(3)優海 14年後
愛しい人がいる。
ずーっと、ずーっと大好きな人が側にいる。
今日も早く帰りたいなぁ。
「優海、もう詰め終わったのか?!はやいな」
「とうさんが遅いんですよ」
斗季、愛称とうさんは船の上では逞しく誰よりも動き頼れる先輩だが、地上の雑用的なこと持ち前の大雑把さで苦手としている。
「僕もう一箱やるんでそれ取ってください」
とうさんの横に積まれた発泡スチロールを指差す。地区ごとに決められた量を配給するため、漁から帰ってすぐに箱詰め作業をしている。疲れた体に鞭は打つが、みんなに魚を届けるためにそもそも漁師があるので文句はない。
「どうした、なんか急いでるじゃねぇか」
とうさんが発泡スチロールを寄越しながら問う。
「とうさん、あれですよ。妻に会いたくて急いでるんですよ」
「そうですよ。今回長かったですから早く会いたいーって感じで」
「ザ·愛妻家ですから、優海さん」
後輩たち…。優海は苦笑した。ナメられてるなぁ。別にいいけど。
「ははっそうか。じゃあ早く済ませるぞー」
「おぉーッ!」
とうさんの一声で場の一体感が生まれ、その後はとてもスムーズだった。
作業が終わり、動き足りない者は鬼ごっこ、帰りたい者は帰路へ別れた。もちろん優海は帰りたい派だ。
長めの航海により溜まった疲労が家に近づくにつれ軽くなっていく。到着する直前にはまるで跳ねるような走り方をしていた。
タンッタっと二段上がって扉を引く。
「ただいま!」
……
え、返事ない。
居るはずだよな。今午前中だけどたしか今日は午後からだって言ってたよな。
頭をゆっくり回しながら廊下の横にある洗面台で手を洗う。常にこの引き戸は開けっぱで廊下を歩いて中を覗きちらっと鏡を見て外出するのが日課だ。だが夜の暗い廊下でいきなり薄く顔(自分のだけど)が見えたときはぞっとする。だから優海は夜には引き戸を閉めるが妻はすぐに開けっ放しにする。
…とか、なんとかぐだぐだ考えていたら
「わっ!」
「ギャッ」
突然の声に手洗い中のまま勢いよく振り向いてしまった。
「ねぇー手、濡れてんじゃん。水飛んできたぁ」
「えーいやそっちのせいでしょ」
「ってか水止めて!出しっぱ!」
あわわとじゃーじゃーな水を止める。それから振り向き改まる。
「ただいま、みこちゃん」
ずっと大好きな人は照れたように上目がちなりながら、溢れるような顔で言ってくれた。
「おかえり」
「おいしい!!」
「ほんと?よかった」
まだ昼だが、みこちゃんは豪華な昼食を用意してくれた。
「夜はゆうみくんが作ってね」
「もちろん。新鮮な魚で作るよ」
「やったー!」
両手を挙げてリアクションする妻に微笑む。
「そんなに嬉しい?」
「うん。魚好き」
「肉好きの方が多いように思うけどね」
「えー?!いや魚でしょ。ほら、あの人も魚派だったんだって」
「だれ?」
「あの、十何年前にいっぱい改革した人」
「ああ管処」
今の世を整えたのはその人だ、といっても過言ではないほど世界に、円に、懸けてくれた人である。とうさんがいうに、当時踏んだり蹴ったりだった配給を安定させたのもその人らしい。
「亡くなって十年経つけど、いまだに管処内で慕われてる感じ」
そうだろうなと思う。中央管理処農業課である妻はともかく、優海までもが知っているのだ。
「やっぱ魚はいいエネルギーになるのかな」
「なるなる。頭よくなるっていうじゃん」
「だったらいいなぁ。めっちゃやりがいある」
「だね。でもやりがいはもともとあるでしょ?」
「うん」
今の世は少しでも傾いたり欠けたりしたら成り立たない。だからこそ、一人一人が必要とされている自覚を持っている。
「世の中のために動けるだけでやりがいですよ」
みこちゃんが箸を口に運びながら呟く。
うんうんと形ばかり頷いてみたが、多少振りたくなった。
僕にとってはみこちゃんが魚好きって言ってくれるだけでやりがいどころか生きがいまであるよ。
なんてね。さすがにキザっぽくてね。向こうから箸とか刺さりそうな勢いで飛んできそうでね。
口をつぐむんだ。
「そういえばみこちゃんいつ行くの?」
「一時半ぐらいかな。あと一時間くらいある」
「あの時計ずれてない?」
「ずれてないよぅ。この前カメラと一緒に修理局持ってたもん」
「あっカメラ!」
思い立ってもぐもぐしながら席を外す。ドア付近の飾り棚に辿り着くまでに飲み込み、置き物や写真立てと並んだデジタルカメラに手を伸ばす。
このカメラは優海がこの家に来たときからこの場にあり、優海も父も祖父も使ってきたものである。何枚かはプリントアウトしてアルバムや写真立てになっている。中でも気に入っているのは_
優海は飾り棚に視線を戻す。
そこには三枚の写真が立てられている。三枚とも男女のツーショットでそれぞれ裏に名前が書いてある。右から『優斗&七波』『優佐&真弥』そして、『優海&美心』。
