頑張ることができたのだ。
「信じさせたのは未来だよ。こちらこそありがとう、未来」
月が笑顔を向ける。
「これで私たちおばあちゃんとおじいちゃんになれるね」
破顔した。月のこういう切り口が面白い。
月は気にせず、未来の髪に手を伸ばして触れる。
「白髪になるのかな?」
「白髪になる前に抜けるかも」
「えっがんばってよ」
「月だってシワとかできるよ」
「しわくちゃになってもいい?」
「いいさ」
この会話が愛しい。この会話すらできなかった人たちがどれだけいただろうか。これからたくさんこういう話がしたい。どんなに歳を重ねても一緒にいたいとか、前の僕らなら贅沢すぎる台詞も吐いてみたい。
「未桜もどんな人になるんだろうね」
ああもうそれがとてつもなく嬉しい。
月の肩を抱えながら寝ている未桜をのぞきこむ。
「未だ桜ならず」
みんなに[未月]とかいいじゃんと言われつつ、大切につけた名前だ。
その名で桜の種をあげた。芽吹いて育って繁らせて、一生かけて咲く桜の種。
その桜が咲くとき、自分はもういないと思っていた。_でも、
「見れるかもね、未桜の桜」
月が未来の肩に頭を傾いだ。
なんて幸せなことだろう。
嬉しいと愛しいが混ざり合い、心が豊満になっていく。
今まで数えきれないほど叶わなかったことが、これから叶うのだ。
ー良かった。
今までの全てが報われました、報いましたとか、そんなこと一概にはいえない。だけど、たしかになにかが報われたと思った。それは未来だけでなく、かこの人たちのなにかも。
その上でここに立っていることが幸せだった。
今までどんな人がいたのだろう。何が楽しかっだろう。いつ涙を流しただろう。どれだけ立ち上がっただろう。
続いてきた世界に想いを馳せると、涙が一粒零れた。
「ん?泣いてるの?」
「ちがっなんか…」
もぉーと月が笑いながら両頬に手を添えてくれる。
なんの涙なのか分からない。
ただ、ただ、
小さくて壮大だった。
「未来ー、こっちー!」
桗紀が手を振ってきた。
「ごめん遅くなったー」
未来も走りながら手を振り返す。
16歳以上の接種が完了し、これからは徐々に対象年齢を下げて全員の接種完了を目指している。ゆくゆくは生まれた時に打つことを一般的にしたい。一度接種すれば体内で増殖して一生効果が持続することが分かっている。
今日はそれぞれが一段落ついたということで、久しぶりにみんなで遊ぶことなった。
階段を駆け上がると錆びた公園の遊具が見えた。もう危険と言われ遊具で遊ぶ人はいないが、小さいときは駆け回ったりたむろったりしていた。
「おーい、きたよー」
崖に腰掛けていた4人が振り向いた。
「未来遅い」
「ごめんって」
理実の端的な指摘に素直にあやまる。
「なあ、なんか懐かしくね?」
天が視線を前に戻しながら言う。
目の前に広がる朝方のまち。午後に予定がある人がいるので少し早めの朝から集まることになっていた。うしろから照らす太陽が温かい。
「よくここ座って話したよね」
言いながら桗紀も腰を下ろした。未来も倣う。
「ってか優芽よく間に合ったじゃん」
伽糸がとなりの優芽に言う。優芽は昼夜逆転の生活を送っている。しかもルーズなところもあるので待ち合わせにぴったりいることはレアだ。
「桗紀たちに起こされた」
「あ、なるほど」
「俺はピンポン押しただけだぞ」
「えっ押しただけってそれ以外なにするの?」
「桗紀はずかずか上がって布団ひっぺがした」
「災難じゃん」
「そうまでしないと起きないでしょう?!」
あはは
なかなか集まれなかったが、一瞬で毎日遊んでいた頃に戻った。
回帰。
ふとそんな言葉が浮かんだ。
