黒豹 §1
いつも微笑みを絶やさない先生が、珍しく深刻な顔をしていた。
「私が書物を読んで知るかぎり、ランドルフ公爵になる前のカール・オルランド王太子殿下は、戦の天才と呼ばれた稀代の武人です。漆黒の甲冑を身に着けて戦地を駆ける姿から『黒豹』の二つ名を持っていたとか」
ヴィルさんを見ると、彼は居心地の悪そうな顔で頭をかいていた。
「すまない。若い頃の父のことはほとんど知らなくて。なにせ家庭崩壊気味で話す機会がないというか、興味も持たなかったというか。周りも気を使って話題にしないから知る機会すらなくてだな……」
先生はふっと優しく微笑んで「私がただ本の虫なだけですよ」と言うと話を続けた。
戦の天才は二十代前半、王太子としてこれからというタイミングで王位継承権を放棄した。養子になると電撃発表をするや否や、あっけなく表舞台から姿を消してしまったそうだ。
「当時のランドルフ家は名家でもなんでもありません。ヒト族の名誉騎士でしたが、王都から少し離れた場所に猫の額ほどの領地しか持たない子爵です」
黙って聞いていた執事さんが、ポケットからハンカチを取り出して目頭を押さえた。
ヴィルさんが「じい?」と声をかけると、軽く鼻をすすりながら「すみません」と言った。
「わたくしは当時の旦那様……王太子殿下の配下にあった騎士団におりましたので」
「さっきの『黒豹』という二つ名は本当か?」
「本当でございます。あの雄姿を若にも見せて差し上げたかったです……」
執事さんの目から大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちた。
「すみません。あれこれと思い出してしまって。歳のせいか、どうも蛇口が壊れ気味で」と、彼は慌ててハンカチで拭った。
「じい、当時のことを話してもらえるか? じいの目線でいい。なるべく詳しく」
「あの時は……耳を疑いました。なぜ殿下がそんな家の養子になるのかと。王位を継いでくださらないことも。何もかもが衝撃的かつ唐突でした。我々はお別れも言えないままでした」
「そんなに急にか?」
「騎士団に知らせが来たのは、殿下がすでに王都を去った後でした」
「事後……今なら有り得ないな」
「風のうわさで、従者も連れずにたった一人で王都を出ていかれたと聞かされ……」
執事さんは唇をわなわなと震わせながらハンカチで目元を押さえ、絞り出すように「悔しゅうございました」と言った。
ヴィルさんは少しショックを受けたように「そんな話は初めて聞いた」と首を振った。
「申し訳ありません。旦那様にとって幸せな過去だとは思えませんでしたので、わたくしの口からは申し上げられませんでした。ずっと、胸の奥にしまっておりました」
もらい泣きしそう……。上司が急に理由もわからず失脚したら、わたしだって傷つくはず。
何十年も経っているだろうに、まるで昨日のことのように思い出して涙する執事さんを見ていると、当時の衝撃や苦しさがどれほど大きなものだったかが想像できる。
「暗黒の時代でした。それから次々と不幸が起こりましたので」
「不幸とは?」とヴィルさんが尋ねた。
「直後にクランツ領でクラウディオ様が戦死されたこともそうです」
皆の視線が一斉にくまんつ様へ向かった。
彼は何度かうなずいて「クラウディオは俺の父シルヴィオの弟。つまり俺の叔父だ」と言った。
「表向きは戦死ということになっているが……夜、戦場のテントの中で急に苦しみ出して亡くなったと聞いている。死因は不明のままだ」
「シルヴィオ様は王都で騎士を務めておいででしたが、お父上を支えるため、王都を離れるご決断をされました」
くまんつ様がうなずいた。
「先王が援軍として二個旅団を編成した。一つは父シルヴィオが、もう一つは書記のお父上アルベルト・オーディンスが率いてクランツ領へ向かった。それでも苦戦するほど、久々にして大変な戦だったらしい」
「シルヴィオ様とアルベルト様は旦那様の大親友であり、同時に陛下の友でもあります。誰もが知る王太子殿下と、その親しいお仲間が一度に王都を離れたので、我々はひどい喪失感に襲われました」
執事さんはグスンと鼻を鳴らした。
南の隣国は当時友好国だったそうだ。それが何の前触れもなく、突如全軍で攻めてきた。
当時の遺恨が原因で、南の隣国とは今も小規模な戦が続いている。
オルランディアの不幸はさらに続き、今度は先王が落馬事故で急逝した。
カール殿下の弟フォークハルト殿下が若くして王位を継ぐことになる。それが現在のイケオジ陛下だ。
しんとした部屋の空気を破るように、先生が口を開いた。