この写真のおかげ優海は両親や祖父母の顔、受け継がれた「優しさ」を知ることができた。どの写真もはにかんで幸せそうで、変わらないものがある。『&』は難しくて優海たちのは曲がってしまったが、撮りたいという気持ち、書きたいという気持ちを共有できた気がしている。
しかし優海が長めの航海に出る前、カメラの音沙汰がなくなった。
「直ってるかな」
カメラの電源を押す。
そこには、何も映らなかった。
え、とテーブルを振り向く。いつの間に箸を置き座り直していたみこちゃんが慎重に口を開く。
「直りませんでした」
一時停止した後、へなへなと座り込んでしまった。
…大事なものが…繋がれてきたものが…
何よりこれにはたくさんの幸が撮り溜めてある。何枚も幾度も切ったシャッターの記録も見られなくなってしまった。みこちゃんのことも何回も撮った。カメラの中にいる恋人とももう向き合えないのかと思うと今まで撮ってきた記憶が幻のように消えそうな。
落ち込む優海を見かね、みこちゃんが席を立って優海の前にしゃがんだ。
「…そんな…」
ぼやいた優海の頬をみこちゃんが快活に包んだ。
「その分、目に焼きつけろってことだよ!」
はっと顔を上げると、そこには慰めるような鼓舞するようなみこちゃんの笑みがあった。
ああ。
焼きつけられる。
しっかりと、くっきりと、いつまで経ってもぼやかさずに。
優海はみこちゃんに頬を包まれたまま軽くキスをした。
より至近距離でお互いを見つめる。みこちゃんはすぐに視線を逸らしてしまった。でもそのほっぺたは桃色で、そうやっていつまで経ってもドキドキしてくれるところが好きだと思った。
「照れてるの?」
「照れてないっ!」
「ほっぺ赤いよ」
「うるさい!」
まるで怒ったようにむくれながらも、みこちゃんは頬の手を擦らせて抱きついてきた。
プロポーズ。
どうやった?と訊かれるが、一度もはっきり答えられたことはない。代わりにこう言うのだ。
覚えてない。
普通なら「お前マジか?」や妻に「はぁ?」と投げ飛ばされる台詞だが、優海の場合そんなことはない。
なぜなら本当に覚えていないからだ。
潔い!という奴もいるがすぐに周りの奴が「いやしょうがないんだよ」とそいつに教える。
こいつ3歳で結婚したの。
出会いは保育園。保育園は2パターンの子どもがいる。親が迎えに来る子とそうでない子だ。優海は2歳から後者になった。でもさみしい思いはなく、変わらずに友達や先生と過ごしていた。
優海は記憶が安定したのが7歳頃なので保育園の記憶、まして3歳の記憶は断片的なものがちらほらあるだけである。その断片にはプロポーズの記憶も馴れ初めの記憶もない。
だが優海より記憶がマシなみこちゃんや当時の先生に後から聞くと、どうやら優海の方が先のようだ。
優海はみこちゃんの真似ばかりして側を離れなかったらしい。とことこついていき、みこちゃんの方はさほど気にも留めず自分の行動をしていたようだ。それから、言葉を知るようになった頃、優海は早速みこちゃんに「しゅき!」と言ったらしい。今思うと大変恥ずかしいがそのときの自分を誉めてやりたいと思っている。お前見る目あるよ!そしてよく言った!
しかし優海につきまとわれることに慣れていたみこちゃんは優海の「しゅき!」に目もくれずブロックで遊んでいた。優海はめげず「しゅき!しゅき!」とその後もことあるごとに連呼した。するとある時、観念したのかつられたのか面倒臭くなったのか、みこちゃんから「しゅき」が返ってきた。
舞い上がった優海はみこちゃんの袖を引っ張り「ケッコン、ケッコン!」。すると近くにいた先生が「何?結婚したいの?」「うん」「みこちゃんも?」「…ウン」_この会話だけで管処と指輪屋に連れていった先生が後から思うと一番すごい。最高のキューピッドとなった先生は後に「あのときは早とちりかなって思ったんだけど、今思うと私大正解だったわ。ゆうみくんもみこちゃんもよくあの時素直になったね」と優海に語った。大正解、と言われるくらい自分たちが仲良くなれたのが嬉しい。安心もしている。
昔話を聞けば聞くほど、優海が押し切った部分の大きさに気付き、みこちゃんはどう思っていたのだろうと不安になることもあったが、それは杞憂であると優海は知っている。「ゆうみくんの押しに負けたの!」とみこちゃんが言うときがあるがそういうときは大体ぎこちなく、つつくとすぐにえへっと笑う。
そんなこんなで周りから永遠の蜜月と称される僕たち、結婚11年目である。
翌日。漁仲間の集会のため優海は岸に近い休憩室兼会議室の小屋に来た。すでに何人も集まっており、幹事のとうさんが来るまでは雑談タイムだ。
「優海さんノロケ多いっす」
「いいじゃん別に」
「なになに」
後輩の圭人と話していると近くにいた同期の弥生が入ってきた。
