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大人なyoung  作者: 明日
5/7

(5)理都 13年後

 無力。そして悲しみ。

 抱えきれなくなっても投げ出すところがない。

 _投げ出す人がいない。

 首元のネックレス、それから左の指環に触れることしかできない。

 今日もまたそうして

 「先生、お願いします」

 一生慣れず、板に付くこともない名称で呼ばれ、理都(りつ)は立ち上がった。

 歩きながら感情を整理する。整理、といいつつやることは押し込みだ。

 何も窺えない顔を作って部屋に入り、ベッドへ向かう。そして形だけでも脈に触れる。



 家に帰り荷物を置くと、理都は真っ先に一人用の深緑のソファの前に座り込んだ。

 ソファには座らない。その場所は私のものじゃないから。

 ただもたれて、身を預けきる。

 もう物理的にしか預けられないんだよ、まったく。

 心の中で吐いても何も起こらない。

 しばらくボーッとしてから理都は体を起こした。

 夕飯の準備するか。

 それは半分義務のような家事だが、一人だとことさら面倒くさい。

 とりあえずシンクで手を洗って振り向く。

 「わ、」

 「反応うっす」

 「一言あるでしょ、入る前に」

 「いいじゃん。泥棒じゃないし」

 「泥棒は一言言わない」

 「まぁ、ハイ、姉ちゃん」

 理努(りつと)がテーブルに保冷バックを置く。

 「三日分です」

 「助かる。ありがと」

 中央館理処生活保安部に所属する理努は料理上手で、よく差し入れをしてくれる。特にここ一年は1ヶ月の半分の食事は理努作だ。

 「帰ってきてから一時間は経つはずなのに何もしてなさそうだな。またあそこ座ってたの?」

 見抜かれている。弟はチョロくない。

 「あそこ座っても泣いてないのが毎回不思議なんだよね」

 あ、そこまでチョロくないわけでもないかも。

 「別にいいでしょ。ほら帰んなっ、奥さん持ってるよ」

 「ねぇ、姉ちゃん?」

 なに、と言いつつ次に言われることは分かる。

 「一緒に住まない?」

 「…何回言っても変わんない」

 だから早く背中押し出して帰ってほしかった。

 「でも一緒に住んだら毎日柚理(ゆうり)のことも迎えにいくし、姉ちゃんだって結婚する前まで住んでた家なんだから使い勝手でストレス感じないだろ」

 柚理。その名前を出されると揺らぐ。

 役目柄、ナイトドクターとの交代で夜間の役目はないが一般よりも長い12時間つとめは基本である。8時に行って20時に帰ってくる。家事もある。そのサイクルの中にうまく娘を入れられず、娘は園に預けきりで休日だけ目一杯遊ぶ生活になっている。

 きっと柚理には無理をさせている。

 それでも

 「私はこの家にいたい」

 わがままだってことは分かってる。知っていながら自分の理想を推すママでごめん。

 でも謝ってでも私はここにいたい。

 「柚理のことは私がちゃんとできるから。理努は自分のこと考えな」

 理努はふてたようにうつむいた。

 「でも…この家にいたら姉ちゃんは誰にも甘えられない」

 理都は固くなった。

 「どこ行ったって甘えられないよ、もう」

 理都の空気を悟ってか、理努が帰る方向へ向く。

 本当の大人ならこれ以上詰めはしないのだろう。

 でもここに大人はいない。

 だから最後に、最大の言葉を投げられた。

 「お澄まし姉ちゃん、柚季さんはもういないんだよ」



 お澄まし姉ちゃん。

 それは理努が理都に対してよく使う表現だ。特に皮肉で。

 いつからかと遡ると、多分理努が「おすまし」という言葉を覚えてすぐだったと思う。悔しくも、それに痛手な顔をした理都も覚えているのだろう。

 だって、仕方ない。

 小さい頃から理都は人見知りで、家族と園で別の顔を持っていた。両親の前では甘えん坊で無邪気だったが、保育士や友達の前では人見知りが邪魔をしてどこかツンとした性格になってしまった。

 小さい頃はそれでよかった。

 園でどれだけいい子を頑張っても、家に帰れば甘えられた。ママは明るくて、パパは優しかった。パパは藍色の綺麗なネックレスをくれて「どこにいっても理都の味方だよ」と言ってくれた。

 両親以外には理都の澄ました性格が浸透していき、理都も特段苦ではなかった。

 _両親が亡くなるまでは。

 理都が5歳になったばかり、園からパパと帰ると近日寝込んでいたママはきつく目を閉じて動かなくなっていた。姉弟を脇に抱えてママの頬に手を伸ばし涙を溢したパパも、数ヶ月後、後を追うようにいなくなった。

 それは理都にとって、甘える場を失うことでもあった。

 園の先生に泣いていいよと言われても、今さらどうしがみついて他人に甘えればいいのか分からなかった。

 理努に対してもそうだ。

 しっかり者のお姉ちゃんの位置付けがほしかった。そうすれば理努は甘えられる。理努もシャイだから甘えられる人は少なかった。

 無意識に、そうすることしかできなかった。

 園を出て、役目紙に従って病院に来て勉強を始めても、それは変わらなかった。

 そうしていくうちに理都のお澄ましは固まっていった。

 しかし、それを溶かしたのが柚季だった。

 


