神薙の家 §1
エムブラ宮殿では、六人の孤児を一時的に保護する準備が進められていた。
当初は「合間を見て子どもたちに会いに行こう」などと気軽に考えていたけれど、想定以上の忙しさが続き、教会へ行けたのはわずか一度きり。それも短い時間だった。
ニッコリさんたち第三騎士団は、わたしの代わりには十分すぎるほどの働きをしてくれた。こちらの急なお願いにもかかわらず、子どもたちの世話だけでなく、金庫の中身を取りに戻ってきた「自称管理人」まで捕まえてくれたのだ。本当に頼もしい人たちだった。
満を持して迎えた引越しの日。
朝からそわそわして落ち着かず、今か今かと彼らの到着を待っていた。
「休日の渋滞で、予定よりも遅れます」と連絡があったのに、玄関の外をウロウロしていたら、アレンさんに笑われてしまった。
この日のためにレンタルした馬車が、ゆっくりとカーブを曲がってこちらへ向かってくるのが見える。王都内で循環バスの役割をしている乗合馬車と同じ型で、屋根の上まで使えば二十人以上を一度に運べる大型車だ。敷地内を走っていると迫力がある。
「来たぁっ!」
「リア様、はしゃいで前に出ると馬に蹴られますよ。コラ、ぴょんぴょんしないの」
「あっ、誰か手を振っていますよ? ほらほらっ」
「危ないから下がってください。おとなしくしないと拘束しますよ?」
はしゃぎすぎてアレンさんにバックハグで拘束されてしまったものの、わたしは気にせず馬車に向かって手を振った。
「ううぅ、アレンさん」
「どうしたのですか?」
「王宮での苦労が、少し報われた気がします」
「リア様……」
彼は腕に少しだけ力を込め「やはりつらかったのですね?」とささやいた。
「最初だけ。今はもうつらくないです」
「本当ですか?」
「わたしがつらかった原因は、わたしの中にありましたから」
「またそうやって、私の庇護欲を煽る……」
そう言って、彼はさらに腕の力を強めた。
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王宮で打ち合わせを重ねた結果、孤児の救済に向けて『神薙の家』というプロジェクトが立ち上がった。
「国を挙げて孤児を支援する」と、陛下が高らかに宣言をしたところまでは良かったけれど、具体的な作業段階に入ると、いかにも王宮らしいボロが出はじめた。
原因は、プロジェクトを担当する文官二人――通称ムツさんとゴロウさん、合わせてムツゴロウだ。
ポーっとしていて、まるで干潟の上でチャポチャポしているムツゴロウのようだった。三十代半ばの既婚者で、小さなお子さんがいるパパさんたちだ。
彼らが「この作業内容でよろしいですか?」と聞けば、だいたいわたしが「いいえ、それではいけません」と答えるはめになる。
彼らが「計算結果はこちらです」と資料を出せば、数秒後には暗算を終えたアレンさんとミストさんが怒り出すのが日常だった。
彼らは作業を嫌がり、息をするように手を抜こうとする。計算は頻繁に間違えるし、桁を落としたり、足し算と掛け算の順番を逆にしたり、小学生レベルのミスが多く、とても重要な仕事は任せられなかった。
孤児救済プロジェクトは、いつの間にか「ムツゴロウ調教プロジェクト」になりかけていた。
不満が募る中、わたしはアレンさんに提案した。
「彼らの良いところを探してみましょう」
宰相の話では、二人は縁故採用の文官だ。そのぶん身元は確かで、民の支援に向いた人材だと聞いていた。宰相がそこまで言うのなら、きっと良い面があるはずだ。
「やや考慮の足りなかった陛下の案に、反対意見を述べたことは評価できますね」と、アレンさんは言った。
彼らは筋の通った理由を挙げ、代替案まで提示してくれた。その多くが実際に採用された。
「子育て経験に裏打ちされた意見が多いです。しかも、王の前でも臆せず発言できる自信がある。聞いてみると、確かに『なるほど』と思える内容でした」
彼は会議での二人を高く評価していた。
思い返せば、彼らは資料の読み上げや発表がとても上手だった。声も通るし話し方もわかりやすい。キツい質問が飛んでも、事前準備をしっかり整えているから堂々と受け答えができる。
その上、常にほんわかした雰囲気をまとっているので、余裕があるように見えるのだ。
「無能ではないと思いますが、なぜ手を抜きたがるのかが不思議です。特に午後は、時計ばかり見て集中力を欠いています」と、彼は眉をひそめた。
彼の話を聞いていて、ふと思い出した。以前、わたしの職場にもそういう人がいたのだ。
「そういえば、あの先輩、家族の事情って言ってたっけ……」
「リア様? 何か心当たりがありますか?」と、アレンさんがこちらをのぞき込んだ。
「もしかして、あの二人は単に早く家に帰りたいだけなのでは、と思って」
「はい?」と、アレンさんは目を丸くした。
「子どもの面倒を見るのが好きで、それが『生きがい』だと言っていたでしょう?」
「ええ。だから仕事で子どもの支援をしているわけですが」
「陛下の案は明らかに不足があったから意見を言えたけれど、家庭を優先することは一般的ではないから、言いづらかったのかも。この国は長時間労働が当たり前だから……」
「確かに、子どもを支援する仕事のせいで、可愛い我が子をないがしろにするようでは、本末転倒だとも言えますね」と、アレンさんはあごに手を当てた。
「時計を見ていたのは、子どもたちの夕食とかお風呂とか、寝かしつけの時間じゃないかしら。お父さんが面倒を見やすいから、わたしの母国のイクメンは皆やっているの」
「なるほど……だからソワソワしていたのですね」
「ムツゴロウが残業なしで家に帰れる体制づくりが必要かもしれませんね。細かい作業は別の人に任せて、彼らには得意な企画と発表に集中してもらいましょう。費用も、彼らの残業代より安く上がります」
その一言を口にした瞬間、わたしの心はすっと軽くなった。
陛下のお許しを頂いて、一般から事務員を採用することにした。
ムツゴロウと採用条件を考えていると、彼らは貴族でありながら、意外にも「性別・身分不問」を提案してきた。「頼みたいことがはっきりしているので、能力重視で選びたい」と言う。
そこにアレンさんが「社会人経験三年以上」の条件を追加した。
「事務職の経験者や算術に優れた者を優先採用」とコメントを添えて求人広告を出すと、大勢の応募があったが、筆記試験と面接を経て、最終的に男性二人が採用された。
新人たちは「貴族の上司が厳しかったらどうしよう」と不安そうにしていたけれど、出てきたのは超ウェルカムでポワッとした文官コンビだ。すぐに打ち解けて「働きやすい職場です」と笑顔を見せてくれた。
ムツさんとゴロウさんも、苦手な作業を分担してくれる仲間が増えて幸せそうだった。
思えば、わたしが彼らに苦しんでいたのは「どうしてアレンさんのようにできないのか」と比べてしまっていたからだ。
しかし、ムツゴロウは「優秀な常人」で、アレンさんは「優秀な超人」だ。
超人を基準に物事を見始めると、たちまち世界が生きづらくなる。それに気づけただけでも、大きな収穫だった。
こうして「ムツゴロウ調教プロジェクト」は静かに幕を閉じたのだった。
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そんなムツゴロウを思い出していると、子どもたちを乗せた馬車が屋敷の前に停まった。