「優海さんの話、昨日帰ってからのノロケばっかなんスよ」
「はぁーさすがおしどり夫婦。きいてよ、私なんか昨日当たり散らしちゃった」
「どしたの?」
「あいつ配給腐らせてたの」
「うっわー」
「いや分かるよ?もともと料理とか食材の扱いよく分かってないって。でも貴重な食糧無駄にすんなって思って怒っちゃった」
「正論、正論」
「お前はまだいいよ、100%向こうが悪いじゃん。俺なんかケンカだぞ?しかも続行中」
「あっとうさん。お疲れ様です」
入り口付近の丸椅子でしゃべっていた優海たちの横からとうさんが入ってきた。隅に重ねた丸椅子を各々が好きな場所に置いていくスタイルなので室内はざわざわと統一感がない。
「なんでケンカしたんすか?」
「洗濯物」
「はい?」
「俺はいつも担当じゃないから畳まないんだけど、昨日はちょっとやろうかなと畳み始めたわけ」
「はいはい」
「したら雑!って言われて。ちゃんと縫い目合わせて変なしわ付けるなって。で俺、本当はお前の担当だろってカチンときて言っちまった」
「なんて言ったんですか?」
「そういう細かいところ大っ嫌い」
「ひどっそしてちっさ!」
「向こうはなんて?」
「そういう大雑把なとこ大っ嫌い」
「いえてる~」
後輩たちが唸るととうさんは傷がえぐられたのか顔を両手で覆った。
「悪かったとは思ってるんだよ。けど、お互い引きずってさ、今朝無言の朝ごはん。なんか、謝るタイミング逃してんのよ」
大きな図体に似合わない台詞を吐くとうさんが気の毒に思えてくる。
ふととうさんが指の間から目をのぞかせた。
「優海ーお前なんでそんな上手くやってんだよ」
「へ?」
急に振られ間抜けな声が出た。
「私もききたい」
弥生まで話をせがんできた。
「え、なに話せばいいんだろ」
「何でもいいよ」
「何でもいいって…。じゃ、持論いいですか?」
「どうぞどうぞ」
立っているとうさんと丸椅子の二人が優海の方へ向き直る。
「まず、イライラしてるうちは大丈夫なんです。イライラが募っていくうちはまだ全然いいです。だってなんで気に障るかって、相手が気になっているからですよ?気になってるから気に障る。どうでもいい存在なら気どころか視界にも入らないんです。だからカチンときたり怒りたくなったりするのは気にしている証拠でもある。本当の終わりは何も感じなくなることです」
もちろん優海たちだってケンカをするし、相手にカチッとくることもある。だがぶつかって仲直りする度にこのように思う。どうして仲直りできるのだろうと考えたとき、このイライラがポジティブなものだからだと思った。
気になってるから気に障る。でも気になってるから気にかかり、また元通りになる。その繰り返しである。
「根底に気があれば大丈夫ってことすか?」
「ナイス理解力、圭人!そのうちは仲直りできるってこと」
「逆に気がないきゃ修復不可能だな」
「そうですね。というかそんな関係なら修復しようとも思いませんよね」
「たしかに」
「でもとうさんも弥生も仲直りしたいんでしょう?」
「したい!」
「ああ」
流れで本音を言った二人は己の意図するところを知らない。面白いのでつついてみる。
「それは二人が結局、相手のことが好きだからですよ」
はたと動きを止め、同時に頬を染めていく二人をさらにつつく。
「ね、そうでしょ?」
刺されると返したくなるのがとうさんの性分、強がるがけっこう乙女なのが弥生の性分。
「そうだ」
「はいはいそうですね!」
「…てことで、今週は2回漁でれば供給足りるかなって感じ。この前大漁だったし、保存さえちゃんとすれば余裕で保つよ。でも月夜被っちゃうから明日と明後日、連続で漁でようと思う。いい?」
「はーい!」
年少者は手まで上げた返事をした。ホワイトボードの前に立つとうさんがよしと頷いて指示を出す。
「じゃあ綱と網確認しといて。あと燃料よろしく」
優海もざわざわと立ち上がる中に紛れ、腰を浮かす。
「あ、優海はちょっと残って」
立ち上がり途中の半端な体勢でとうさんに呼び止められ、両隣の圭人と弥生に何だろうという視線を交わす。
とりあえず返事か。
「はーい!」
「ねぇ明後日は休み?」
夕凪の時間、玄関で靴をつっかけているとみこちゃんが訊いてきた。
「うん。月夜間だからね」
「そっかー」
明後日が何なのかは訊かない。訊きたくもないし、訊かれたくもない。分かっていれば言わずとも朱を共有できることだ。
ただここに我慢できない輩がいる。
手を後ろに組みながらぎこちなく「そっかー」と揺れる人が愛しくて。
脈絡もないのに。上がり框があるのに。
最近にょきにょきと伸びてみこちゃんを抜かした身長と強くなってきた腕で、みこちゃんを引き寄せ口付ける。
大切な、大好きな。
離すと間近でもーとにやけられた。
呆れと照れが募ったみこちゃんは優海をぐるりとドアに向かせ両手で背中を押し出した。
