ヴィル太郎
第六章 淑女の秘密
◇◆◇
わたしの周りでは、しきりに「毒沼」という言葉が使われていた。
これはヴィルさんとアレンさんが言い出した「しばふペースト」の別名だ。
彼らが言うには、地方には本物の毒沼があるらしい。
かつて二人が辺境の地へ赴いた際、そこに人が落ちて大騒ぎになったそうだ。二人は緑色のどろっとした流動体を見ると、急に気分が落ち着かなくなるらしい。
ヴィルさんはクン……と、薬湯の匂いを嗅ぐと、雷に打たれたようになった。
何か覚えがあるようだ。
「あのおかしな茶の匂いではないか!」
そう言うと、彼はサロンを飛び出していった。
「もっと美味しくできないのか。リアが飲むのだぞ。あの小さな口に、よくもあんなものを!」
彼の大きな声が聞こえたので、アレンさんと顔を見合わせた。
「アレンさん、まさか、まだ先生が?」
「嫌な予感がします!」
わたし達も慌ててサロンを飛び出す。
玄関ホールには、お店の営業時間外にわざわざ来てくださっていた薬師のシンドリ先生とお弟子さんがいた。執事長が別件の相談をしていたので、その件で足を止めてくださっていたのだろう。
先生の評判を知らない王都民はいないと言われるほど有名で、こんなふうに家まで来てくださるのは超特別待遇だった。
真っ白な長髪に、同じく真っ白な長い髭という仙人のような風貌をしており、お元気そうではあるけれども、御年九十近い高齢者だ。背なんてヴィルさんの半分ぐらいしかない(ように見える)
「ばっ……!」と、アレンさんが言った。
何を言わんとしているのかはすぐに分かった。
ヴィルさんが先生の胸ぐらをつかんでユサユサしていたのだ。
それに合わせて先生の頭がカクカクと揺れ、髪と髭が激しく波打っている。
う、う、う、うちのヴィル太郎が、後期高齢者に噛みついているーッッッ!
「きゃーッ! 彼を止めてくださいー!」
「っかやろう! 何やってんだ!」
「アレンさん、気をつけて! 激しくベリッとやらないで!」
「やめろ、金髪! 早く手を離せっ!」
「そおっと、そおっと! 先生、こちらへっ! 痛いところはございませんか? 苦しくありませんかっ? あああ、なんてお詫びを申し上げたら良いのでしょうっ」
「リア様、鑑定魔法で確認しましょう!」
「はああああッ、そうしましょう。お願いします。……どう? どうですか?」
「……。一応、異常なしと出ました」
「よ、よかった。でも、でもっ、交通事故のようなものですから、むち打ちとか、後から症状が出るかもっ。まだ安心できませんっ」
「リア様、落ち着いて。とりあえず今は大丈夫ですから」
「アレンさぁぁんっ」
「ビックリしましたね。もう、大丈夫。大丈夫ですよ」
ヴィルさんという人は、やってはいけないことをやる天才だ。
幸い先生はニコニコとして「これしき何ともありませんよ」と言ってくださった。そして、お弟子さんが操縦する小さな馬車でスイーッと帰っていった。
「ヴィルさんッ、あんなことをしたら、先生が死んでしまいますッ」
「ん?」
「ん? じゃないっ。先生ユサユサ禁止っ! 先生でなくとも高齢者をユサユサしてはいけませんっ。二度としてはダメですよッ」
「いや、あいつが悪いのだぞ?」
「あいつではありません、先生ですっ。先生は何も悪くありませんッッ」
ぷりぷりしているとアレンさんに止められた。
「リア様、あまり興奮するとお天気が……」
「うう、そうでした」
「気晴らしにお散歩に行きますか?」
「そうしましょう……」
グッスリと睡眠を取って回復した後のヴィルさんは、また柴犬のような不思議生物と化していた。
彼は平和だとジコチュー犬になる体質(?)らしく、頻繁に周りから叱られている。アレンさんがお母さんに見えてくるくらいだった。
わたしの薬の時間になると彼は仕事を放り投げ、いそいそと現れた。そして、そばに腰をかけ、頬杖をついてこちらを見ている。
恥ずかしいから嫌だと言っても、「神薙のことは把握しておく必要がある」とか何とか言って、わたしが「ぐ…お…ぉ…」とやっているのを眺めるのだ。しかも、目をまん丸にして。
当初は彼を止める目的で来ていたはずのアレンさんも、気づけば見学者に加わっていた。彼には毎回、わたしの不味い顔が伝染していた。
そんな騒がしい日々を経て──
午後の日が当たるぽかぽかのサロンで、わたしは皆さんに「しばふペーストからの卒業」をお伝えした。
「ああ、やっと毒沼を飲まされて苦しむリアを見なくて済む!」と、ヴィルさんは言った。
それはこちらの台詞である。
これでようやく、薬の時間になるたびにワンワン暴れて叱られるヴィル太郎を見なくて済む(笑)
彼はわたしに巻き付いて、オデコにちゅっちゅした。
今日も元気に距離感がバグっているけれども、これを気にしていたら生活ができない。
彼のことは好きなので、基本的にはこの仕様を受け入れ、本当に邪魔なときは武力行使で剥がして頂くことにしていた。
皆でお茶を頂きながら、脱しばふペーストをお祝いする。
そんな中、ひとり難しい顔をしているのはアレンさんだ。腕を組み、ナナメ下の床を睨みつけて、何かじっと考えている。
悩んでいるのに格好良いとは一体どういうことなのだろう……。
彼はメガネを外すと両目を閉じ、眉間を指で強く押した。悩みは深そうだ。
彼の放つイケ仏ビームが、床のふかふかカーペットに突き刺さっている。
「あのぅ……アレンさん? そんなに睨むと、お高い絨毯に穴が開いてしまいますよ?」
「そうだぞ。お前がそんな顔をしていると、リアが不安がるだろう」
眉間に深いシワが刻まれている彼を見ていると、自然とわたしにまでシワが伝染する。長時間一緒にいるせいか、最近、頻繁にシンクロ現象が起きるのだ。
「見ろ。リアまでこんな顔になってしまったではないか」
ヴィルさんが人差し指と中指でわたしの眉間のシワを伸ばそうと試みたものの、すぐ元に戻ってしまった。
「何があった。言ってみろ」
アレンさんの顔に、大きな字で「めんどくさい」と書いてある。
どういうわけか、ヴィルさんには彼の顔に書いてある文字が見えないらしい。
自分に搭載された空気清浄機能は常にフル稼働させていても、空気を読む機能のほうはあまり使わないヴィル太郎である。
「早く言え」
「ヴィルさん、悩んでいる人に、その言い方は良くないですよ?」
「うん? 誰が悩んでいるって?」
だめだこりゃ。
アレンさんはため息をつくと、面倒くさそうに話し始めた。
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