 「あっセンセー」四人部屋の前を通りかかると明るい声が聞こえた。

 呼んでいる風だったのでとりあえず中に入る。

 「なに、詞乃(しの)ちゃん?」

 ぜんそくで何度も運び込まれている7歳の詞乃ちゃんは病院に慣れていて、みんなに親しまれている。

 「みてみて、これさくらちゃんが教えてくれたの」

 「わぁすごい、かわいいね」

 裏紙を正方形に切って各部屋に置いてある飾り気のない折り紙で、かわいらしいピアノが折られていた。

 「しのがね、家にあるピアノ弾きたいなーって言ったら、さくらちゃんが作ってくれたの。しのも作りたいって教えてもらったんだ、ねー?」

 詞乃ちゃんが隅のベッドのさくらちゃんに声をかける。もたれて座っていた詞乃ちゃんの2コ上のさくらちゃんははにかんで頷いた。

 「すごいね、さくらちゃん」

 自分の顔はひきつっていないだろうか。

 さくらちゃんは手遅れの癌で入院している。自宅で痛みに倒れていたところを姉に発見され、理都が診断したときにはもう全身に転移していた。

 家に帰る?ここにいる?

 なるべく柔らかくかけた問いはそれでも十分酷だった。

 ともだちといたい。

 掠れた声をきいて、ぜんそくだろうが盲腸だろうがさくらちゃんと仲のいい子は同部屋にすると決めた。理都がやりくりしてかなり思い通りになっている。感染症は怖いがさくらちゃんと優先順位の確認はできている。

 「先生ー手空いたら自習みてくれる?」

 「分かりました」

 先輩に呼ばれた理都はじゃあねと部屋を後にした。



 「ちがう」

 「えー!」

 「もう一回」

 内科の自習室である。

 12歳までの子は科に分かれて毎日ひたすら専門知識を叩き込む。朝夕学校は義務教育とされるが医師、看護師、薬剤師、科学者は免除になっている。朝夕学校で習う範囲を2年で詰め込んで、専門知識の余裕を作るためだ。実習を除き、基本は自習である。たまに手が空いたら見回りがてら教えにいく。

 その頃は理都も黙々と知識を吸収していた。やらないと使えない、やらないと役に立てない。動き回る先輩たちを見て常に鼓舞されていた。

 必要以上は話さず、ただひたすら勉強に向かっていればいい環境は楽ともいえた。愛想が少ないお澄ましは健在だった。

 行って勉強、帰って勉強。

 その日々に色が、しかも桃色が射すとはあの頃思ってもいなかった。



 「りつちゃん、教えてあげようか?」

 4歳歳上の柚季が自習室で初めて話しかけてきた。出来ない方ではななかったので先輩たちにもほったらかされがちで、なぜわざわざ話しかけてくれたのか謎だったが、ありがたく受けると、その後もまるで専属のように教えてくれるようになった。

 そのまま半年が過ぎる頃、柚季ら先輩の話し声が漏れ聞こえた。

 お前まだいってねぇの?

 くっ4がデカイ

 言い訳だ

 違う、考えすぎて言ってる

 早いって?

 …うん

 延ばした分、短くなる。(くく)れ。

 ウッ

 そのわずか三日後だった気がする。

 「りつちゃんが好きだ。付き合ってほしい」

 夕刻のナイトドクターが来る前の自習室。

 真っ直ぐな告白を理都は断らなかった。

 人に好きと言われたことも、恋が自分に降ったことも初めてだった。そのときは初めての特別感が強く、柚季に対しての好意はよく分からなかった。

 だが、それはすぐに鮮明に分かった。

 柚季は優しく、誰にでも柔らかく話した。その優しさが理都の前では甘さをはらむ。無闇に触れてはこない。いつも理都の表情をうかがって大切にしてくれた。

 そのまま一年が経ち、理都は11歳、柚季は14歳になった。

 誕生日の次の日だった。

 きっと、一生忘れない日。

 いつものように夕刻の自習室。理都はノートに向かい、柚季は机の教材を適当にパラパラしていた。

 パラパラパラパラ

 何気なく_

 「いいかな?」

 なにが、と訊く前に足された。

 「俺4も歳上だけど。理都学び終えるとき16だけど。長くて20として4年理都をおいていくことになるけど。大事にするだけ大事にして最後悲しませるけど。俺の知らないところで理都を孤独にさせるけど。知らないところでさみしくさせるけど。散々好きって言っといて良い逃げみたいにいなくなるけど…」

 柚季がロボットのように動かしていた手を止めて顔を上げる。

 茶髪気味の柔和な顔。

 「結婚したいって言ってもいい?」

 耳に心地良い優しい声。

 柚季が慌てて立って椅子を理都の横に引いてきた。隣に座ってのぞきこまれる。

 「なんで泣きそうなの?」

 どうしようか迷って上下した柚季の手は理都の頭に落ち着いた。

 理都の方は泣き癖がついてなく、人前で泣くのもいつぶりで、涙は出そうなのにどうやってこぼせばいいのか分からない。両親がいなくなってからずっと泣けずに堪えてきたように、唇を噛む。

 「泣きそうなら泣きなよ」

 柚季がついに言った。

 それくらい決壊しかけているのに、あの頃からの澄ました呪いが解けない。

 しょうがないな

 柚季が呟いて、いきなり理都の両頬をつまんだ。

 …なに?