心の家だ、ここは。僕の心は月たちのいる場所も家だから、二拠点生活みたいだ。
その後も笑ったり、小突いたり、繰り返す、繰り返す。
誰かが何かを言ってくだけて、笑い声が少し収縮した。
「あのさ、1コ言ってもいい?」
理実があらたまった様子で挟んできた。どうやら自分に向いているようだ。
「未来、本当にあり…」
「言わないで」
柔らかく、しかし反射で止めていた。
「僕に向けなくていい。今までたくさんの人が焦がれてきたからできたんだ。一生懸命生きてつないできたからできたんだ」
つながれなかったら今はない。
「僕が頑張ったからできたんじゃない。みんなが生きたからできたんだ」
英雄にしてくれるな。
それが今の未来の願いだ。自分が英雄になってしまっては、今までのつながれてきたものが全て自分の手に入ってしまう気がした。
それは嫌だ。
人に生かされてきたからそう思う。
うん、と理実も頷いてくれた。
「でも、幸せになってね、理実」
礼は要らない。みんなが幸せに笑ってくれたら礼よりも満たされる。
「もちろん」
心強い。理実の想い人は注射が間に合い、今も生きている。良かった、本当に良かった。
静かに聞いていた伽糸がふと、プラプラしていた足を止めた。
「ねぇ、ちょっとこぼしてもいい?」
前を向いたまま呟いた言葉を誰も止めなかった。
「俺、不安なんだよね。俺はこの世界しか知らないから、これから先大人になるってどういうことなのか分からない。もしかしたらそうなることで、世界が変わることで、今の世界の大事な部分が崩れてしまうかもしれない。悪くなるのか汚くなるのか分からない。こわい。そう、こわいんだ、見えなくて。知らなくて分からなくて見えなくてこわい。きっと今はない嫌なことにもいっぱいぶつかると思う。ちゃんと立ってられるかな、俺。腐らないでいられるかな」
それは伽糸の独り言にとどまらない。みんなが心のどこがで抱えているものだ。
良いことばかりじゃない。
いくら綺麗にしたくても、それだけで終わることはない。完璧なハッピーなんてなくて、必ず不安や思惑がつきまとう。
僕たちはそういう岐路に立っている。
幸せと呼びたいのに手放しでは呼べないような。向き合わないといけないのにぶつかって知るのがこわいような。
ふとさっと、これが幸せなのかわからなくなる。
そういう気持ちに駆られると、足下がぐらりと傾いで崩れそうになる。このままぱたと膝を着いた方が楽なんじゃないかと思えてくる。
でも_でも、
「わくわくすればいいと思う」
明るい声で言ったのは桗紀だった。
「きっと辛いこともあるよ。嫌な部分に当たったり、人を傷付けたり傷付けられたり、面倒なことが訪れたり。もういや!きつい、捨てちゃいたい!って、絶対いつか思う。でもね、」
桗紀がすっと間をあけた。
「それで終わらせて何が楽しいの?」
瞬間の落ちたトーンが心を打った。
「嫌だ、めんどくさい、やめたい、それ、いつまで思うの?そんなの一回思ってふぅって息ついて、もうわくわくしちゃえばいいんだよ」
豪腕、荒療治、と浮かびかけて思い直す。
違うんだ。必死なんだ。力ずくでも前を向こうとしているんだ。
強いな。
「俺もわくわくするよ」
その強い波に迷わず乗る人がいる。
「どうなんだろうな、どうするんだろうな。分かんないから知らないから、わくわくする。辛いかもしれない、きついかもしれない。でも何にしろ、楽しめるよ」
楽しめる。
知らず、口角を上げている自分がいた。
ああこの二人は本当に…。
「一緒に楽しもうな、優芽」
「そこは桗紀だろ!」
天に伽糸がいつになく激しく突っ込む。あ、天もしかして気づいてる?あとで俺も俺もって言っとこうかな。…敏感な者だけに遊ばれた伽糸だった。