「さっさと行け!」
太陽が隠れ優海たちは陸風に乗って出発した。
現在、円では栽培漁業と養殖漁業、その他という区分で魚介の供給を支えている。その他といっても定置網漁と巻網漁だけだが。かつては底曳きもやっていたらしいが、人手不足と海底の生態系の破壊という課題でなくなった。
巻網漁は主に三つの船で行っている。
まず、灯船が集魚灯で魚を集める。集まったら網船が魚群を囲むように網を垂らしていく。最後に運搬船に魚を積んで帰る。ものすごく簡単にするとこんな感じだ。
巻網漁では群で移動する魚を狙う。イワシやマグロなどが代表的である。ただ、産卵にきたマグロの乱獲になることもあるので、時期や獲りすぎには注意している。獲りすぎは一時の豊富にはなるが長い目でみると痛手でしかない。多過ぎず少な過ぎずの案配は難しいがこれを怠ってはいけないのだ。
「優海くん…」
目的地に着くまでぼーっと水面をながめていたら、小さい子がか細く裾を引っ張ってきた。
「ん?どうしたの?」
かがんで優しく問うとその子は頑張って言葉を絞り出した。
「きもちわるい」
「へ?!」
慌てて胴からお尻までポケットを探る。
うわいつも袋持ってんのに今日に限って忘れた。
「ちょっと待って、えっと、どれくらい我慢できる?」
聞いてもどうしようもないのにきいてしまう。陸戻るまでとか言ってくれないだろうか。
その子がうぅと困った顔をする。
「ごめん、分かんないよね。ねぇー!誰か袋持ってない?」
轟音で思うように声が届かなかったが近くにいた人たちがガサゴソしだした。
「あー俺もってない!」
「僕もないです」
「私も持ってない」
「えぇなんでみんな持ってないんだよ!」
「人のこと言えるか!」
「あ、バケツならありましたよ」
「いやそれ使うやつだからダメ!」
「かっぱは?ほらこれ。これに包む!」
「それ誰の?」
「圭人」
「ふっざけんな!」
静かな雰囲気だった船がガヤガヤしてきたが、たった今、最高潮の需要である品は一向に出てこない。
「どうしよう、どうしよう」
「優海くん」
「はいっ」
再び裾を引かれて振り向いた。
「むり」
「だぁーっ!まって!」
慌てて後ろからその子の脇に手を入れ持ち上げてそのまま数歩ダッシュしその勢いで船から顔を出させる。
その途端、その子の我慢が切れた。
あぁごめんなさい海。いい栄養にしてください。
そんなことを思いながらも優海はかつての自分を思い出していた。酔いやすかった優海をたくさんの人が抱き上げてくれたこと。そういえばすぐに袋が出てくるような几帳面な人はあまりいなかった。変なとこ受け継がれてんな、と軽く笑う。みんな優海のSOSに騒ぎ最終的には「あぁ海よ…」だった。とても賑やかで明るい人たちがであった。
でも…
続く言葉を振り払う。
今はただの事実が割り切れそうにない。
そうやってせっかく払ったのに
各船のリーダーと全体のリーダーをつなぐインカムにわずかな振動が走った。
耳を傾けながらその子を圭人に託す。
「魚群が見つかった。灯船を目印に位置に着け。獲るぞぉ!」
とうさんの活気ある声にさっき閉めたばかりの扉が開く。
_でも、もういない。
集魚灯へ向かう船の中一人、その灯火より漆黒の海に飲まれそうだった。
「まあまあの大漁だったな」
「疲れたー」
「ちょっと休憩してから点検整備しよう」
仕分け作業を終え、年少者は眠くなってきた頃、小屋で一息つくことになった。
「あれ?なんか開いてません?」
圭人が小屋の引き戸を指差す。
今はとうさんと優海が先頭を歩いて雑談しているので、先に小屋に入った仲間はいないはずだ。
「誰かの家族が差し入れでも持ってきてくれたのかもな」
とうさんの言葉に、もしやみこちゃんではと期待を抱いたがすぐに今日は朝から夕方まで畑と管処出向く予定と言っていたことを思い出した。
「誰だろ」
とうさんが呟きながら引き戸の隙間を全開した。
「あっ羽多さん!」
え?と中を覗くとそこには円で一番の有名人がいた。
「おぉ戻ってきたか。勝手に入って悪いね」
会議の時は端に押しやる中央の机に大皿を載せながら男性が振り向く。
「ほら差し入れ。おにぎりだよ」
欲しているものにありついた蟻のように一斉にみんなで皿を囲む。
「うわーおいしそう」
「ありがとうございます!」
「この列が塩で、こっちは焼きざけ。ここは梅ゾーン。この黄色のは刻んだ沢庵と胡麻のまぜご飯」
「俺塩がいい!」
「私さけ!」
「ぼくもー」
「沢庵うめぇ」
「食うの早いわ」
「梅は人気ないのかね」
「そんなことないです。僕好きです」
「あーん、さけ終わっちゃった」
「私のあげるよ、ほら」
優海も混雑の中手を伸ばし、沢庵のおにぎりを手に入れた。パクッと程よい塩味と軽やかな食感が口に広がった。
「羽多さんおいしいです」