 「痛いだろ?つねられて痛いだろ?」

 痛くはない。柚季は理都に触れるとき常に加減している。

 首を横に振ろうとした理都を柚季は逃がさない。

 「痛いから泣け。痛みで泣くのは甘えじゃない。自然の摂理だ。ほら、玉ねぎ切ってたら涙出るだろ?」

 そうか。

 この人は解こうとしてくれている。許そうとしてくれている。

 理都の凝り固まった心を溶かしてくれる。


 この人の前ならこんなにも素直になりたいと思える。

 

 一粒落ちる前に柚季にしがみついた。

 「おそいよっ早くしないとどんどん短くなっちゃうのに。言ってもいい?とか、ダメなわけないじゃんっ私は先のさみしさより柚季との時間がほしい。なるべく長く柚季と一緒にいたい!後で悲しくなってもあのとき幸せだったから仕方ないかって思えるくらい、柚季と幸せに過ごしたい!」

 語尾に!がつくような言い方も、声を殺さない泣きじゃくり方も久しぶりだった。

 柚季が理都の頭と背に腕を回した。体がぎゅぅっと締め付けられる。

 「ごめん」

 幸せになろう。

 泣きすぎて言葉を発することができず、理都は柚季の腕の中で何度もうなづいた。

 なだめるようになでるように、柚季が髪に触れ続ける。

 しばらくして理都の泣きがだいぶ治まり、少し不規則な息切れだけが残った頃、柚季が口を開いた。

 「たぶん忙しくて式開くの難しいと思うからさ」

 ここでいい?

 再びの確認だがさっきとは熱が違った。

 柚季が背に回していた方の腕を解き、理都の(おとがい)に手を添えて腕の中で上を向かせた。

 誓いのキスを

 重ねた唇が長かった。

 いつもは理都をうかがいながら恐る恐る加減する柚季が、今日は途中で目を閉じて、躊躇を振り切った。

 関係の変化は柚季の中でラインだったらしい。

 甘くて優しくて柔らかい。

 それは生涯で数え切れるキスの三回目だった。



 「ママー!」

 舌足らずな小さい女の子がころころ走ってくる。

 そこにちょっとの段差がっ

 _などといちいちヒヤヒヤしてしまう。

 ぐっと堪えてしゃがんで両手を広げる。

 「柚理!」

 約一週間ぶりに会う娘はほんの少し背が伸びたように思えた。

 柚理。

 分かりやすく柚季と理都がつながった宝物は、髪色こそ理都に似て真っ黒な黒髪だが、顔立ちは優しく柚季の雰囲気が漂う。

 ぎゅっと抱き締めると柔らかい。

 「理都ちゃん、月曜日の朝預けにくるでいい?」

 伽織(かおり)さんが確認してくる。

 今日は金曜日の夕方で、病院が終わってそのまま園に来た。明日は午前だけ診療があるが理努に預かってもらい、日曜は柚理と思いきり遊ぶ予定だ。

 「はい、お願いします」

 理都は2歳の娘と手を繋いで帰路についた。



 無心で柔らかく茹でたブロッコリーをしゃぶる柚理。好き嫌いは少なく、野菜もよく食べる。特にブロッコリーはあげると延々(えんえん)にガジガジして終わりがない。

 さすがにそろそろ多くないか?

 「それでおしまいね。終わったら一緒にお風呂入ろう」

 「イヤっ」

 おっとイヤイヤ期か。

 だが、病院にもそういう子がいるので動じない。

 自分より小さい子に接するのは性格もあって苦手だったが、柚季にいろいろとアドバイスをもらい、今ではちゃんと切り換えて接するとこができる。同期や先輩の前では出ない愛想が多少は出るように。

 でも愛娘の前ではアドバイスはいらなかった。

 自然と大切に扱える。生まれたときから愛情が湧き出てきた。すると、他の子への接し方もかなり分かるようになった。

 「入らないと頭くさいくさいだよ」

 「イヤっ」

 もうブロッコリーは食べ終わっている。

 いやなら意地でもちびちび食べればいいものをそういうところは至らなくていじらしい。

 「早く入ろう。ねんねの時間になっちゃう」

 「イヤっ」

 ちょっと理都の側も溜まってきた。時刻は7時過ぎで8時には柚理は完全に眠くなる。その軟体を無理矢理お風呂に入れて歯磨きをするのは骨だ。いっそ寝てくれた方が楽だが、その合間にいられるとくずりが余計に激しくなる。

 抱っこしようと手を伸ばしたら振り払われた。

 そして氷の理都が出現する。

 「そ、じゃあママ先入って寝るわ」

 突き放して踵を返すと最大級の「イヤー!」が飛んできた。涙混じりだがなお振り向かない理都はとことん容赦がない。

 「ゆうりも入る!」

 いつもは高くて一人で降りるのを怖がる椅子から飛び降りて、理都の膝裏に抱きついてきた。

 もういいか。

 「じゃあ一緒に入ろ」

 そのあとは自分で服を脱ぐだのボタンをとれるだの悶着はあったが、時に待ち時に気付かれないよう手を貸しながらドライヤーまで辿り着いた。

 こういうとき時々思う。

 柚季ならどうするのかなって。

 理都のやり方をみてどんな顔をするのか。終わった後に二人きりで何を話すのか。どうやって柚理の笑顔を引き出すのか。その笑みを見て柚季と顔を見合わせて二人も微笑んで、柚理を真ん中にして手を繋いで歩いて、転びそうになった柚理を二人で慌てて立て直して、おっとってまた笑って、ずっとずっと歩いていきたかった。

