お手伝い §3
右肘の辺りに強い痛みを感じた。
「~~~ッ!」
「リア!」
ヴィルさんは瞬時に駆けつけ、わたしを抱き寄せた。
「リア、大丈夫か。痛むか?」
さっきまで「リア殿」と呼んでいたのに、不意打ちのような呼び捨て……。
肘はとても痛かったけれど、彼の腕の中にいると何がなんだかわからなくなる。心地良い温もりと香水の良い香りに包まれ、癒し効果は抜群だ。
それにしても、いったい何にぶつかったのだろう?
ふと先ほどまでいた場所に目をやると、赤いドレスに身を包んだブロンドヘアの女性が、「般若のお面」のような形相でこちらをにらみつけていた。
誰だろう……? 仮に知り合いだったとしても、顔が原形を留めていないので判別がつかない。
「リア、近くのカフェで少し休まないか?」
それをやられるとわたしが何も言えなくなってしまうのを知ってか知らずか、彼は耳元でささやいた。
店を出て、裏のブロックにあるカフェ「ネヴィンウッズ」に入ると、視界いっぱいに木と緑が広がっていた。
温かみのある内装と、青々とした観葉植物に心が和む。
「森とまではいかないが、自然の中にいるような気分になるだろう?」と、彼は言った。
平日のせいか人はまばらで、本を読んだり書き物をしたり、ゆっくりと過ごしている一人客がほとんどだ。店員はヴィルさんを見るやニコリと微笑み、誰もいないテラス席へ案内してくれた。広いテラスは裏手の歩道に面しているものの、植物やフェンスで囲ってあり、周りを気にせずリラックスできる空間だった。
本日のおすすめと書いてある秋摘みの紅茶を選び、お茶請けにドライフルーツとクッキーを頼んで二人でシェアすることにした。
「痛むか? すまない。離れるべきではなかった」
わたしを気遣ってくれる彼だったけれど、ずっと何か言いたげな表情を見せている。
彼はわたしの左手を取ると、軽くキスをした。手の甲に柔らかい感触が伝わってきて、また鼓動が速まる。
「――女がいただろう? 何かされたのではないのか?」と、彼は眉尻を下げた。
位置関係だけを見れば、あの女性に突き飛ばされた可能性は高い。でも、実際にその瞬間を見たわけではないし、おそらく彼女は面識のない相手だ。わたしを誰かと間違えたのかも知れないし、悪意があるかどうかがはっきりしない。今は波風を立てないほうがいいだろう。
「存じ上げない方ですし、彼女もわたしを知らないと思います」
「そうなのか……」
「それに、もう痛くないので大丈夫です」
「本当に何もされていないか?」
「たぶん……。わたしも少しドジなところがあるので」
「しかし、危ない目に遭うのは二度目だぞ。リアには御守りが必要だ。贈ってもいいか? 我が家に伝わるものだ。使いの者に届けさせるから、受け取ってほしい」
このところトラブル続きなのは否めない。安全にマッタリと暮らせるよう、この世界の神様にもおすがりしたいところだ。彼の気遣いにお礼を言った。
買い物が予定より早く終わったこともあり、ふたりで手紙の隙間を埋めるように、のんびりとおしゃべりを楽しんだ。
彼は明るく気さくで、話の引き出しも多い。幼なじみとの面白エピソードを次々披露してくれて、何度もお腹を抱えて笑ってしまった。
少し痛い思いはしたけれども「神薙様」になってしまう前に、楽しい思い出ができてよかった。
「ほんの少しだけ寄り道をしないか」と、彼から提案があった。
残された時間はわずかだったけれど、彼は特別な庭園への入園許可証を用意してくれていた。
「ちょっとしたツテで手に入れた。見てごらん、この署名」
見覚えのある名前が書いてある。フォークハルト・オルランド――イケオジ陛下だ。
この方にはお世話になっていて、だいたい土曜のランチはご一緒しています……なーんてことは絶対に言えないので、「すごいですね。陛下の許可を頂くなんて」と答えた。
「これはめったに手に入らないらしい」と、彼は白い歯を光らせている。
『北の庭園』は、陛下の許可がなければ入れない特別な場所だ。
ゲートでの入念なチェックや、入り口に立つ屈強な騎士の姿が、その場所の特別さを物語っている。
門を抜けて少し歩くと、目の前に広がる幻想的な光景に思わず立ち止まった。
見事に咲き誇るバラに似た白い花。その花の周りには白いモヤがかかり、雲海のようにユラユラと揺れていた。甘く華やかな香りが漂っている。
「すてきなお庭……」
「この庭園にしかない『王の白花』という品種で、魔力を持つ花だ」
「白いモヤは何ですか?」
「花が発した魔力だ。濃度が増すと肉眼でも見えるようになる」
「触っても大丈夫なのですか?」
「いいよ。ここでイタズラができるのは王国に一人しかいないから大丈夫だ」
「それは、もしかして、陛下?」
「いいや。神薙……って、知っているかな? その人しか悪さはできないから安心していい」
「へえー、そうなのですねぇ」
――って、それ、わたしじゃないですかっ!