「そりゃ良かった」
「おいちい!」
「あひあとうほひまふっ」
「食べてから言え」
「むぐっ」
みんなからおいしいと感謝の応報を受け輪の中で微笑む羽多さんを、優海はおにぎりを食べながら黙って見つめた。
なんだか、悲しいような羨むようなそれでいて落ち着いているような気持ちになった。
それがきっと昨夜のとうさんと相まっているのだろうとは思ったが、うまく結びつけられず、宙に浮いたまま納められずにいる。
何より不思議なのは、羽多さんのその皺やまじまじ眺めると数えられる白髪を見つめながら、そこにみこちゃんが浮かんでくることだ。性別、容姿も異なるのに、なぜかみこちゃんを想いたくなる。
これもまた関連が分からず複雑になる一方なので一旦置いておこうと思った。
「じゃあ、みんなお疲れ様」
綺麗になったお皿を持ち、羽多さんが戸口へ向かう。
「ごちそうさまでした!」
声を揃えてお礼を言うと羽多さんは満足気に手を振り「じゃあねー」と出ていった。
後ろ姿を見送った後、ふと思い出した。
「そういえばとうさん。網に小鯛かかってませんでしたか?」
「小鯛?」
「配給用からあぶれたのあったらほしいなって」
「ありましたよ、さっきみた感じ」
「ほんと?」
「もらっていいよ」
「あざす」
休憩を終え、ぎゃーギャーいいながら魚を生け簀と発泡スチロールに分けてからまた遊ぶやつと帰るやつに分かれた。
優海は小鯛を何匹が引っ提げ足早に家へ向かった。
「ただいまー」
と、言ってみるが今日は返ってこない。
まだ朝8時にもなっていない。ただ昼夜逆転の優海にとっては夜の8時みたいなものだ。
ねむい。
右手の小さいバケツに氷の布団で寝かされた小鯛がいる。そいつと目があって一瞬逡巡したがすぐに思い直す。
よし、寝よう。
シンクにバケツを置き、小鯛を取り出してジップロックにつっこむ。それを冷蔵庫のチルド室に入れ、ちょっとせいせいも閉める。
「ねよ」
あ、風呂!ん~
入ってから寝るかぁ、…
ふわぁー
ベットの中で大きく伸びをしてからがばっと起きる。
今何時?
壁の掛け時計はちょうど16時だった。七時間睡眠かぁ。気持ちもう一時間欲しいが、やることがあるのでとりあえず起きる。
キッチンに部屋に行くとテーブルに置き手紙があった。
[6時頃かえります。冷蔵庫に昨日の天ぷらの卵とじあるよ]
どうやらみこちゃんは一度帰ってきていたらしい。そういえば優海は風呂上がりにベットへダイブしそのまま寝たから布団を掛けていなかった。もしかしたらみこちゃんが掛けてくれたのかもしれない。
…だったらいいな
ふるふるふるふる。そんな憶測置いといて、帰ってくる前にやろう。
切り換えて冷蔵庫へ向かい、先ほど眠気「負けた小鯛を取り出す。
ここが君のお立ち台だ(?)と仰々しく木のまな板に一匹寝かす。
こうして魚と向き合うと一瞬ためらいが浮かぶ。だがすぐにわくわくしてくる。こらから刺すよ、というようなサイコパスじみた感情かもしれない。でもそれは命を頂く身として縮むのでせめて、おいしくしてあげるよにしておこう。
まずはうろこひきで鱗を掻き落としていく。この作業は気持ちいいので好きだ。
すべての小鯛を引きおえたら一度、鱗だらけになったまな板を包丁で掃いて綺麗にする。どうせすぐ汚れるが少し気になるのだ。
次は包丁でうろこひきでは取りきれなかった部分を引いていく。細かい性格なのでこの作業も割りと好きだ。
固く鋭いものと薄いものが擦れるキンキンした音が徐々に消えていく。
それを何回か繰り返し、すべての鱗を引き終えた。まな板についた鱗を再び綺麗にしてから一匹手に取る。
えらを挟むように口から箸を突っ込み、箸を回しながら引き抜く。すると、どるんと内臓が出てくる。
これがまた気持ちいいのだが、なかなか理解してもらえない。こんなに簡単にどるんと苦い部分が取れるんだぞ?と言っても、出てくる瞬間がゲロみたいとかぶよぶよした内臓がキモいとか。
みこちゃんなら分かってくれると思い「みてみ?」と目の前でやったこともある。しかしすぐに目を剃らされ「ごめん、ちょっと、無理」と呟かれた。
内臓が取れたら洗ってよく水を切る。
ここからは三枚下ろしだ。
尾にさっと包丁を入れ、次にむなびれの上に縦の線を、そこから斜め下へ切れ込みを入れる。
あまり身が残るともったいないこで骨のスレスレを慎重に剥がしていく。
ほーら、できた。
骨が透け透けという達成感。
そんな風に一匹一匹中身丸見えにしていく。君は腹どころか骨まで見えてるよ、いひひ。
全部の小鯛をちょうどいい大きさに切り分ける。弾力のある身を裂いていると包丁の切れの良さに気が付いた。みこちゃんが太くんに研いでもらったのだろう。
すべて切ったら一旦包丁を置き、冷蔵庫と食器棚へ行く。酢とタッパーを持って戻る。
ん、なんか忘れてる。
塩だ!