 「あちゅいよ、ママ」

 ぼーっとして柚理の髪の一点にドライヤーを当てっぱなしにしていた。ヒヤリとする。

 「ごめんっ。柚理、やけどしてない?」

 「だいじょぶ」

 小さな頭が心強くうなづく。

 二度はヒヤリとしないように注意してドライヤーを終えた。

 仰向けで歯磨きをしてあげていたが、最後の上の奥歯に至る頃には柚理の目がうつろになっていた。

 その限界を愛おしく思い、だっこで寝床に連れていく。

 「おやすみ」

 布団をかけて軽くとんとんするとむにゃむにゃしながらか細い返答が。

 「おやすみ」

 柔らかくその表紙を見つめていたが、理都にはまだやることがある。

 寝室を抜けてリビング兼キッチンに戻る。夕御飯のお皿を洗い、洗濯機を回し、部屋干しの衣類をたたみ、明日の朝ごはんを軽く用意しておく。

 疲れを感じる。

 今日も病院はあったわけで、その上二人分こなしたわけで、得意とはいえない家事もやったわけで。

 でも疲労と思いたくない。

 その分愛おしくて大切で生きがいがあるから。

 それに疲れたとか言ったら理努に正論を叩き込まれる。

 _一緒にいたときは何でも二分だったのにな。

 不意に目頭が熱くなって慌てて日課に移る。そんな脆さにまだなんだと思い知る。

 理都は、お風呂に入る前に外して柚理の手の届かない場所に置いておいたネックレスを取ってテーブルに腰掛けた。手近な引き出しを引いてきめ細やかな布を取り出す。

 ネックレスの先、瑠璃色の小さな宝石をつまんで丁寧に拭く。

 繊細で綺麗で不思議と落ち着く色の石の名前は忘れてしまった。

 それでも愛情が詰まっていることだけはずっと覚えている。_左手の指環とは少し違う愛情が。

 不思議なものだと思う。パパが作ったわけではないのにそれを渡したらそれはもうパパのネックレスで理都のものだ。作った人の顔など知らないで、このものは違う人によって成り立っている。

 指環だってそうだ。自分たちで大切に作り上げたわけではないのに、そこに存在するのは作った人の功績ではなく二人のしるしだ。

 きっと人を想える誰かが作ったんだろうな。

 明るかったとか、優しかったとか、そういうことは分からないけど、想いがのっていることだけは分かる。

 愛、恋、守りたい、伝えたい、側にいたい、大切にしたい、されたい。

 重ねられた想いは綺麗で、理都を落ち着かせる。

 ネックレスに触れ、指環に触れる。

 もう熱を感じられない愛に触れる。

 両方、ひんやりしていた。



 「朝だよ、ママ!」

 ベッドでジャンピングされてふにゃふにゃと起きる。寝起きは多分柚理の方がいい。

 小さい子は朝型で青年期は夜型になるというから理にかなっている。

 だけどそういえば柚季も朝が強かった。毎朝、先に起きるのは必ず柚季で、しかもほどよい時間に理都を起こしてくれた。「理都ー朝だよ」柔らかく声をかけられても起きようとせず頬をつつかれて、ようやく起き上がっていた。すると柚季はよく起きられましたと言わんばかりにさらりと寝癖のついた髪を撫でた。苦手な朝が大好きだった。

 _いつか柚理もそうやって誰かを起こすのだろうか。

 朝ごはんは一人の時には絶対にしない焼き魚にした。

 「おさかなほねあるからイヤー」

 できる限りのむしって崩してからあげたつもりだったが小骨が混じっていたらしい。

 ささっちゃうから出すんだよーといいつつ教育を挟む。

 「優乃ちゃんが一生懸命とってくれたお魚、簡単にイヤとか言わない。優乃ちゃん悲しむよ」

 優乃ちゃんは理努と同い年で漁をしている。弟つながりでたまに魚のお裾分けをくれるのだ。

 好き嫌いはあってもいいし、イヤと言えるのも大事だと思う。でも、今はなるたけ「嫌い」を少なくしたい。

 「ゆのちゃん泣いちゃうのはイヤ」

 やさしいおねえちゃんのゆのちゃんが理都は好きだ。

 好き嫌いもあるが一番はうわべだけで嫌いとか言わない人になってほしい。それと、好きな人たちにやさしくできる人になってほしい。

 でも結局はどんな要望も差し置いて健康でいてほしい。

 「柚理、今日はなにして遊ぶ?」

 頑張って魚を口に運び始めた柚理を見てから、話題を変える。柚理はパッと顔を上げた。

 「おそといきたい!」



 外は雲がぽんぽんと散っているいい天気だった。

 手を繋いでとことこ歩きのブースに合わせる。

 「あ、ママ止まって!」

 「え?」

 「ありさん踏んだら雨降るんだよ」

 「物知りだねぇ」

 知っていた迷信もこの子が言ったら真偽なんてどうでもよくなる。

 「でも雨も悪くなくない?」

 「えーお空が泣いてるみたいじゃん」

 「空だって泣きたいときあるんじゃない?それに雨降らないとお水が飲めないよ?」

 「そうなの?じゃあ雨にもありがとうだね」

 「うん」

 「でもありさんつぶすのはかわいそう…」

 「たしかに。自然に降ればいいのよ、自然に」

 うちの子はよくしゃべる。園の先生にもこの歳でこんなにすらすらたくさんの言葉で話せるのは珍しいと言われた。きっと柚季が読み聞かせ熱心だったからだろう。同時に、これくらいしかしてやれないと嘆いていたが。

