教会 §1
馬車はにぎわう街道から人通りの少ない道へと入ってゆく。ざわめきは遠ざかり、代わりに鳥のさえずりや風の音が耳に入ってきた。
「やはり東四区方面か……」御者のノアさんは標識を三か所を指さしながら確認すると、手帳に何か書き込んでいる。彼はアレンさんから頼まれ、通ったルートの記録をしていた。
「子どもの足でここを歩いて広場に行ったなんて……」
窓の外を流れる景色は、わずか数分の間で大きく変化していた。石畳は途切れて土がむき出しになり、車輪がゴトゴトと不規則な音を立てている。途中で車線が減り、馬車が一台しか通れない細い道になった。右側だけ異様なほど緑が多い。手入れのされていない草木が鬱蒼と茂っており、まるで大都会と林の境目をなぞっているかのようだった。
しばらくすると、再び二車線ある環状道路に出た。
「これを渡ると東六区です」と、ノアさんは前の標識を指さしている。「が……渡らないですね。そうなると、やはり目的地は四区の中です」と、彼はまた手帳に鉛筆を走らせている。
馬車は二度右折し、密林の小道へ突入した。まるで探検隊にでもなったかのような気分だった。
「ノアさん、このモッサリとした密林区画はなんですか? ここだけちょっと異様な雰囲気なのですが」
開発の手が入っていない区域が都会のど真ん中にあると、何か祟りでもあるのかと勘ぐってしまう。
小道に入ってからというもの、王国最高スペックを誇る我が家の「魔改造」馬車ですら、その衝撃を吸収しきれないほどのデコボコ道だった。朽ちかけた看板を掲げたあばら小屋や、窓ガラスが割れたままの家屋が点在し、人影もない。営業している商店はなく、循環馬車の停留所すらもなかった。まるでゴーストタウンのようだ。
ノアさんが言うには、その密林区画こそが「東四区」らしい。
かつて大きな競技場や商業施設、住宅地などの開発が計画されていたエリアだが、隣国との戦争を理由にすべてが頓挫し、そのまま放置されている。お世辞にも治安が良いとは言えないため、意図的に周辺の道を避ける御者が多いそうだ。
馬車は東四区の奥まで進み、こぢんまりとした古い石壁の建物の前で停車した。
「ここが、テオ君の住まい?」
道に面して真ん中に大きな扉が一つ。それを挟むように小さな窓が左右についている。壁にはツタが這い、その一部は屋根まで到達していた。絡みつくツタの隙間から、かつては輝いていたであろうエンブレムが、その寂れた姿をのぞかせている。街で時折見かけたことのある紋章だった。
「教会……?」と尋ねると、テオはうなずいて目を伏せた。
「でも、ここに神様なんかいないよ」
まだ幼さの残る年頃の子から、乾いた響きのある言葉が放たれると、胸にめり込むように沈んでいく。
彼の瞳が印象的なのは、その色だけではなかった。諦めにも、静かな怒りにも、哀しい嘆きにも見える複雑な影が、時折見え隠れするせいだ。
わたしはアレンさんと顔を見合わせ、改めてエンブレムに目を向けた。風を受けて空へ舞い上がる龍の紋章――西の聖女像を祀る「西派」の教会だった。
「神様がいない教会なんてあるの?」と尋ねた。
「祈りに来る人がいなくなったから、いないと思うよ?」と、彼は肩をすくめている。
「そうなのね……」
「大人はいないと言ったな?」と、ヴィルさんは問い詰めるように尋ねた。
「うん。前いたけど来なくなった」テオはまったく動じない。
ヴィルさんはわたしに目配せをすると、わずかにうなずいた。ややこしい宗派争いのせいで「教会には近づくな」と言われていたけれど、大人がいないのなら入ってもいいようだ。
荷馬車から荷物を降ろしていると、テオと同じくらいの年頃の子が一人、教会から飛び出してきた。オレンジがかった長い赤髪を後ろで一つに束ね、かつては白かったと思われるシャツと、ブレイシーズで吊った黒のハーフパンツといういでたちの子が、ガニ股でのっしのっしとテオに近づいて来る。
