パン泥棒 §3
「――はああぁ、旦那様。聞きましてぇ?」
よよよ……っ。もたれ掛かるわたしを、ヴィルさんはしっかと抱きとめた。
「お買い物に来た小さなお客様をいきなり盗人呼ばわりして殴ろうとするなんて。それに、わたくしにまでヒドイことを仰るのです」
オルランディアで役に立つ『お貴族様講座』その弐。
『言ってもわからない相手とやり合うときは、手始めに相手の評判を落とす』
当人同士で話し合っても和解に至らない場合、お貴族様はさりげなく(?)周りに事実を伝える。周りの力も借りて「非常識なことをしているのはアナタのほうですよ」と相手にわからせるためだ。これもやはり謝罪させることを目的としている。
ヴィルさんの口角がわずかに上がった。わたしの意図は伝わっているようだ。
「ああ、見ていたとも、愛しい妻よ! 無実の少年に謝罪すらしないとは言語道断! 君の身分を知ってもなお暴言を吐くとはなんたる不敬!」
さすがヴィルさんだ。彼は劇場型イケオジ陛下に似て、少し大げさな演技をさせると抜群に上手い。よく通る大きな声が出るし、彼はわたしに足りない部分をすべて補ってくれた。
ズンズクズンズク ズンズクズンズク ズンズクズンズク……♪
ギター弾きが曲調を変え、わたしの声がかき消されないよう低い音でリズムを取っている。意図的に場に合わせたBGMを演奏しているようだ。
「こんなことでは、ますますお店からお客様が離れていってしまいますわね?」
「君はなんて慈悲深い人だ。こんな悪徳店主の心配など必要ない!」
ヴィルさんはノリノリで旦那様役を演じている。
「あの方はきっと、ご自身の立場がわかっていらっしゃらないのです」
「そうだとも、愛しい人。彼も周りの様子を見てみたら一目でわかるだろうに!」
ズンズクビートに乗せて悪徳商人のレッテルを貼られ、さすがの店主も周りを見回した。
初めは少年が悪役、店主が被害者だったかも知れない。けれど、少年がお金を持っていた時点でその形勢は逆転している。周りの人々は、ヴィルさんの迫真の演技によって、少年が無実であることを確信していた。ヒソヒソとささやき合い、店主に向けられる視線は冷たく容赦がない。もうギター弾きすら彼を鼓舞してはくれなかった。
「部下に警ら隊を呼びに行かせようではないか!」
ヴィルさんが外套をバッと翻した。すごい役者だ……。
「すてきですわ、旦那様っ」
ポスッとヴィルさんの胸に収まると、彼はわたしをギュッとする。
「私は君のためならなんでもするよ!」
さあ、パン屋さん、そろそろ何かしないと逮捕ですよ?
♪こ~れがぁ~~ あぁーーいぃ なのねぇ~~♪
――な、なんか変な歌が始まった……。
突如として美声を披露したのは、ジャン・ジャカジャンさん(※ギター弾き)だ。さっきから聞いていれば、ずいぶんと調子のいい人だ。
「これが愛なのね だって私は いいえ貴方は なすびの花が咲く頃に うんたらかんたら……」と、意味不明な歌詞で「愛のようなもの」を歌い上げている。
おかげでこちらは完全に主役を奪われてしまい、ポカーンと彼を見るはめに。
「待ってくれ!」と、置いてけぼり状態の店主が声を上げた。
ジャン・ジャカジャンの歌声に魅了されてしまったわたしは、食い下がるパン屋を見て、一瞬「誰だっけ、この人?」と、現実をド忘れ。直前の記憶を失うほど、ジャン・ジャカジャンは歌が上手かった。
「警ら隊」という言葉を聞いてから、店主の顔には焦りが浮かんでいた。
未成年者への暴力は成人相手の傷害よりも罪が重く、仮に未遂であっても罰せられると聞いた。目撃者も多いため、拘束されると有罪はほぼ確定だ。
第一騎士団も逮捕権を持っていることを忘れてはいけない。警ら隊の話なんて、単なる脅しだ。