慌てて身にまんべんなく塩をかける。酢を取ったばかりの冷蔵庫に小鯛と共に逆戻りする。
30分待つ。
経ったので、小鯛を洗っていく。よーく水を拭き取り、酢を入れたタッパーに皮を上にして敷き詰めて、完了。只今5時。
これからみこちゃんの作ってくれたご飯を食べて歯を磨いて、顔洗って…ちょうど入れ違いだな。顔みて出れたらいいけど。
_とかじゃなくて…とかじゃなくて…
つぅーと目をつぶる。
現実を避けたいのか、受け入れようとしているのか、壊れはしないか、何に落ち着かないのか分かっていないから落ち着きがない。
でもやらなきゃ。
「今日は大丈夫そうかな?」
暗闇を進む船の中、先日の子に声をかけた。
「うん。昨日はごめんなさい」
律儀に頭を下げるのでこいつかわいいなと思う。
「いいんだよー謝らなくて」
と、柔らかくなだめる言葉を出したが、この会話自体、自分をなだめているようだった。気を引き締めるあまり詰まりそうな自分を。
「え?」
飛沫の飛んでこない位置にいながら頭に冷たい感覚が走った。
雨?
その間にも滴は一粒づつ不規則に落ちてきて、やがて安定した降水になった。
急いで自分の頭と近くにいた子の頭にフードを被せる。
体の冷える感覚が雨のせいだけでないことを知っている。
今までこういうことがなかったわけではない。天気を読むにも限界があり、人間が自然を知り尽くすことはできないのだ。
しかし、今回は違う。
優海は咄嗟に胸元のマイクを掴んだ指を睨んだ。そしてマイクから離した。いつもなら「どうしますか?」と連絡すれば済む。しかし今日は自分こそ連絡した先を担っているのだ。
「どうしますか?」
インカムに昨日までの自分の声が入った。それとほとんど同時に
「魚群見つかりました!」
悩むことはない。簡単な決断だ。いつもは数回網をいれるところを今回は一回で帰ろうというだけだ。
ただ、その一言が、怖い。
もしその一回の間に海が荒れ、仲間を飲み込んだら。その一回の時間が陸へ戻ることを邪魔したら。
それに自分がそれを言ったらあの人はいなくならないか?
はっと浮かんだ疑を振り切る。間髪いれずにマイクを握る。
「一回だけ網入れて帰ろう」
言った後、悲哀を覚悟したけれど何も押し寄せてこなかった。
それが違和感で、少し気付いた。
「とうさん、お疲れ様でした。そして、ありがとうございました!」
「ありがとうございました!」
夜中に似合わない大声がとうさんに向かって響いた。優海たちだけでなく養殖担当もその一言のために集まっていた。
雨は海上にいた時より強くなっている。いつもは朝方の帰港だが、今は午前1時を過ぎたところだ。選別の量も多くなかったので早めの解散になりそうだ。_短い儀式が終われば。
「こちらこそありがとう!お前ら大好きだわ。頑張れよ!」
どこまでもいつどきも変わらない潔さを振るって、とうさんが颯爽と身を翻す。とうさんは背中を叩き叩かれながら歩く道中に優海を見つけると肩に手をのせて引き寄せた。
「後は頼む」
そう言いながら2回肩を叩かれた。
だからそっち側の肩だけ重いような気がして、しかもとうさんが離れていくほど重みが増していくようだった。
でもその重みすら受け入れていた。
申し訳ないほど受け入れていた。
やっぱりな。
ようやく気付いた。
本当にこわいこと。何を連想していたのか。何が悲しいのか。何を想っていたのか。
「じゃあ、解散!」
誰かが景気よく言った一言がまるでホイッスルみたいに聞こえた。やったことないけど本であったかけっこってこんな感じ?
優海は上々のスタートを切ったが、なんせここはレーンじゃない。人がうじゃうじゃと。…そして止めに入ってくる。
「優海、待て!これ持ってけ!」
貝ゲット。
「これも持て!」
ちっちゃいエビゲット。
「待って待って、はい!」
雑魚ゲット。
え、なんでこんな、ん?