アレンさんがサッとわたしの前に立ったので、彼の後ろから様子をうかがっていると……
「あんた! 黙ってどこ行ってた!」と、テオの顔が吹き飛びそうな勢いで怒鳴りつけている。
わたしの頭は大混乱に陥っていた。
異世界暮らしが始まって以来、大急ぎで常識を詰め込んだせいか、学んだことと目の前で起きていることにギャップが生じると、軽くパニックになるのだ。
この国は女性の足の露出に対して驚くほど保守的で、「大衆の前で膝は出さないもの」とされている。ハダカ同然のドレスを着ていた先代の神薙は異常者であり、一般市民の前に現れたならば、魔物か宇宙人と間違えられる。
テオを怒鳴りつけている赤髪の子は、膝が出る服を着ているものの、女の子の声だった。一瞬「変声期前の男子かな?」とも思ったけれど、わずかにお胸が膨らんでいるようにも見える。
もし、治安の悪い地域で女子がお膝を出しているのだとしたら……それは大変なことだ。ロリコンの変態に遭遇してからでは遅い。
「ちょっ、ちょっとあの子に挨拶をしますね?」アレンさんに告げ、いそいそと赤髪ちゃんに近づいた。
「あの、こんにちは。ご縁があってお邪魔することになったリアと言います」
「あ、私、サナです。こんにちは」
挨拶する姿を見て、間違いなく女子だと確信した。この国は男女で挨拶の仕方が異なるのだ。
ぐあああ、なんということだろう。彼女は誰かからもらった男子用の服を着ているのだ。一刻も早くこの子のお膝を隠さなくては。何か……何かないかしら、大きな布とか、ストールとか……。
「あの、貴族様、ですよね?」
一人で焦っているわたしに、彼女は少し遠慮がちに聞いてきた。
「え? え、ええとー、わたしは外国から来て、それで、家族の仕事を手伝っていて……」
お膝が気になってしまい、しどろもどろで恥ずかしい。
「外国商人の方だったんですね」
「そ、そうなの、祖父が会社を。うふふ」
苦し紛れに、断りもなくベルソールさんを祖父に仕立ててしまった。
もともとは平民であるはずのわたしが、貴族より位の高い神薙様を必死に務めていて、たまに平民の服を着たら「チッ、お貴族様が」とケンカを売られ、面と向かって貴族ですかと聞かれたら「商人」だと答えている。我ながら支離滅裂だ……。
彼女と話していると、教会の中から子どもが四人飛び出してきた。テオとサナよりも小さな子ばかりで、わたしたちの手にあるパンやお菓子の袋を見るなり瞳を輝かせ、弾むような歓声を上げた。
「あっ、そうだわ。わたし、お昼ごはんを作ろうと思って材料を買ってきたのですけれど、朝は何を食べました?」
同じメニューがかぶらないようにと思って尋ねてみると、予想外の答えが返ってきた。
「クラッカーです」と、サナは言った。
「え? えっと、ほかは?」と聞くと、彼女は首を横に振った。
「ど、どのくらい?」
「今朝は一人二枚ですね」
心に極太の杭が「ドズン!」と突き刺さった。
こんなことなら出来合いのサンドウィッチを人数分買ってくればよかった。テオが喜んで食べていたハムをもっと食べさせてあげたいと思ってしまったばかりに、判断を誤ったのだ。
「ま……まずはお食事の支度をしましょう」
わたしの提案に、彼女は笑顔を返してくれた。彼女のうれしそうな表情が唯一の救いだ。とにかくフルパワーの大急ぎでランチを作らなくては!
ヴィルさんに「テオの靴とサナの服を手に入れたい」と耳打ちすると、彼はアレンさんに記録をするよう指示した。まだほかにも必要な物があるはずだと彼は言う。
アレンさんはサッと手帳を開き「服と靴、それから、何よりも食料ですね」とペンを走らせた。