「カール王太子がランドルフ家の養子になったのは、オルランディアの牙を隠すためだったのではないか、と論じている外国の書物を読んだことがあります。国内外問わず、先王の敵にとってカール王太子の成長は脅威だったと考えられます」
ヴィルさんは小さくうなずき「昔は今よりも敵が多かったという話は叔父から聞いている」と言った。
先王亡き後、政治や経済だけでなく食料事情に至るまで、あらゆる分野で国内の混乱は続いたそうだ。
その混乱に乗じて、クランツ領以外の辺境伯領も隣国からの襲撃に見舞われていた。
領地を守るため立ち向かうものの、どこの領地も似たような状況にあり、互いに援軍を送ることができない。
王都はクランツ領への援軍に加えて暴動鎮静化のために多くの騎士と兵を動員しており、すべての領地に援軍を送れるほどの余裕はなかった。
長期戦になれば領地を奪われる。辺境伯領と肩を並べられるほどの武力を持つのは王都のみ。自分たちが負ければ敵は王都に攻め込むことになる。
王が倒されることだけは阻止しなければならない。
「その戦乱の時期に書かれた興味深い手記を読んだことがあります。彼らが窮地に陥ると、どこからともなく黒鹿毛の馬に乗った全身黒ずくめの男が現れたそうです」
先生は人さし指を立てた。
黒ずくめの男はフード付きの長い外套をまとい、黒い布で鼻から下を隠していたそうだ。しかも、戦地だというのに甲冑の類を一切着けていなかったとか。
男はすっと前線に出ると、誰も見たことのない魔法を使って形勢を逆転させた。
そして、領主にお礼を言う暇も与えず、風のように去ったらしい。
防衛戦はことごとく勝利で終わり、領地を奪われた辺境伯は一人としていなかった。
立ち去ろうとしている黒ずくめの男を、ある辺境伯領の騎士団長が馬で追いかけた。しかし、男が乗っている黒鹿毛の馬はそれよりも速く、とても追いつけない。
騎士団長は必死で男に向かって叫んだ。
「お待ちください、カール殿下! 私です!」
後を追った騎士団長は、カール殿下が率いる騎士団で隊長を務めていたことのある人物だった。
黒ずくめの男は振り返らず、小さく手を振ってそのまま去ったらしい。
その後も戦の勝利は続いた。
混乱していた内政も、若き新王フォークハルトの手腕によって徐々に落ち着いていった。
――というユミール先生の長いお話が終わる頃、ヴィルさんは下唇を突き出してスネた顔をしていた。
彼が下唇を出してしゃくれたハゼのようなひどい顔をする時は、大抵「俺も褒められたい」とか「俺も欲しい」とか、そういうことを言いたい時だ。
「なんなんだよ、その恐ろしく格好の良い話は。俺もそんな英雄伝が欲しい」
ボヤく彼に、くまんつ様が歯を見せて笑った。
「お前だって戦場に行けばチョチョイのチョイでなれるだろうが」
「行ってもいいけど遠いよな? これからの季節は肩当てを着けるだけでも暑いしさぁ」
「英雄は距離だの暑さだのは気にしねぇんだよ」
「エルディルに遠征した時は大変だった。夜は寝心地が悪いし」
「アホウ。英雄はそれでも行くから英雄なんだよ」
ヴィルさんは笑いながら「俺は冬場限定の英雄かな」と言った。
「冗談はさておき、その黒い男は父だったということか」
「名を呼ばれて手を振ったわけですから肯定でしょうね。領主の間では『黒豹が窮地を救いに来る』とのうわさが流れたと手記には書いてありました」
先生はニッコリと微笑んで「カッコイイ英雄伝ですよね」と言った。
それから少しの年月が経ち、カール殿下は唐突にランドルフ公爵として王都へ舞い戻った。
表向きは「王籍を抜ける手続きが未完だったので、陛下が呼び戻した」ということになっていたらしい。爵位も『子』から、貴族の頂点である『公』に変わっていた。
オルランディアは王族にしか公の位を与えないと聞いているので、公爵として戻ったということは、すなわち王族として戻ったということだ。
王太子殿下が生まれる前だったことから、当時の王位継承順は第一位。
陛下の持つ領地の半分がランドルフ公爵領になり、そのさらに数年後、兵部大臣として政治の中心に返り咲いた。
ふとイケオジ陛下が言っていた「もともと我々は二人で一人」という言葉を思い出した。
真ん中に鏡を置いたようにソックリな双子。同じタイミングで肘をつき、同じタイミングで足を組むほどの高シンクロ率だった。
陛下とお父様の間に、普通の人には理解できない絆があっても不思議ではない。
「これは某国の論説ですが……」と、先生は再び人さし指を立てた。
「戦の天才カール殿下と、人たらしと呼ばれたフォークハルト陛下。この二人の逆転人事そのものが、先王の戦略だったのではないか、と書かれていました」
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