「あ、あっ、あぁぁあああ!」
そうだった、そうだった。
「何、まさかお前忘れてたのか?」
「いや、ちょっと一瞬…」
何だよ、めっちゃちょうどいいじゃん。
早く帰りたい。早く帰ろう。
あふれそうだ。
もう日付は変わっている。
だから本当にちょうどいい。
今日伝えないでいつ言う。今溢れさせないでどうする。
待ちに待った扉を開ける。
「ただいま」
大きな声で存在を示したいところを夜なので小声に抑える。もしかしたら寝てるかも知れないし。
でも知っている。こういう雨の日はいつも…
一拍置いて奥のリビングのドアが開いた。そこからは今ぱっと点けた灯りではなく、何分何時間前からの染み付いた光が漏れてきた。
「おかえり」
この声こそ、待っていた。
ああ、もう、気付いたら、もう…
「寒いでしょう?とりあえずタオルね。お風呂はさっき一回沸かしたから_」
タオルを広げながらこちらに来て、てきぱき口を動かすみこちゃんに、優海は無反応のまますたすたと近づく。
「_すぐ沸くと思っ…どうしたの?」
優海の胸がみこちゃんの声をくぐもらせた。
リビングの光だけが漏れる薄暗い廊下、みこちゃんの温もりにすがる。後頭部を右手で押さえて、より強く引き締める。
みこちゃんの手が背中に回った。ティディベアを抱き締めるような包容力で優海を包んでくれた。
「とりあえず部屋入ろ?」
諭す呟きに優海はみこちゃんの頭にあごをのせて「うん」と答えた。
一旦解いてソファに座った。優海が先に腰を下ろすと、みこちゃんはバスタオルを優海の肩に被せてから隣に座った。
膝に肘を置いて前屈みになり足の間で握った両手をいじる優海を、みこちゃんは待ってくれた。
きっとずっと待ってくれるのだろう。明日の朝が早くても、眠くても、あくびを噛み殺しながら一緒にいじる手を見つめてくれるだろう。
だからさ、ああほんとうに
「こわいんだ」
何が、とは訊かずにまた待ってくれた。
「みこちゃんを失うのがこわい」
吐き出してみたら涙がこぼれた。もんで開いてを繰り返していた両手で顔を覆う。
「今までも、これからも、僕はたくさんの人を失うと思う」
例えば、ああ海よを教えてくれた明るい先輩たちや、最後まで頼れるリーダーだったとうさん。
「でも、申し訳ないけどそれ全部、堪えられる気がするんだ」
もしかしたらそれは「慣れ」と呼べてしまうかもしれない。無礼だ。無慈悲だ。けれどそのくらい、失ってきたのだ。
そして、立ち続けてきたのだ。
だからその気持ちもまたこの世界で生きる者だろう。
「でもね、みこちゃんがいなくなるのだけは、堪えられない」
気付いたんだ。
先輩がいなくなることも、羽多さんの不思議も、正直こわくない。ただ、それだけはどうしようもなくこわい。
一人でこの家に居ること、空虚な部屋に一方通行の「ただいま」を言うこと、想像したくもない。
ずっと一緒で当たり前だった。
「それに、」
わがままだとは知りながら、この世界でまだ望んでしまう。
「もっと一緒にいたい」
十年も二十年も気が遠くなるくらい長く。
それが羽多さんを見て沸いた気持ちの正体だ。
その皺や白髪にみこちゃんを重ねたのは、優海がその姿に焦がれたからだ。
年老いた君の姿を見たい。
そして、君の隣で歳を重ねたい。
白髪生えてるよ。最近腰が痛くて。歯が危ない。
そんな会話が尊く、そんな会話ができるまで一緒にいたいのだ。
君になら、自分の老けた姿を見てほしい。
安心して皺を刻んでゆけるだろう。
「ずっと、どっかで数えてるんだ。あと何回、あと何年って。もう14歳だよ?長くてあと6年だ」
みこちゃんの右手が優海の背中を撫でた。
「足りない。全っ然足りない。もっともっと欲しい。みこちゃんといる時間をもっと欲しい」
そういうことを考え始めると、悲しくてやりきれなくて、泣くことしかできなくなる。
この現実が痛いのは自分の一番身近の大切な大切な存在を想ったときだけだ。人間はちょっと酷でそれでも愛に溢れた生き物なのだ。
そして今、まさに溢れている。
現実が痛い。変えられない事実がこわい。
嗚咽が大きくなってきた優海をみこちゃんがゆっくりと自分の方へ傾かせた。首を横にもたげてその胸で泣く。
この世界で最も安らぐ場所は3つあった。
父の胸と母の胸、そしてみこちゃんの胸だ。
今は一つしかない。
肩を抱いてくれている右手に何度救われたことだろう。
これを失ったらもう、毎日毎日泣くことしかできない。いや、泣くことすらできないかもしれない。こんなに幼く切なく泣ける場所は他にない。
失いたくない。
いればいるほど、過ごせば過ごすほど、そう思わせる人。
何度も惚れる笑顔の裏にリミットが付いているようで、そのリミットがどんどん音をたてていくようで、どうすればいいかわからない。
現に今、その音を抱えきれなくなっている。
ソファの背もたれまで優海を引き寄せてから、みこちゃんは左手で優海の髪をすいた。
やさしく、やさしく、おままごとのママ役が人形の髪を梳かすみたいに。
ちがう。ママ役なんかじゃない。紛れもなく僕の妻だ。
「私だって足りない」
体勢は変えず、みこちゃんがこぼした。
「おじいちゃんとおばあちゃんになるまでゆうみくんと一緒にいたいし、もうずーっとこんなことしてたいの」
華奢な指を優海の湿った髪に通し続けながらみこちゃんは話していく。
「私やだよ?置いていかないで。一人になるなんて考えられないし、考えたくもない。いくならいくでいいからさ、ある日の朝二人で同時にいきたい」
