ぶどうの香り
俺は都内の仕事を3年でやめ、地元の隣町にある建設会社に転職した。
転職して3年が経ち、
仕事もプライベートも充実している。
俺は、会社の得意先で事務員をしている
3歳年下のサユリと付き合っている。
彼女と過ごして、約2年。
彼女を好きになったきっかけは、笑顔がかわいかったのと、
ハキハキした声、そして黒くて長い髪の毛。
俺はこの子と一緒になるんだろうな。
そう思っていた。
しかし、本当に一緒になろうとしている今、
俺は不満が募っていた。
仕事から帰ると、ウェディング関係の雑誌を何冊も広げて、
ドレスはどうとか、式場がどうとか、
引き出物は安くて見栄えがいいものとか…
「ねえ!聞いてるの?」
「…いや、たしかに迷うのは分かるけど、
籍入れるのもまだ先だろ?
もう少し近くなってからでも、
いろいろまた新しいの出てくるんじゃないの?」
「でも、ある程度決めときたいじゃん!
式場だけでもさあ!」
つい先月、ブランドの指輪が欲しいとおねだりされた。
サユリの誕生日に、欲しがっていた指輪と、
サユリが好きな、いちごタルトを渡した。
その日からサユリは、毎日のように、
ウエディング雑誌を買ってくるようになった。
俺は、プロポーズした実感が無いまま、
サユリの買ってきたウェディング雑誌を、
ペラペラとめくる。
サユリの誕生日は11月25日だった。
絶対にいい夫婦の日にする。と、
籍は来年の11月22日に入れたいと言われた。
更に結婚式は絶対ジューンブライドで大安の日。
宗教のいいとこどりの寄せ集めだ。
結婚式までずっとこの生活なのか?
そう思いながら、サユリの話を聞くふりをする。
朝に弱い俺たちは、各自起きて準備をし、
朝食も食べないまま、バタバタと家を出る。
昼はサユリから、夕飯は何を食べたいか。
というメールだけが来て、
俺が頭に浮かんだものを適当に答える。
一度、なんでもいい。と返事をしたら、
電話が何回もかかってきて、
それが一番困るって知らないの?
と、わざわざ怒られた。
夕方、仕事終わりに何時に家に着くか連絡をする。
そうしないと、あったかいご飯を出せないからだそうだ。
でもだいたい家に着くと、
まだ半分も作り終わってないので、
その間、俺が洗濯を畳み、風呂を掃除をする。
毎日その繰り返しだったが、
今は結婚式の事で頭がいっぱいになっているサユリは、
飯を作ることもしなくなっていた。
出来合いの弁当を広げて、
しわのついた洋服を撫でて畳みながらサユリの話を聞いていると、
何とも言えない不安感が襲ってくる。
結婚したらずっとこうなのか?
そう思いながら、サユリに相槌をうつ。
翌朝、玄関で靴を履いていると、
まだ寝ていると思っていたサユリが、
急に大きい声を出した。
「ねえ!今日早く帰ってくるよね!?」
なんだ?何かあるのか?
「いや、まあいつも通りかな。何もなければ早いよ。」
「じゃあよかった!早めに帰ってきて!」
ああ、なんだか毎月、
付き合った記念日とか、
出会った記念日とかあったっけな。
今日は何の記念日だっけ。
何か買って帰った方がいいのか?
頭を掻きながら、俺は仕事に向かった。
職場までは最寄りの駅から、
本線に乗り継いて約1時間ほど。
不便はしていないが、何もない田舎だから、
電車を待つ間、何も無いホームで、
ただぼーっと待っていないといけない。
何の記念日なんだ。
俺はぼーっと電車を待ち、何も思い出せないまま、
同じような顔をした男たちの間をすり抜け、
電車の奥へ乗り込んだ。
職場に着くと、同期の高島が話しかけてきた。
「おはよう。ハル、今日俺、小難しいとこに行くんだ。
打ち合わせ、俺だけじゃ心細いから、
ハルも一緒に行けるか課長に相談してくれない?」
高島は営業職で、俺は設計を担当している。
高島は仕事上、俺よりも建築の知識が薄いため、
時々一緒に得意先に出向くことがある。
「いいけど、帰り遅くなる?」
「いやー、大丈夫!大丈夫!