 「理都?」

 柚理の挙動に気を配って狭まった視野の外から声をかけられた。

 「光紀!」

 久しぶりにテンションが上がった。

 中央管理処で奔走している幼なじみだ。常に駆け回って明るさを振りまく自慢の友達には、互いの忙しさで滅多に会えない。

 「元気?てか半年以上会ってないよね、わたしが家出てから」

 「そうだね、ギリギリ生活範囲重なんないんだよね」

 光紀は今年結婚して相手の家に住むことになった。そこそこ遠くて生活用品工場などが別々になり偶然出会う機会がぐんと減った。

 「柚理ちゃん、久しぶり。分かる?」

 何度か遊んだこともあるのだが、柚理は理都の後ろに隠れてしまった。

 「覚えてないかぁ。まぁこんなにちっちゃかったもん」

 「柚理、隠れなくていいんだよ。ママの友達の光紀ちゃんだよー」

 なおも出てこない。

 光紀が吹き出した。

 「人見知りなとこ、理都そっくり」

 たしかに。自分もよくママやパパの後ろに隠れていた。

 理都は柚理の頭をなでた。

 「そういうことは柚季に似てほしかったんだけどな」

 柚季は人懐こく、どんな患者さんも心を開いていた。真面目に向き合うことしかできない理都が焦がれた長所だ。

 「いいんだよ、人見知りでも。きっと理都ちゃんが心を許せる人がいつか現れるから。そのときだけ肩の力抜ければ十分」

 光紀のの言葉は理都にも深く実感を持たせた。

 自分も心を許せる両親や柚季の前以外では肩肘張って過ごしてきた。失敗しないように、イライラさせないように、力んで凝って家に帰って力を抜いていた。

 今はどうなんだろう。

 一人の家に帰って、多分、力は抜けている。

 でもそれ以上はない。

 至れり尽くせりやってくれる人も、充電させてくれる人もいない。週に一回柚理に会うのが唯一の栄養補給だ。

 そう思うと、あの頃の自分は幸福の摂りすぎだった。 

 蓄えたものはいつまで保つのだろうか。

 「理都?大丈夫?」

 少しぼーっとしていた。柚理まで顔色を窺ってくる。

 「あっ大丈夫大丈夫。ごめん」

 「疲れてんの?最近大変?」

 「んーまぁいつも通りかな」

 至福の時間にはあまり役のことは考えないようにしている。役目柄重たいときもけっこうあって、その姿を振り撒きたくないからだ。特に柚理といるときは難しい顔をしたくない。

 でもつつかれると考えてしまう。

 少し冴えなくなった表情を光紀が読んだ。

 「あっごめん。わたし晴くんとこになべもらいにきたの。時間言ってあるからそろそろ行かないと。また遊ぼうね!」

 「うん。光紀元気でね!」

 中央管理処を走り回って鍛えあげられた俊足の背中に手を振った。

 見送ってぱたと手を下ろしたが、余韻が残っていた。

 そう、いたっていつも通り。



 思い浮かぶのは…さくらちゃん。

 ありったけの鎮痛剤、もしもの対応の指示、連絡経路、でき得る限り置いてきたが不安は拭えない。いつ呼び出されてもおかしくない。

 _こんなことしてていいのかな。

 引き留められることはなかった。みんな柚理を知っていて土日は必ず休ませてくれる。ただ明日と明後日の担当は○○ですと伝えた時のさくらちゃんの姉の顔が焼き付いて離れない。

