パン泥棒 §1
ある日の午前中、ネルソン広場の朝市を歩いていた。
陽光が降り注ぐ朝市は露店が並び、店の呼び込みと買い物客の話し声が混ざり合う。時折、果物の匂いがふわりと鼻をなでた。
ネルソン広場は楽器を持ってやって来る人が多い。噴水近くで行われるジャム・セッションは、休日ともなるとビッグバンド並みの大セッションに発展することもあった。その日は静かな平日とあって、ギターのような弦楽器を抱えた人が一人だけ、噴水の縁に腰かけて弦を弾いていた。ゆったりとした調べが、人々のざわめきに溶け込んでゆく。
王都でも屈指の有名歌手が、下積み時代にそこで歌っていたらしい。広場からスターダムにのし上がった彼にあやかって、ネルソン広場でプロの音楽家を目指す人々は「ネルソンの夢追い人」と呼ばれている。
グレープフルーツ事件の後、ヴィルさんは王都の主要な市場を片っ端から視察した。
広場で開かれている青空市は、これまで彼が視察してきた卸売りメインの大市場とは異なり、屋根のないスーパーマーケットやコンビニのような存在だ。わざわざ彼が行くほどのこともないのだけれど、わたしに行きつけの青空市があることを知ると「そこにも行く」と言い出したのだった。
「相変わらず混沌としていますねぇ……」
露店を見ながらつぶやくと、隣でアレンさんが噴き出した。
カットフルーツのお店の隣に靴下とステテコおぱんつのお店、その隣がサンダル屋さんで、さらに隣にはサンドウィッチ屋さん――ネルソン市場の青空市に、カテゴリーマネジメントという概念はない。
「おそらく契約順でお店の出店場所を決めたのでしょうね。まるで宝探しです」と、彼はクスクス笑った。
ヴィルさんがパインアップルを食べたがったので、カットフルーツ屋さんに立ち寄った。
わたしもこれを着ていたのよねぇ……と、お隣の店に陳列されている真っ白なステテコおぱんつを眺める。これからわたしが売る普通のおぱんつも、このぐらい普及してくれるとよいのだけれど。
「んっ、高いだけあって美味い」と、お高い南国フルーツを食べ、ヴィルさんはご満悦だ。
工芸品を売っているお店に寄り、木彫りのサルの置物を見た。
行く先々で売られている木彫りの置き物は、アレンさんいわく「一応オルランディアの伝統工芸」とのこと。
昔はごく普通の置き物だったらしいけれど、近年若い職人さんたちが作るお笑い系がウケているそうだ。置き物職人は「面白いことをやりたいけれど、芸人になれるほどではない」という人たちが選ぶ職業になりつつあり、これを本当に伝統と呼んでもいいのかという論争があるらしい。
「ぶっ……ははは! リア、見てくれ、これを! ははははは!」
コミカルな表情のサルがヴィルさんのツボに入り、彼は大笑いしながら一つ一つを手に取って見ている。どうやら店主が自分で彫っているらしく、次々と面白いものを勧めてきた。
「そういえば、ポルト・デリングにクマをくわえた鮭の置物がありましたね」
衝撃のシャケクマについて話を振ると、アレンさんは「腹筋に悪い置き物でしたね」と思い出し笑いをした。
「うちは猿が色んなものを背負うシリーズを作っているんですが、逆もやろうかな」と、店主もノリがいい。皆で笑っていると、広場の中央付近から大きな声が聞こえた。
「このクソガキ! 警ら隊に突き出してやる!」
ただならぬ雰囲気に、アレンさんを始め護衛の空気がピリッとした。
「まあ、何事でしょう……」
騒ぎが起きているのは噴水近くにあるパン屋のようだ。
皆で声のする方向を気にしていると、店主が「盗人のようですねぇ。たまーにあるんですよ」と言った。
次の瞬間、「ジャララーーンッ!」とギターの大きな音が静寂を破った。
それまでと一転して勢いのある曲を弾き始めたギター弾きは、つま先でリズムを取りながら速いテンポで弦をかき鳴らす。
ジャンジャガ ジャンジャガ ジャンジャンジャ……!
事件の雰囲気に合わせているつもりなのか、耳障りなほど緊迫した音色が、市場のざわめきを飲み込んでいた。まるで操られたかのように、人々の視線が一点、パン屋の方向へと吸い寄せられてゆく。
パン屋の店主は、腹部から腰にかけてたっぷりと脂肪を蓄えた男性だ。少年の腕をつかんで怒鳴りつけている。
「あの子どもがパンを盗もうとしたのか?」と、ヴィルさんは置き物を手に持ったまま言った。
「でも、あの子、パンなんて持っていないですよ?」
「あそこを見てごらん」と言って、彼は少年の後ろを指さした。
大きくて丸い田舎パンが地面に一つ落ちている。
「あの子が、あれを盗むでしょうか……」
少年はパン屋に腕をつかまれたまま、まるで凍りついたかのようだ。青ざめた顔で店主を見上げている。
小学校の中学年くらいに見える体つきは、ヒョロリと痩せていて、お世辞にも清潔とは言えないダブダブの服に包まれている。買い物袋ひとつ持たず、サンダルは親指あたりの底がはがれて、ほとんど裸足のように見えた。
彼はなぜかポケットに片手を入れたままだった。
「袋も持たずに自分の頭よりも大きなパンを盗もうなんて思います? 壊れたサンダルでは追手から逃げ切れませんし」
辺りに響き渡るジャンジャカギターのせいで、ついつい気が急いて早口になった。
「確かに、彼があれを盗むのは無理があるな」と、彼はアッカンベーをしている木彫りの猿を置いた。
「もし、本当に盗もうとしたのなら、きっと自分の分だけではないでしょうね。かなり切羽詰まっているのでは?」
「君の言うとおりだ。店にはもっと小さくて盗みやすいパンがたくさんあるはずだ」
「あのポケットに入れた手が、すごく気になるのですけど……。わたし、ちょっと行ってきますね?」
「……は? なっ! ちょっ、リア! 待て!」
スタコラ走って少年の所へ向かった。
パン屋の店主は怒鳴っただけでは気が済まないらしく、手を振り上げている。
たかがパン一個で小さな子どもを殴るなんて、病んでいるとしか思えない。王都では未成年者への暴力は理由を問わず禁止されているはずなのに……。




