神薙降臨 §1[ヴィル]
――胸くその悪い一日だった。
郊外での仕事から戻った俺は、執務室の灯りをつけ、ソファーに外套を放り投げた。タイを緩めつつ机に目をやると、赤字で「要回覧」と書かれた報告書が山積みになっている……。
なぜ人数分の報告書を作らないのだろう。急いで読むのが億劫だし、読んだかどうかの確認をされるのも好きではなかった。文句を言いつつ読むしかない自分にも嫌気がさす。
一刻も早く終わらせて酒を飲もうと心に決め、だらだらと机についた。
突然の大きな音に驚いて頭を上げると、幼なじみが扉の前に仁王立ちしている。走ってきたのか、ボサボサ頭に伸ばし放題のヒゲが獅子のように広がっていた。彼なりにこだわりがあるのだろうが、最近は眉毛が一本の縄のように繋がりかけ、元の顔が思い出せないほどだ。
「やあクリス、今戻ったところだ」と声をかけた。
肩で息をしながらノッシノッシとこちらへ向かってくるのは、第三騎士団の団長である幼なじみ、クリストフ・クランツだ。背丈は俺とほとんど変わらないが、その体躯は分厚く鍛え抜かれている。
「ノックぐらいしろよ」と苦言を呈すが、「お前の部屋は『遊ぼうぜ』と言いながら入るものだろう?」と言い返してきた。
「言っていなかっただろうが」
「遊ぼうぜぇー」
「今言わなくていいんだよ」
「今日の話は聞いたか?」と、彼は急に真顔に戻った。
肩で息をしていたわりに、落ち着いた声をしている。さすが体力の化け物だ。
「帰って来たばかりで、まだ誰とも話をしていないよ。報告書を読むのは明日にしようと思っているし」
俺は手にしていた請求書の束に目をやった。「今日はこれに署名をするのが最優先なんだ」
「そうか……」と言うと、彼は俺の外套とタイを拾い、コート掛けに掛けてくれた。俺がお礼を言うのと同時に、筋肉の塊がソファーに沈む。
「忙しいだろうが、報告書は早く読んだほうがいい。そのうちの一つは俺からだ」と、彼は言った。
「何か事件でもあったのか? こちらはひどい一日だった」
「労ってやりたいところだが……」
「お気持ちだけありがたく頂戴するよ」
請求書から視線を離さずに返事をした。
「――今日、神薙が魔導師団に襲われた」
「ほお……。ん? 誰が誰に?」
彼の話は右の耳から左の耳へと通り抜けた。
酒にでも誘いに来たのだろうか。俺だってすぐにでも食事に行きたいが、この紙の山に一つでも多く署名をしておかなければ、また後輩から容赦なく文句を言われるはめになる。
嫌いなことを後回しにするのは俺の悪い癖だ。締め切りを守れない俺のせいで、後輩たちが困っていることはわかっているのだが、一人でじっとしているのが苦手な俺にとって、一日の大半を占める机仕事は苦行でしかなかった。
一番上の請求書を確認し終え、ため息をつきながら紙をめくった。
「その紙切れよりも大事な話をしているのだが?」と、彼は少しの皮肉を込めて言った。
「んー、聞いているよ……」
「ウソをつくな」
「すまん」と、俺は手にしていた書類を机に置いた。
彼の口から「神薙」という言葉が出ていたような気がした。俺が部下を率いて出かけていた理由を、誰かから聞いたのかも知れない。
「実は昨日、神薙が殺された。今日の任務はその遺体の後始末だったんだ。なんとも胸くその悪い一日だったよ」と、俺はその日の出来事を彼に話した。
神の皮をかぶった害獣『神薙』は、異世界から来た女で、天人族の繁殖のためだけにその存在が許されている。人智を超えた謎の力を持ち、極めて厄介な存在だ。
昨夏、五十代半ばで力を失うと、護衛や側近、百と六人の夫は全員大喜びでそばを離れた。
神薙は郊外に移り、平民として哀れな晩年を過ごすはずだったが、かつて夫だった男に殺された。後継ぎを作れなかったことを恨んでのことだった。
「任務のことは陛下から聞いた。死体から例の力が噴き出すらしいな」と、クリスは同情的に言った。
謎多き神薙の力についての研究は一向に進んでおらず、力に抗える者だけの特殊な業務になっている。
「で? 神薙がどうかしたのか?」と尋ねた。
「いや、死んだ神薙の話ではない」
彼はボサボサの髪をかきあげると、神妙な顔でこう言った。
「今日、新しい神薙が降臨した」と。
俺は一瞬ぽかんとしてしまった。彼の目を見たまま、ゆっくりとアゴを引き、「今……新しい神薙が降りたと言ったのか? どうやって知った?」と聞き返した。
「偶然だ」と彼は答えた。
召喚の日が事前に通知されないことは聞いていたが、これほど唐突だとは、さすがに予想していなかった。
降りた直後、魔導師団に襲われかけたらしい。
「へえ? それは……大喜びだっただろうな」と、俺は答えた。
なにせ神薙は大の男好きだ。ところが彼は「二度とそんなふうに言うな」と俺をにらみつけている。
「いくらお前でも剣を向けずにいられる自信がない」
「なぜ? 神薙は肉と酒と男が大好物なのだから当然だろう?」
「お前……」
ゆらりと立ち上がった筋肉の塊が突進してきた。
「うわ! 待て、よせ! ぐっ……こ、この、ばか力……ッ!」
「取り消せ!」
「す、すまん! 俺が悪かった。二度と言わない!」
野獣に危うく絞め落とされるところだった――
「お前、まさか変なものを拾って口に入れたのではないだろうな? 拾ったものを食わないのは紳士の基本だぞ?」と、俺は皮肉を言った。
「人を拾い食いした犬みたいに言うんじゃねえ!」
「では、お前が神薙に拾われて食われたのか?」
しまった……いつもの癖で、つい神薙をけなしてしまった。
彼は俺をにらみつけながら特注の大剣に手をかけている。
「ば、ばか! 剣はよせ! 悪かった。全面的に俺が悪い!」
なぜ俺が謝らねばならないのだろう……。
魔導師団は、いけ好かない連中だ。
金と欲にまみれて神薙の地位を悪用し尽くし、神薙の退位後は雲隠れをしていた。
数年前まで、一人だけ話のわかる真面目な魔導師がいたが、いつの間にか失踪し、仲間に殺されたとうわさになっている。彼が消えて以来、魔導師団は天人族の中で「共通悪」として完全に孤立していた。
千年ほど前は、国防の要として光の結界で民を護り、騎士団とともに戦場で闘えるほどの戦闘力を有していたらしいが、今は見る影もなく堕落している。俺は生まれてこのかた、結界なんてものにはお目にかかったことすらない。
「表向き、魔導師団は知恵をもって神薙を護ることになっているはずだ。神薙の権力と彼らの悪知恵は、持ちつ持たれつの関係だろ? それなのに襲ったとはどういうことなんだ?」
俺がそう言うと、彼は話を思い切り端折って「陛下が魔導師団の解体を命じた」とだけ言った。
一瞬、言葉が出なくなった。いくら役に立たないとはいえ、腐っても国の組織だ。そう簡単に潰せるものではない。俺は左右に首を振った。
「どうやったら一日でそこまで……正当な理由があってのことだよな?」
「そこに書いてある。だから早く読めと言っている」と、彼はあごをしゃくった。
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