 私たちも誰かの子どもで誰かの恋人で誰かの親だ。それは患者含め全員が分かっている。…頭では。

 でもそんなこと心は分かってくれない。それは自分も然り。

 「ママ?」

 昨日掴まれて引き留められそうになった手を柚理が握った。

 理都はふるふると考え事を解いた。

 「ごめんごめん。行こっか」

 今は柚理。

 しばらく歩くといつも足を止める原っぱに着いた。程よく田舎な地域なのでこういう場所はままある。公園よりも豊かに遊べるところもあるから無下に遊具も置かれない。

 「あっよつば!」

 早速柚理が手を離してしゃがみこんだ。

 「いっぱいあるよ!」

 「ほんとだねー」

 理都も隣にしゃがむ。

 ちらほらシロツメクサが混ざった緑の絨毯をのぞくとぽつぽつ四つ葉が生えている。

 「よつば見つけると幸せになれるんだよ」

 先生に教えてもらったのだろうか。自慢気に話す様子が微笑ましい。

 「そうなんだ。じゃあ柚理は幸せになれるね」

 「うん!ママもね」

 そうだね。と、言おうとした声が掠れた。

 これより、あのときより、幸せになれることがあるだろうか。

 柚季がいて、柚理がいて、その小さな輪に自分もいる。笑えない日でも温かさだけはあった。

 「ママはどうなったらしあわせ?」

 まさに今考えていたことを四つ葉を摘みながら何気なく柚理に尋ねられた。

 「う~ん」

 困って間があく。

 「柚理はさ、パパのこと覚えてる?」

 「うーあんまり覚えてない」

 だよね、赤ちゃんだったもんね。

 「ママはね、パパのこと大好きなんだ」

 「いないのに?パパはいなくなってママをあんなに悲しくさせたのに?」

 それは覚えてるんだ。

 思わず苦笑する。未熟な記憶に深く刻み込まれるほど、自分はこの子の前で悲痛になってしまったらしい。

 「うん。いなくなっても大好き。ずっと好き。それで、柚理のことも大好き。だからママは大好きな二人と一緒にいる時間が一番好きなの」

 「柚理もママのこと好きだよ」

 「ありがとっ」

 やみくもにかわいくて抱き締める。

 柚理が腕の中で体をよじった。

 「でもごめんね。柚理、パパのことはよく覚えてないから好きなのかわかんない」

 「うん、いいよそれで」

 「だけどママの好きなひとだから、きっと柚理も好きになると思う」

 「そっか。喜んでるよ柚季」

 「だからもしパパが現れたらママと取り合いになる」

 ん?話の矛先は?

 「そしたらママは柚理にゆずってね」

 「へ?」

 「だってママのほうがおっきいから柚理みたいなちっちゃい子にゆずってくれるでしょ。おおきいこはちっちゃいこに優しくしなきゃいけないんだよ」

 なんだ、理知的な論破は。この子幾つだ。誰に似たんだ。

 「嫌だよ。ママは譲んないよ」

 こうきたら同じ目線で返す。いつも飄々と見下ろしていれば良いわけではない。対等に成長していけばいい。

 「えーなんで?ママのいじわるー」

 「だってママの方が先に好きになったもん」

 いじわるーに、だって結婚してるもん、もう両想いだもんといちいち返しながら手を繋いで帰った。

 摘んだ四つ葉は押し花にした。

 栞にでもしようかな。いつか柚理が使うだろう。



 それは朝、柚理が起きるよりも早く鳴った。それに侵された耳は目覚ましより敏感に反応した。

 「はい」

 「来てくれる?」

 「分かりました」

 担当を渡してきた一年上の先輩との短い会話から怒涛に動き始めた。

 眠気眼の柚理を着替えさせ、おもちゃと絵本をトートバッグに詰め、徒歩3分の弟の家に預ける。理努はいつも引き受けてくれる。

 「いいけど、姉ちゃん大丈夫?」

 「慣れてるから。柚理ごめんね、いい子にしててね」

 「うん。ママいってらっしゃい」

 「行ってきます」

 さっぱり急ぎ足で去る理都に理努は何か言いたげだったが気にせずドアを閉めた。

 その足で病院に向かう。



 ロッカーで白衣を羽織って、病室に行く前にすれ違った先輩に状況をきく。そうですかとはいのみの相槌で済ませ、足早に病室へ向かう。

 扉の前で一呼吸ついてからゆっくり開ける。中にはさくらちゃんの姉と看護担当が一人いた。

 「点滴だけ入れました」

 「うん、ありがとう」

 口調でそっと退室を促す。

 もう治す段階ではない。痛みをなるべく小さくすることしかできない。既に部屋は個室に移動している。

 理都より一つ年下の姉は朦朧としているさくらちゃんの手を握っていた。その姉が眼差しはさくらちゃんに向けたまま、ぼそっと呟いた。

 「先生どうして治せないの?」

 ひんやりと体が冷えた。

 なんで治せないんですか

 なんで白衣なんか着てるんですか

 なんのためにいるんですか

 何度もそういう目をされ、言われてきた。

 私だって分からない。あなたは医者になりなさいと役目紙をもらい、勉強してここに立っているだけだ。難しい手術は禁止されていて、ただ薬を出すことしかできない医者になっただけだ。堂々と医者なんて名乗れないし、自分でも思っていない。

 それなのに求められることは重く難題だ。できませんと言うことも逆上して歳の近さで乞うことも許されない。

 「さくらちゃん!」

 誰かが呼んだのか詩乃ちゃんが駆け込んできた。

 「詩乃ちゃん走っちゃダメだよ」

 注意は無視され、詩乃ちゃんは軽く咳き込みながら姉と反対側に跪いて手を握った。そして小さな口を開きかけ…閉じた。束の間さくらちゃんの顔を見つめていたが、正面に姉がいたことに気が付いて隠すように俯く。しかし理都の角度からは端を噛んだ唇が見えた。

 反射的に立ち去りたくなった。

 いつもそうだ。自分のせいじゃないのに自分のせいみたいで、容赦なく哀を突き刺され、なのにそれで泣いたら許されない。

 息苦しい。この役目についてから、全部自分にはまだ早いと思いながらそれでも駆け抜けてきた。誤魔化しながら、板につかない先生という重荷を抱えながら走ってきた。

 それなのになおも傷つけられる。早いなら早いとぶった切って、もういい天命だと突き放してくれたらいいのに。

 なんで治せないの?

 未熟だからだよ。言いたい。そして私だって訊きたい。

 ならあなたに何ができるの?