警ら隊が捕らえた場合は陸軍の留置所に入れられるが、第一騎士団が捕らえた場合は、王宮が管理している凶悪犯だらけの地下牢行きだ。絶対に居心地が悪いのでおすすめできない。
わたしたちの茶番劇は「おわびをする」という唯一の逮捕回避策を提案しているに過ぎなかった。
ジャン・ジャカジャンも歌と演奏を止め、彼の出方を待っている。
さあ、謝罪をどうぞ。
差別をしたこと。子どもに暴言を吐いたこと。窃盗犯だと決めつけて暴力を振るおうとしたこと。その後の態度も不適切だったこと。これからは心を入れ替え、きちんとした大人でいると誓ってもらいたい。
「慰謝料として、うちのパン! 好きなだけ持っていけ!」
店主は自分の店を指さした。
「……パン?」
ヴィルさんの大胸筋に触れたまま、わたしは口をパカーンと開けていた。
慰謝料として、パン? せめて「おわびの品」って言いなさいよぉ! もぉぉ。
パンで手打ちにしようと言い出すのは想定外だった。あの子が貧困層だから、それで満足すると考えたのだろうか。
振り返ってジャン・ジャカジャンを見ると、彼は肩をすくめた。
さすがのお調子者もお手上げのようだ。足元に転がっている田舎パンを見ながら「これがパンなのね~」と替え歌を歌うわけにもいかないのだろう。
彼は帽子のつばをつかんで引き下げ、顔を隠してしまった。
――逃げたわね……ジャン・ジャカジャン……。
少年がパンの慰謝料を喜ぶ可能性は完全に否定できない。
一応本人にも聞いてみようと考えて振り返ると、すぐ後ろに彼がいた。アレンさんと一緒に近くまで来ていた彼は、またポケットに片手を突っ込んで大事なお金を握りしめている。
「聞こえていた?」と聞くと、彼は「うん」と答えた。
「ど、どう思う……?」
彼は口をへの字にして眉間にシワを寄せると、首を横に振った。
「オレ、こんなだし、慣れてる。だからいい」と、彼は店主をにらみつけている。
「慣れている」という言葉に、胸が痛んだ。
これは彼なりの皮肉だ。
「慣れているけど許しているわけじゃない。だからアイツの施しなんか要らない」と言っているのだ。
彼の毅然とした態度を見て、アレンさんが微笑を浮かべた。
念のため「要らない?」と確認したところ、彼はわたしをまっすぐ見て「要らない」と答えた。
誇りを持っていることが彼にとって良いことかどうかは、様々な解釈があると思う。
「小さいのにエライ」と褒める人もいれば、「その誇りが逆に彼の生活を困難にしている」と考える人もいるはず。わたしは前者で、彼の言葉にホッとしていた。パンを受け取らないのなら、彼に別の提案ができる。
「ねえ、このことは忘れて、わたしと一緒にほかのパン屋さんでお買い物をしない? もっと親切で、安くて美味しいお店を知っているのだけど」
「もっと安い? 本当?」と、彼は興味を示した。
「ええ。ここよりもずっとお得なの。一緒に行きましょう?」
「い、行く!」
「決まりね。ところで、お金……ずっと握っているの?」と尋ねたところ、彼はポケットが破れていると答えた。
「どれどれ? あらら、本当ね」
彼のポケットは一番大きなコインでも落ちてしまいそうなほど、大きな穴が開いている。
わたしはハンカチを広げ、折り紙のコップを作る要領で即席のお財布を作ると、そこに小銭を入れて彼のポケットにしまった。
「はぐれないように、手をつないで行きましょう」
こちらから手を出すと、少年は「ちょっと待ってね」と言って、ズボンでゴシゴシ擦ってから手を出した。ガサガサとした彼の手が、生きることのタフさを物語っていた。
パン屋の店主に思い切りつかまれた手首には、赤く指の跡がついていて、わたしの心に火をつける。やっぱり許せない……。
ヴィルさんに目配せをすると、彼は目深にかぶっていた帽子を上にずらして店主に話しかけた。