「いいね、わくわく」
おそらく鈍感側の優芽が遅れて船に乗ってきた。
「私もわくわくする!」
「何かあるの?」
決意というより宣言だったのできいてみた。
「私ね、お寿司屋さんになりたいんだ。板前っていうの。好きな魚をきれいに捌いて、一番おいしくしてみんなに食べてほしい。その夢を想像するだけでわくわくする。だから叶えたらもっとわくわくするんだ」
おっとりした優芽がいつもより早口だった。
「あ、そういうのなら俺もわくわくする。ほらあの役目紙の裏に夢書くやつあるじゃん?あれ考えたの俺のおばさんなんだ。あれのおかげで今でも役目紙渡すときに顔が晴れる子がたくさんいる。俺もそうやって未来に明るくなれる子を増やしたい。そういう先生になりたい」
不安を吐いた伽糸が未来を向いた。そうやって思っている先生がいることでどれだけ救われるか、伽糸は受け継がれた感覚で知っている。
理実がくるっとこちらを振り向いてきた。
「そういえば未来はこれからどうするの?とりあえず一段落ついたでしょ」
それこそ役目紙の表に[科学者]裏に[科学者]と書いたやつだ。他のことに興味も無かったし、なんだかずっとさんざん燃えて、今はようやくその火が灯籠になって昇っていった後だ。残った燃料が少なくて、またすぐ燃えていこうとは思えない。
「一旦休もうかなって思ってる。忙しかった分家族と過ごせてないし。月と未桜との時間を大事にしたい。あと、月が応援してくれたから、今度は俺が月のやりたいこと後押ししたい」
「月ちゃん何かやりたいの?」
「うん、なんか急に『私は本当は文系なんだ!』って言い出して、漢文や古文を読み解いたりしたいらしい。目指せルネサンスとか言ってる。未桜の名前についても、ここに返り点つければ未だ桜ならずなんだよ分かる?って言われた。よく分かんないけど」
理系文系のくくりは最近月に言われて知った。昔は受験なんかがあってけっこう使った区分らしい。月に言わせると未来はバリバリの理系だそうだ。
ともかく月のキラキラした目はすごく可愛かった。
「あと月に、このままだと未桜は天くんのことパパって呼びそうだって言われたんだけど」
言われたときかなり屈辱だった。
「そりゃそうだろ。たぶん俺の方が未来より遊んでるし~。かわいいねーって声かけたらすごい喜ぶんだぜ。頬赤らめて」
「頼むから離れてくれ」
「いやだ。いい頃合いになったら未桜姫を迎えにいく」
「やめて。天でも殴るわ」
そうなる未来は想像したくもない。というか相手が誰でも平手打ちしたいかも。
はははっと笑った桗紀が脱線した話を戻す。
「じゃあ私はみんながやりたいことできるように基盤を作る!みんなが惑わないようにしっかり支えるね」
「なら俺はそんな桗紀を支えよう」
「えなんかヤダ」
みんながまた笑う。
温かかった。やさしかった。
守るべきものだと思った。
他人のことを考えたり自分を優先したり、尽くしたり甘えたり、優しかったり厳しかったり、気遣ったりわがままだったり、燃えたり休んだり、そういうチグハグが必要だと思った。
無理につややかになったら、それはきっと何かを覆っているのだ。
あ、なんだか少しわかった気がした。
「いていいんだ」
実感から漏れた呟きにみんながんー?と反応してきた。
「僕、漠然と不安だった。大人になることが。ちゃんとしなきゃとかできなくちゃとかそういう気がしてた。でも違うね。いていいんだ。いなきゃいけないんだ、こどもの僕も」
僕たちがこれからどんな人間になるのか誰にも分からない。きっと進んでいくうちに何が楽しくて何を幸せに思うのかわからなくなこともあるだろう。そういうときにひょこっと顔を出すのがこどもだと思った。