 理都は思い知っている。救えない多さを思い知っている。その数に柚季が含まれてより深く刻まれた。無情な迎えも数えきれないほど見てきた。

 なんでただでさえ短いのにこんなに早く…

 周りも本人も呟きを理都に向ける。

 その役目が余計にクールな仮面を剥がさせなかった。

 誰にも聴こえないようそっと息を吸う。

 二人の啜り音とさくらちゃんの不規則な寝息だけが、朝の病室に響いていた。



 それでも続く。

 それでもの中にどんな悲しみがあろうと。どんな風にどのくらい心が疲れていようと、誰にも関係ない。

 「今日はどうしましたか?」

 「咳が止まらなくて…」

 いつもと変わらぬトーンでこなしていく。

 「理都ちゃん×××号室の○○くん診てきてくれない?お腹痛いんだって」

 「分かりました」

 「先生、◇◇ちゃんが副作用で吐いちゃうんですけど、ご飯もあまり食べれてないんです」

 「点滴しようか」

 もう何曜日かも忘れるくらい淡々と過ごしたが、日々の中でアクセントになる人がきた。

 「どうぞー」

 「こんにちは」

 朗らかな看護担当の声に少し掠れた声が重なった。

 「こんにちは、羽多さん」

 歩けば全員が二度見する、世界でもとても貴重な存在でありながら、柔らかい物腰と親しみやすさで愛される羽多さんだ。

 この世界では最重要人物で要観察対象として観察担当医が引き継がれている。

 「何か変わったことはありますか?」

 見た目からは少し白髪が増えたくらいしか分からない。

 「特にないですね。最近は黒髪と白髪の割合が変わってしまいましたが」

 穏やかに笑う羽多さんは確かに健康的だ。

 本当に不思議な人だ。

 不意に羽多さんが理都の顔に目を細めた。

 「理都ちゃん、ちょっと疲れてますか?」

 「へ?」

 敵わない。もろに顔に出るタイプではないが、指摘されたのは羽多さんがはじめてだ。色んな人と関わって考えながら重厚に歳を重ねてきた人なのだ。

 「羽多さんにはわかりますか」

 苦笑するしかない。

 「今日は特に感じますよ。でも一年くらいずっと感じています。柚季くんの影響かと思っていました」

 鋭い。ん?でも、

 「羽多さん、柚季のこと知ってたんですか?」

 柚季は羽多さんの担当ではなかったからそもそも名前を知っていたことが意外だった。まして理都の夫で一年前になくなったことまで知っているとは。

 「柚季くんのことはおじいさんの代から知っていますよ。まあ若い頃しか知らないのでのでおじいさんとはいえないですが」

 「どんな人でしたか?」

 思わず興味でただの世間話を始めてしまった。

 「柚季くんのおじいさんは…フッ」

 「どうしましたか?」

 「いや私からみると何十も年下の青年の姿なのでおじいさんという代名詞に違和感があってね」

 それもそうだろう。羽多さんからすればみんな若造だ。

 「じゃあ名前は?」

 「もう30年も前のことなので忘れてしまいました。でもあだ名はとうさんでした」

 「おじいさんなのにとうさんなんですね」

 「はい。とても優しくて面倒見が良くて皆に慕われる兄貴という感じでした」

 「優しくて面倒見が良いところは似てますね。_兄貴はちょっと分からないけど」

 朗らか笑顔の柚季に微妙にその呼称は合わない。

 久々に柚季関連の会話ができた。みんな優しいけど不器用だから、見え見えで触れないようにするところがある。でも生きた柚季を語れるのは嬉しい。

 「もっと一緒にいたかったな」

 ぽろっと無意識に言葉が溢れた。

 「あっごめんなさい」

 「いえいえ。今研究はどんな感じなんですかね」

 こちらもあまり触れない話題である。よっぽどの大進歩がない限り日常では話さない。まだか、どうせという絶望が付くから。

 だが今はいい。

 「やっと原因が見えたらしいです。高性能の顕微鏡が開発されて、細胞の中に発見されたそうです」

 研究所のなかに一人仲のいい科学者がいるのでわりと詳しい。

 「ほう!すごいですね。ようやく原因が解りましたか」

 「はい。それが細胞を殺していくようです。ですがそれがウイルスとも細菌とも区別できないようで」

 「つまり全く新しいものだと」

 こくりと頷く。

 「解ったところでどうしようか問題になっているらしいです」

 「はあー」

 治し方は五里霧中。

 「ということで、私たちの希望は羽多さんです」

 こちらの原因は解っていない。どうしたものか。だがここに答えがあると思っている。

 「ほんとに体元気なんですよね?」

 「はい」

 この受け答えを何度も繰り返す。いや、ずっと同じことを続けて解るわけがない。

 何か違うことをしなくては。

 「羽多さん、昔話をしてくれませんか?」

 羽多さんが小さく目を見開く。

 「私の、ですか?」

 「はい。羽多さんの過去に他の人とは異なる何かがあるのではないかと」

 「なるほど。しかし昔のことを話すのは久しぶりです。こんな老人の長話を聴いてくれますか?」

 「もちろんです」

 「では、」

 理都はゆったりとした声を追いかけてノートにペンを走らせた。



 家に帰って一人になると途端に溜め息が漏れる。いくら頬を叩いても伸びない気持ちがあって、少しづつ少しづつ疲労に蝕まれていく。

 あと何日この感じが続くかな。いつもどんなだったっけ。

 ああ、最近はうまく消化できずに引き摺って、また新しい損失で上書きしていた。