何?サユちゃんと予定ある?」
高島はサユリと面識がある。
「ああ、早く帰って来いって。」
「いやーーーいいねーーー、新婚だね!」
「まだ結婚してねえよ。」
職場に着いて、課長に許可をとった俺は、
高島と町のはずれにある得意先へ向かった。
案の定、帰りがいつもより遅くなった。
顔の前で手を合わせ、
「ごめん」と、
口パクしている高島と別れ、ホームへ入る。
19時30分…
サユリからは何の連絡も来ていない。
「逆に怖いな。」
一人で呟いて電車に乗る。
乗り継ぎをする駅に着き、
一応サユリに連絡するか。と携帯を出すが、ふと気になった。
いつもそんなに混んでいないはずのエントランスに、人がたくさん居た。
誰か倒れてるのか?有名人か?
そう思って人だかりを見ていると、
フッと目の前を、ブドウの香りが横切った。
俺は、いつか感じた高揚感を鮮明に思い出した。
目の前を通り過ぎた女は、薄い茶色の短髪で、
パンツスーツの上に、黒いコートを着た華奢な体つきの女だった。
エントランスの人だかりに日本語ではない挨拶をして、
女は待合室に入っていった。
同じ香りだ。
女を追いかけ待合室に入ると、
正面の椅子に座っているその女は、
こっちを見て、バッと顔を下に背けた。
美世だ。
間違いない。髪型も変わっているし、
昔より派手な化粧をしているが、
それでも分かる。
美世が目の前にいる。
美世は下を向いたまま、
肩にかけているかばんをギュッと握りしめて、
肩も固くこわばっていた。
会いたくなかったんだな。
そう思った。
俺は美世を見下ろして、
「お久しぶりです。」
とだけ話した。
美世は顔を上げて、
「場所を変えましょう。」
と、立ち上がって駅のホームへ向かう。
2番線は俺が同棲しているアパートへ向かう電車が来る。
それと逆の1番線のホームへ美世は降りて行った。
(早く帰ってきてね)
サユリの顔が一瞬浮かんだが、俺は美世を追いかけた。
ホームへ出ると、まだ電車が来る時間ではないからか、
人が全くいない。
美世はホームにあるベンチに座ると、
まっすぐ前を見てこういった。
「春人君、よく、わたしだって分かったよね。」
俺は隣に座って、同じように前を見た。
「ずいぶん変わっちゃって、びっくりしました。」
「わたし今、通訳の仕事をしているの。
もともと、大学は国際科だったから。」
「それで、今まで海外に?」
「行ったり来たりしてる。
一昨日、ルーマニアから帰ってきてね、
ルーマニアのツアー会社が、
日本の旅行の下見に来たいって。」
「ルーマニア…」
「ふふ、凄いでしょ。」
「凄いですよ。
そんな仕事できるのに、
なんであんな小さい会社で、
事務の仕事してたんですか?」
「さあ…なんでかな。」
そう言って、短く、少し癖のついた髪をかき上げて、
美世はこっちを見た。
「わたしね、あの日、貴方と関係を持ってしまった日、
罪悪感しかなかった。
俊人さんに対しても、貴方に対しても。」
「それは、俺もです。」
「ずるくて、ごめんなさい。
貴方とつながれば、
俊人さんと会えるような気がしていた。
あの時、わたしは本当にバカだった。」
「美世さん」
電車が来た。
「春人君。ありがとう。
謝るチャンスをくれた。
じゃあね。元気で。」
そう微笑むと、電車のドアが開き、美世は電車に乗り込んだ。
電車が走りだした。
「…春人君。なんで。」
「すいません。」
俺は、美世と電車の中にいた。
その電車は、俺の実家の方へ向かう電車だ。