「未来、俺も似たようなこと考えてたよ」
天がにっと笑って言った。
「大人になるってなんだろうって、未来が発明してからずっと考えてた。このままじゃダメなんだろうなって思ったりしてさ。でもきっと、」
天の顔は晴れやかだった。
「大人になりすぎなくていいんだよな。こどもの俺も生きていていいんだよな。そう思ったら楽になった。未来が楽しみになった」
たとえばこどもが「チグ」で大人が「ハグ」だとしたら、僕たちはいつまでもチグハグだ。変わるとしたらチグ(ハグ)から(チグ)ハグみたいな、その程度で。
それでいいんだ。
大事なのはそのチグハグを認めて受け止めること。チグハグをさらけだせること、だせる人がいること、その方が大人になるのに必要なんだ。
チグハグのままでいい。
ふっと心が軽くなった。
「そりゃそうでしょー。わたしは天がクールでダンディになる姿はとても想像できない」
「たしかに」
「おい理実、ちっちゃい声のたしかにが一番くる」
「私も自分がてきぱきしたしっかり者になってる姿は想像できない」
「優芽はそのままでいいじゃん」
「うんそうそう良さ良さ」
おどけた会話が弾む。
_いた。
軽くなった心が温かくなった。
_いなくならないよ。
あ、もしかしてそういう意味でもあるのか?
「ちょっと暑くなってきたね」
理実がのびをした。背中にあった太陽は天上に昇りつつある。
「天この後予定あるんでしょ?時間大丈夫?」
「あ、そろそろかも。石が届くんだ」
「どんな石?」
「ペリドット。澄んだ緑色が綺麗なんだ」
「へぇー。そういえば理実のネックレスの石もすごいきれいだよね」
「お母さんがくれたの。なんだっけ、ラピ、ラピ…」
「ラピスラズリだろ?和名はたしか瑠璃」
「そうそれ」
話ながらもみんなゆっくり立ち上がっていく。
「うおこえー、立ったらめっちゃ高所!」
「伽糸さっきまで足プラプラしてたじゃん」
「立つと座るは別」
「たしかにけっこう高いね」
「これ身長高い人の方が怖いのかな」
「じゃあ天?」
「俺全然だけど」
立ち上がって僕らのまちを見下ろす。
ここで、大人になった人も、なれなかった人も、これからなる人も、生きてきた。
優しく風が吹いてきた。風を受けようと小さく手を広げると、となりの手に当たった。同じ動作が6つあったらしい。照れ笑いしながら手をつなぐ。
目を閉じて風に合わせて息を吸ってみる。
ー
ぎゃイッ ぐえっぷッ
私、不安なんだよね
みんなで生きていくんだよ
それがわたしたちの役目でしょ?
うっそぴょーん!
照れてるの?照れてない!
ずっと大好きです。
っしょーもな!
俺はこうありたいんです。
いいかな?
いなくなっても大好き
痛!かわいそうでしょ?
それが本当の役目紙だよ
ー
風とともに運ばれてきた声と情景。
みんなで回った世界の証。
息を吐くのと同時にゆっくりと目を開ける。
光が飛び込んできて目をすぼめそうになる。でも決して閉じないで見る。
そこには眩しいくらいのまちが、
いや、
未来が広がっていた。
後書きを付けるか迷ったのですが、私にとって特別な物語なので少し付き合っていただけると嬉しいです。「大人なyoung」を通して、自分の書いた物語が初めて人に届きました。それまでノートに書いて終わっていた物語が自分の知らない誰かに届く。とてもわくわくして、こわかったです。初めて投稿した夜は、頭が緊張と高揚と不安と楽しみで冴えてしまい眠れませんでした。どうか楽しんで読んでもらえたら、願わくは読み終わって何かを感じてくれたら…望みすぎですね、ただの文章好きの端くれが。思ったより長くなってしまいました。また書いたらよろしくおねがいします。