 前はどうしてたっけ。

 ああ、柚季の腕の中で泣きじゃくっていた。柚季は何も言わずに頭を撫でながら嗚咽を聞いてくれた。最後にはぽんと軽く背中を叩いて次へ向かわせてくれたのだ。

 ねえ、どうしよう。あなたがいなくなって、私は強くなって、とんでもなく弱くなったよ。

 がらんとした部屋を見渡してもどこにもいない。

 毎日いたのにね。

 生きて時間が過ぎるほど柚季の欠片は減っていく。もう柚季が生きていた頃の埃はないだろう。

 何の意味があるの。

 どうせすぐにいなくなるのだから知らずに消えてもよかったのに。あんな幸せ教えてどうするつもり?最上を知った私はこれから何を目指して生きていけばいいの。

 もっと一緒にいたかった。

 飽きるほど一緒にいたかった。こころゆくまでとはいかなくても、せめてあと10年欲しかった。

 はあ

 こんなに感情が動いても呪いのように涙が出ない。

 やさぐれた気持ちでいつもの椅子から立ち上がる。ちょうどカレンダーが見えた。

 明日は金曜日。



 「お疲れさまです」

 疲れた方から疲れた方へ。実感を伴った心からの挨拶が行き交う。

 「お疲れさまです」

 「お疲れー、今回はゆっくりできるといいね」

 言葉が詰まった。

 悟られる前に口を開く。

 「そうですね」

 「ま、できる限り私がみとくから。柚理ちゃんとたっぷり遊びな」

 「ありがとうございます」

 病院を出て直行で園に向かう。

 日も長くなってきてまだ明るい夕方、足早になっているのは栄養失調寸前だからか。

 「あ、理都ちゃん。柚理ちゃーん、ママ来…」

 「ママ!?」

 先生が言い終わる前に柚理が飛びついてきた。

 「おかえりママ!」

 まだどこにも帰っていないのに言ってくれるんだ。

 かわいいな。

 「ただいま」

 抱き上げるとまた少し重くなった気がした。

 「じゃあまたー」

 先生といつもの確認をして園を出た。

 しばらくは抱っこのまま一週間分の柚理の話を聞いて歩いたが、だんだん道草を体勢を崩して指差しだしたので、さすがに腕が限界になって下ろした。

 手を繋いで歩く。

 ぽてぽてとたどたどしい足取りは、これでも逞しくなった。

 世界の色々に目を奪われながらときたま理都をちらちら見上げてくる。

 「なあに?」

 「なんでもないよぅ」

 この繰り返しだ。

 まぁいいか。

 もみじの手を振って、それこそ紅葉のように燃えたまちを帰る。

 「ママぁ」

 「ん?」

 ふいに柚理が呼び止めた。

 「しゃがんで」

 「え?なんで?なんかあった?」

 「いいからっ」

 ありったけの力で腕を引っ張られ、意図が掴めないまま膝を折る。

 柚理よりちょっとだけ頭が低くなった。

 「どうしたの?」

 問いかけには答えず、柚理はいきなり…

 「つッ」

 理都の頬をつねった。

 「いたい?ねぇ、ママいたい?」

 こくこく。

 力は弱いが加減を知らないつねりは強かった。

 「じゃあ泣け」

 吐き捨てた声が懐かしかった。それは柚理の声だったはずなのに、まるで、まるで、

 滴がこぼれ落ちた。

 ………ようやく、泣けた。

 「うッ、ぐっ」

 こらえた嗚咽を聞いて咄嗟に柚理が理都の頭を抱え込んだ。

 「わーーーっア!」

 小さい子のような泣き方になった。

 悲しかったんです。泣きたかったんです。

 柚季がいなくなったときからずっと堪えていたんです。

 本当の私は泣き虫なのに、ずっと唇を噛んでいたんです。

 一粒許すと止まらない。一年分の涙が溢れていく。

 柚理が不器用にとんとん頭を叩く度、感情の鎧が剥がれて落ちる。

 こんなに溜まっていた。終わりなんてないのではないかと思うくらい、あとからあとから溢れてくる。体中の水が奪われてもまだカラカラに泣けそうだ。

 柚理のシャツが濡れてきた。本当は柚季に吸わせたかった涙が愛娘に落ちる。

 「パパがね、」

 理都の嗚咽の隙間に柚理が挟んだ。

 「ママが泣きそうだったらこうしてあげてって、教えてくれたの」

 聞いて、また一回り大きな粒がこぼれた。

 少しだけ温かい涙。

 結局あなたに溶かされたよ。

 まだ言葉を理解しているかも分からないような娘にそんなのこと教えたんだね。そんなに心配させてたんだね。してくれてたんだね。

 ありがとう。

 いなくなってもなお、こんなに伝えたい言葉がある。

 大好きなんだよ、最高の時と同じくらい、いまだに。

 ああ、そうか。意味あるね。

 「ありがとう、柚理」

 理都の方からぎゅーっと抱き締めて、手を取り立ち上がる。

 もう大丈夫。

 柚理に伝えきるまで、柚理とたくさん過ごすまで、遊び尽くすまで、あげ尽くすまで、

 生きよう。そういう生き方をしよう。

 決めたら行動っ弟の家へ!

 「ママ、かけっこしよっ柚理速いって先生にほめられたの!」

 「いいよ、よーい、どん!」

 駆け出した背中をほどほどに追う。

 __それで、向こうに行ったら柚季に抱き締めてもらおう。撫でてもらおう。はじめはなんで早くいったのよって、すね気味で、おどおどした柚季を楽しもう。

 ね、私は何度でも、あなたを好きになった私を取り戻す。

 待っててね。



  

 

 

 

 

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