庭園に入ると、わたしが何かしてしまうかも知れないということ!?
「おいで、リア」
「あ、あぅ……あー、あの、いや、ええと……」
行きたい、見たい、あのフワフワ雲を触りたい。でも「悪さ」の正体がわからない以上、花には近づかないほうがいいに決まっている。
喜んでしまった手前、今さらなんて言い訳すればいいの? 何か理由を考えないと!
「や、やっぱり魔力というのはなじみがなくて、そのぅー、ちょっと怖い、と言いますか……」
く、苦しすぎる言い訳だ。魔法で手を冷やしてもらったこともあるし、治癒魔法も受けたことがあるのに。
しかし、花が一斉に爆発するなどして、彼が巻き添えになったらシャレにならない。「リア充爆発しろ」って、そういう意味ではないのよ!
「剣の国から来たせいかな。大丈夫だよ」と、彼は手を差し出した。
くう……やはり身分を伏せての人付き合いは大変だ。
「リア、どうしてそんなに可憐なのだ」
彼はワープでもしたのかと思うほど素早く戻ってくると、わたしを抱き寄せた。
「――え?」
愛おしげに頰に触れたかと思うと、いきなりキスを落としてきた。
「んんっ?!」
――ちょっ! ちょっと! 手が早すぎませんか!?
あっという間に唇を奪われ、こちらは頭がパニックだ。一拍遅れて心臓がバクバクと鳴り、体がこわばって罪悪感が押し寄せた。
相手をろくに知らず、自分の身分も明かしていない。十日後には旦那さん探しが本格化する身だ。こんなことをして良いはずがない。
こちらの貴族の男女関係は、まず「婚約」から始まる。そこから一年以上の期間をおいてから結婚する人が圧倒的多数。結婚までの間に相互理解を深めるので、手をつなぐのも婚約の後だと聞いた。ゆっくりペースなわたしには、このシステムが意外と合っているかもと思っていたのに、話が違う~~!
態度は紳士だけど、髪留めの「俺専用」も、キスも、予想外というか……いささか強引な気がする。
啄むようなキスが幾度となく降るたび、私は彼につかまることと、最低限の呼吸で手一杯になった。
「ヴィルさ……」
「かわいいリア、少し開けて」
彼の親指で開かれた唇に、狙いを定めた甘いキスが落とされた。わずかな隙間から彼の温かい舌が入り込み、深く蕩けるようなキスに、わたしの頭は庭園の白いモヤのように霞んでいった。
やがて足が地面に着いているのかも、息をしているのかもわからなくなる。彼の腕の中で、ただ揺蕩うばかりだった。
帰りの馬車の中でも、彼はわたしの唇を放してくれなかった。
キスとキスの合間に、うわ言のように何度も耳元でささやかれる名前。耳にかかる彼の息。「帰したくない」「かわいい」といった甘い言葉で、また頭が真っ白になる。
どうやって自分の馬車に乗り換えたのか記憶にないけれど「今日のことは忘れない」と耳元で言われ、どうにかこうにか「わたしもです」と声を絞り出して別れたのは覚えている。
屋敷に戻り、リビングのソファーに靴も脱がずにぽふっと突っ伏した。頭にケトルを乗せればお湯ぐらい沸かせそうだ。いろんな意味で、こんな日を忘れられるわけがない。
夜、日記を書こうにも、思い出すと頭がおかしくなりそうで『ヴィルさんとお出かけ』とだけ書くのがやっとだった。
翌日、あまりにフワフワするので体温を測ると微熱があった。初恋じゃあるまいし、キスで知恵熱とは――
その日を境に、物理的な熱が下がるまで、しばらくボーっとして過ごしていた。
「リア様、参加人数の最終報告が届きました」
イケ仏様の声でハッと我に返る。もうお披露目会の五日前だった。
「直前まで増えますから、ざっくり六百五十から七百人ほどですかね」と彼は言う。
「もう一つ、お知らせがあります。実は――」
お披露目会の前に、陛下と側近のオジサマを集めたランチ会。さらにその後、外国から来た王族の皆さんとのお茶会を催すことになったそうだ。
「それを五日前に言って来たのですか……?」
「確定したのは数日前だそうです。今、侍女が気の毒なほど大騒ぎをしていますが、ドレスや飾りなどは大丈夫そうです」
さすが人を拉致して開き直った国だ。こういうことが勝手に決まって事後報告として伝わってくるから本当に困る。
おかげでこちらは宮殿を挙げてわたしの食事とお茶のマナーや、参加者一覧をチェックする騒ぎに。
「ドレスよし、靴よし、お飾りよーし!」と、皆で指さし確認。
もうこれで何事もないだろう、あとは本番前の通しのリハーサルをやって終わりだ、と思っていたところで、ヴィルさんの使者がやって来た。