でもさ、
みこちゃんが言葉と共に左手を止めた。
「今、幸せなんだよね」
涙がさっきこぼれたものまでで止まった。
その一言に、尽きる気がした、
恐怖とか不安とか置いといて、とりあえず今、幸せ。
なんという奇跡だろう。
僕も全く同じことを思っている。
みこちゃんが撫でる左手を再開した。ただし、照れているのか先程より雑だ。
「すんごいすんごい幸せ。そこだけは足りてる。じゅうぶん。」
もう堪えきれない。
優海はガバッと顔を上げ、みこちゃんを抱き締めた。
愛してる。
体温が移ってくるとその温もりに泣けてきた。
だがさっきの涙とは違う。
ただ、ただ、幸せに泣けた。
朝、みこちゃんは夜更かしで眠そうに目を擦りながら家を出ていった。
一通り家事を終えたら今度は優海が眠くなってきた。昼夜逆転の感覚なら立派に深夜の時間だった。寝る。
ふにゃんふにゃんと夢と現実が曖昧になってくる寝起きの頃、チャイムの音が現実としてはっきり聞こえて目が覚めた。もうおやつの時間だ。
「はーい!」
あくびと返事を織り混ぜた声を出して起きる。
インターホンは確認せず、玄関に直行する。誰が来たかは分からないが危険人物ではないという自信がある。
ドアを押し開く。
「えっとうさん?!」
「んだよ、寝起きかよ。寝ぐせついてんぞ」
「何ですか、急に」
「ほら、これやる」
とうさんが小さめの布袋を差し出した。「あざす」と受け取って中を覗く。
「わぁ、酢!欲しかったんですよ、ありがとうございます!」
今日使いたいと思いながら3日前に切らしてしまったのだ。きっと談笑でそれを話して、とうさんが覚えてくれていたのだろう。
やさしいな。
昨日翻した大きな背中はこれから遠くなるばかりだ。
とうさんがいたずらっこの笑みを浮かべて耳元で囁く。
「お幸せにな」
からかい口調だと気付いているのに、やめてくださいよ!と本気で叫びそうになった。そんな台詞吐かないでくださいと。
しんみりしてしまう。いなくなっちゃうじゃん。
とうさんが「じゃあな」と背中を向ける。
待って、待ってくれ
言い足りないこと、多分足りることはないけれど、せめてもの足しとして今言わなくては。
「とうさん!」
とうさんが振り返った。
息がはっきり聞こえるくらい、大きく吸う。
「ありがとうございました!」
思い切り頭を下げる。
「とうさんみたいになりたいです。なれるように頑張ります!」
とうさんが小さく笑った。
「おう、がんば。あとなー…」
仕方なさそうに息を吐いてからとうさんが大声で放った。
「最期の別れみたいなのやめろ、俺まだ生きてっから!」
…
どストレート!
はてと…やるか。
酢、米炊いて、野菜は、冷蔵庫に何か…あっ、見なかったことにしよう。
忙しなくキッチンと食卓、食器棚を行ったり来たりしているとあっという間に時間が経った。
しかし優海はそれに気付いていない。
だから毎年、特別な夕食の始まりは…
テーブルに箸を並べていると腰に腕が回ってきた。ぴたりと柔らかい体が背中にくっつく。
「ただいま」
噛み締めるように目を瞑って妻が言う。
いつもは恥ずかしがってあまり自分からアクションを起こさないのに、毎年この日だけはこっそり帰ってきて後ろから抱きついてくる。しかもぎゅーっと。
それがもう嬉しいの、こそばゆいので…。
うちの妻可愛いでしょ?好きになっちゃう?ぜってぇあげないけど。
「おかえり」
みこちゃんを纏ったまま体を捻りテーブルに向かせる。
「わあっ豪華!」
「でしょ?みんなが色々くれたの」
「おいしそー」
「早く手洗ってきて食べよ」
「うん!」
みこちゃんが手を洗い、優海が場を整え、落ち着いた。
「「いただきます」」
と、何千回も声を揃えてきた。多分それはこれからより、これまでの方が多い。
それが悲しいか。
悲しいよ。万回言われてもそう即答するだろう。
でも、
「これささづけなの手まり寿司?おいしー!」
「ささづけ風、ね」
「そこ重要?」
「本物の味を知ってる者としては譲れない。」
「でも風でもおいしいよ」
「ありがと」
悲しいと発する以上に、無情だと感じる以上に_
「ゆうみくん明日も休みでしょ?」
「うん。そうだよ」
「じゃあ朝の散歩しよ」
「いいよ」
「でもゆうみくんにとっては寝る前の散歩か」
「それでもいいよ」
「そういえばさ、夜ヒマでしょ?何してるの?」
「みこちゃんの寝顔ずっと見てる」
「いやぁーもうッ!」
危ねっ、箸飛んでくるかと思った。
_幾度も幾度も幸せを噛み締めるだろう。
本当に好きになって良かった。好きになってもらえて良かった。
そう感じ続けるだろう。
「ごちそうさまでした」
二人だけの夕食が終わった。
そして、毎年恒例の挨拶に。
「これからもよろしくおねがいします。ずっと大好きです」
翌朝。
みこちゃんにとっては午前6時、優海にとっては午後9時の時間に家を出た。
「起きてる?」
「起きてるよ。ゆうみくんこそもう眠い時間じゃないの?」
「うぅ、昨日6時間睡眠だからちょっと眠い」
すると突然みこちゃんが足を止め、優海の肩に手を置いて身を乗り出してきた。
唇が重なる。
当方は咄嗟のことに固まってしまった。
そんな優海にみこちゃんがはにかむ。
「目、覚めた?」
「_覚めまくり」
じゃ行こと何事もなかったみたいに照れ隠しして歩き出すみこちゃん。
しかし当たり前のように指を絡めてくる。
早朝の路上のバカップルを朝日が照らし始めた。
二人の間で銀色の指輪がちらっと煌めいた。